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18美濃国の武将高木権右衛門

岐阜県歴史資料館授業に使える当館所蔵史料

18美濃国の武将高木権右衛門

美濃国の武将高木権右衛門・・・信長・秀吉・家康らに仕え、戦国時代を生き抜いた!信長文書秀吉、家康文書

解説

史料*1は、信長から高木権右衛門へ宛てた手紙である。権右衛門が信長に鰹を百尾贈っていたことがわかる。
今でいう、「お中元」であろうか。この手紙から、力をもつ信長が下級の一武将と親しい関わりをもっていたことや、
礼状を送る心配りがあったことに驚かされる。また、史料*2は、秀吉から権右衛門に宛てた手紙である。この手紙から
賤ヶ岳の戦いで勝利した秀吉に、権右衛門が手紙と鶴を贈っていたことがわかる。この戦いでは、多くの美濃の武将が
秀吉に味方したが、権右衛門は中立の立場を保ったという。しかし、秀吉が勝利すると、すぐに連絡を取り、秀吉に従う
意志を示したという。
史料*3は、家康から権右衛門へ宛てた手紙である。この手紙から、権右衛門が関ヶ原の合戦後の論功行賞のお礼として、家康に吉野(奈良県)の敷物を贈ったことがわかる。
戦国時代の武将は、戦で手柄を立て出世するというイメージがある。しかし、これらの史料からもわかるように、合戦後も
主君に対して細やかな心配りをし、信頼関係に努めていたようである。
このように、権右衛門は信長・秀吉・家康らの有力武将に従い、激動の戦国時代を生き抜くことができた稀な武将である。それは、その時々の状況を的確につかみ、生き抜くための判断を誤らなかったことや、仕えた主君に対しては、状況に
応じてきめ細やかな心配りをすることができた人物であったのだろう。権右衛門が戦国時代を巧みに生き抜くことで、
高木家は幕末まで活躍することができたといえよう。

高木家の歴史

高木家は、清和源氏源頼親を祖とし、大和(現奈良県)の高木村に住み氏とした。その後、伊勢国に移り、室町時代の中頃には美濃国石津郡駒野(現海津市南濃町)に城を構えて移り住んだといわれる。
権右衛門の父・彦左衛門の頃になると、斎藤道三や織田信長に従い、駒野と今尾(現海津市平田町)を与えられ、
この地方を根拠としていた。権右衛門は信長から仕えるようになり、嫡男信忠にも仕えた。信長・信忠亡き後は三男信孝に従ったが、信孝と秀吉との関係が悪化すると戦いがおこった(賤ヶ岳の戦い)。この戦いで権右衛門は中立の立場をとったが、戦い後、秀吉に従うようになった。しかし、今度は秀吉との関係が悪化し、信長の二男信雄に従った。勢力争いから信雄と秀吉との関係が悪くなり戦いがおこった(小牧・長久手の戦い)。
秀吉が力をもつようになると、信雄は秀吉の怒りに触れ領地を没収させられ秋田に遠流された。権右衛門も一族と共に遠縁にあたる甲州(現山梨県)の加藤光泰の元に身を寄せた。
文禄4(1595)年、権右衛門は徳川家康に召され、上総国(現千葉県)で1000石を与えられ、慶長5(1600)年、
関ヶ原の軍功により時郷・多良郷(現大垣市上石津町)の内、権右衛門2300石(西家)、次郎兵衛1000石(権右衛門の兄の子:北家)、藤兵衛1000石(権右衛門の弟:東家)を拝領し、翌6年入部した。
この三家は「交代寄合美濃衆」といい、大名格扱いとされ参勤交代を行った。江戸期を通じて普請奉行を勤め、濃州(美濃国)・勢州(伊勢国)・尾州(尾張国)の水利治水事業や所領や周辺の治安維持にあたり明治に至った。有名な宝暦の三川分流工事も高木家はその事業に関わっている。

用語について

播磨神吉攻め(はりまかんきぜめ)

天正6(1578)年、羽柴(豊臣)秀吉を総大将とした播磨攻め。神吉城主神吉頼定は兵約二千人で籠城し、対する秀吉勢は織田信忠、明智光秀、荒木村重ら約三万人で攻め、秀吉勢は頼定の伯父神吉藤太夫を謀略で味方に引き入れ、頼定を暗殺し神吉城は落城したとされる。

賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)

天正11(1583)年、近江国伊香郡(現:滋賀県伊香郡)の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と信長の家臣柴田勝家との戦いである。織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉が勝つことで信長の継承者となることを決定づけた。

小牧・長久手の戦い

天正12(1584)年3月から11月まで続いた豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍との戦い。合戦が少なく、にらみ合いが続いたようである。秀吉は局地戦でしか勝つことができず、信雄と講話した。

上杉攻め

秀吉没後、上杉景勝は領国で大規模な整備を敢行したため、五大老筆頭の家康が釈明と上洛を求めた。しかし、家老の直江兼続が返書(直江状)で拒否し上杉攻めを招いた。これが関ヶ原の戦いを誘引した。小山(現栃木県小山市)まで進軍してきた徳川方が石田三成の挙兵で反転して関ヶ原に向かったとき、上杉軍は最上・伊達軍と戦い撃退するが、三成の敗戦の報を受けて撤退した。戦い後、兼続が結城秀康や本多正信を通じて交渉し、改易(武士の身分を剥奪し領地・家屋敷を没収すること)は逃れたものの米沢三十万石に減封された。

旗本(はたもと)

主として江戸時代に徳川将軍家直属の家臣団のうち、石高が1万石未満で、儀式などで将軍が出席する席に参列することができた武士の総称。もとは戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、徳川時代のみの制度ではない。

交代寄合美濃衆(こうたいよりあいみのしゅう)

美濃衆は、高木西家2300石、高木東家1000石、高木北家1000石の高木氏3家からなり、禄高が1万石以下の旗本でありながら大名と同様に3氏で交代しながら参勤交代をすることが許された。

普請奉行(ふしんぶぎょう)

武家の職名。老中の下で土木工事や武家屋敷の管理などにあたった。

注:解説では丸数字を*1.*2と表記しています。

史料の授業等への利用について

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