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15.拾万石御知行高帳
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資料名:拾万石御知行高帳
資料名(ふりがな):じゅうまんごくおちぎょうたかちょう
年代:寛永元年(1624)
資料番号:森義一文書M01-1
解説:
奥平氏が加納藩主であった、寛永元年時点の同藩領の村ごとの石高などを記したもの。作成者は加納藩代官嶋川太左衛門。
この当時の加納藩領は美濃国内の大名中最大の10万石で、加納城のあった厚見郡だけでなく、方県・本巣・大野・山県・席田・羽栗・各務・安八の計9郡にまたがる広大な領域であった。
図 寛永元年(1624)時点の加納藩領と大垣藩領 [PDFファイル/32.13MB]
加納藩と大垣藩―美濃の譜代大名の中心―:
加納藩の石高は当初6万石であった。慶長15年(1610)、黒野藩(外様・4万石)が美濃国外に転封されると、その領地を与えられて10万石となった。藩領は、加納城を中心にまとまりを持ち、北は本巣郡根尾に至る、広大なものであった。
大垣藩(5万石)は揖斐川を境に、加納藩と接する。大垣城の所在する安八郡を中心に、揖斐川沿いに領地を持ち、西は近江と接する。加納藩と大垣藩の2藩で西濃の大部分を領していた。
また加納藩城下町は中山道の宿場町、大垣藩城下町は美濃路の宿場町であるように、両藩の中心地は同時に交通の要地でもあった。さらに、加納・大垣両藩は、美濃の隣国に抜ける山間交通路も押さえていた。加納藩領の根尾は、峠越えの道で越前と通じ、大垣藩領の池田郡川上村や坂本村からは峠を越えて近江に至る道が複数あった。