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22明治期の自由民権運動

岐阜県歴史資料館授業にも使える当館所蔵史料

No.22明治期の自由民権運動

 ・・・岐阜県での自由民権運動はどのように行われたのかな?


小池勇の師範学校卒業証書
史料1:岐阜県師範学校卒業証書

解説

どうして小池家に自由民権運動の史料があるのかな?

 多治見市池田町の小池家は江戸時代から8代続く眼医者であった。また、明治初年に、約800俵の小作米があるほどの裕福な地主でもあった。明治期の小池家の当主であった勇(いさむ)は教師を務めながら、自由民運動に参加した。後には30年間に渡って池田村長を務めるとともに、岐阜県会議長にも就任した。そのため、小池家には、池田村の村政資料とともに、自由民権運動や郡会、県会など、地方政治に関する資料が残っている。

自由民権運動とはどのような運動だったのかな?

 自由民権運動は明治時代に行われた政治・社会運動である。明治7年(1874)の民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)の提出以降、士族や商工業者、地主らが藩閥(はんばつ)政府による専制政治を批判し、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の改正、言論と集会の自由の保障などの要求を掲げて運動した。運動は政党の結成へと進み、板垣退助(いたがきたいすけ)を党首とする自由党や、大隈重信(おおくましげのぶ)を党首とする立憲改進党(りっけんかいしんとう)が結成された。明治15年に板垣退助が岐阜で遭難すると、運動の盛況は頂点を極めた。
 その後、運動は国会において憲法を制定しようとする動きへと発展した。また、深刻な不況による社会不安を背景に、東日本の各地で民権派が関係した激化(げきか)事件もおきた。特に埼玉県秩父(ちちぶ)地方で、農民らが高利貸しや郡役所をおそった秩父事件は、鎮圧のために軍隊が出動するほどの激化事件あった。こうした運動は政府によりきびしい弾圧を受けて停滞したが、明治22年の大日本帝国憲法の制定へとつながっていった。

小池勇は自由民権運動において、どんな活動をしたのかな?​

政談演説会の史料政談演説会の許可史料
史料2:政談演説会(開会前)史料3:政談演説会(許可)
 小池勇は安政元年(1854)に小池家の長男として生まれた。家業を継ぐために医学の勉強を始めるが、後に上京して英語を学んだ。帰郷した勇は、明治8年(1875)に岐阜師範学校を卒業して教師となると、郡長に意見書を提出して郡教育会議の開催を求めた。また、教員を集って開催した研究会で議長を務めるなど、教育の振興を図る活動をした。
 勇は明治13年に教師を辞職すると、自由民権運動に参加し活動した。愛岐日報の記者となった後、岐阜県や愛知県で自由党系の弁士として活躍した。明治14年には、愛知県知立(ちりゅう)村での演説が集会条例違反とされ、逮捕された。
 明治15年には、資産を売って経世社を設立すると『経世新誌』や『学事新報』を発行し、自由民権を訴えた。しかし、警察の圧力や経済的に困窮したために、明治16年に経世社を解散した。
 帰郷した勇は、明治17年に養正(ようせい)学校(現多治見市立養正小学校)の校長に迎えられると、土岐郡教育会議でも活発に活動した。しかし、勇は自由民権運動にも関与し続けた。7月には静岡県の高利貸しを襲撃し、借金証書を破棄した静岡事件に参加した。明治18年、勇は授業中に逮捕された。勇は国事犯(こくじはん)としての処罰を希望したが、強盗罪で裁かれた。そして、懲役12年の判決を受けると、致死率が2割を越える北海道の空知(そらち)監獄へ収監された。

自由民権運動が弾圧を受けた後、小池勇はどうなったのかな?

自叙伝の表紙逮捕される小池勇の史料
史料4:自叙伝(表紙)史料5:逮捕される勇
 勇は模範囚であったので減刑となり、明治30年に釈放された。
地位も資産も失っての池田村への帰郷であったが、村民から手厚く迎えられ、明治31年に村長に就任すると、通算30年間務めた。また、郡会議員や県会議員も務め、明治40年には県会議長にも就任した。
 参政権や憲法の制定を求めた自由民権運動は中途でついえた。
しかし、その波紋は欽定ではあっても憲法をもたらし、制限はあっても議会を設立することにつながった。そして、さらには次代の大正デモクラシーを規程していった。
 自由民権運動に参加し、地方政治において活躍した小池勇や、勇を支持した民衆は、まさしく日本の近代社会を規程していった郷土の先人であろう。

史料の授業等への利用について

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