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20尉殿堤修復之上・・

岐阜県歴史資料館授業に使える当館所蔵史料

No.20尉殿堤修復之上長良川古々川通築切目論見絵図

 じようどのつつみしゆうふくのうえふるふるかわどおりつききりもくろみ
「尉殿堤修復之上長良川古々川通築切目論見絵図」
 ・・・・長良川が三つに分かれていた!?

尉殿堤修復之上長良川古々川通築切目論見絵図

解説

 この絵図は、明治4年5月に作成されたもので、絵図内にあるどこかの村が作成したのか、あるいは、役所がまとめたものなのかは不明である。絵図から推測すると、古々川や古川の北側にある村々から古々川の締切を県に願い出た絵図ではないかと考えられる。それは、江戸時代の中頃より古々川・古川・鳥羽川・伊自良川・板屋川が集まる正木、木田、則武、島から河渡にかけては水害が何度も起こり、各村々からは堤防工事の嘆願を代官所に出していたからである。
 明治に入っても長良川の流路は変わることなく、崇福寺の辺りから三つに分かれ、鏡島の辺りで合流していた。
そのため、その周辺では水害を防ぐための輪中が形成されていたことが絵図からもよくわかる。
 絵図中央右※には斜めに朱書きの線が引かれ、そこに「新規目論見場所」と書かれている。さらに絵図をよく見ると、「新規目論見場所」の左側に朱書きで「尉殿堤ト云」と書かれている。ここでいう「尉殿堤」とは、慶長10(1605)年頃、黒野城主であった加藤左衛門尉貞泰(かとうさえもんのじょうさだやす)が築いたといわれる猿尾のような水除けのことである。絵図をよく見ると「新規目論見場所」と書かれた辺りに黒い点が描かれており、これは古川と古々川に挟まれた輪中先端から黒い点のところまで「尉殿堤」があったことを示している。それは絵図につけられた付箋からも読み取れる。付箋には、尉殿堤が半分あまりしか築造されておらず、しかも壊れて放置してあったため、水除けの機能を果たしていなかったことや、新しく締切堤を築造することが書かれている。
 つまり、この絵図は、尉殿堤を復旧するだけではなく、対岸の中福光村と鷺山村の間まで延長しようと計画した絵図と考えられる。
 残念ながらこの計画はすぐには実現せず、目論見絵図が描かれてから68年後の昭和14(1939)年の古川・古々川の締切完成まで待たなければならない。

用語について

築切(つききり)
 締め切るという意味
目論見(もくろみ)
 計画という意味
尉殿堤(じょうどのつつみ)
 方県郡黒野(現岐阜市黒野)城主加藤貞泰が領有する鷺山や則武、黒野、木田などの地が古々川の氾濫によって常に
水害を被っていたため、貞泰は一夜にして締め切ろうと領民を集め工事に取りかかった。しかし、工事が半分ほど進んだ
ところで加納藩の知るところになり工事を中止した。
 現在、岐阜県立希望が丘学園(現岐阜市鷺山向井)の出入り口横に記念碑(昭和15年10月長良川北水害予防組合建立)が建っている。
猿尾(さるお)
 治水工法の一つで、川の水勢を抑えるために岸から川の中央部に向かって突き出した土手のようなもの。岸から細長く伸び、まるで猿の尾のように見えるのでこの名がついた。

こぼれ話

 三つの川(古々川・古川・長良川)で一番古い川は??
『岐阜県の地名日本の歴史地名体系21』によると、天文3(1534)年頃には絵図で示されている古川が流れていたという。しかし、天文3年の大洪水で早田の馬場(ばんば)あたりで井水口が破壊し長良川をつくり、慶長年間(1596〜1615)の長良川洪水で古々川ができたという。ところが寛永13(1636)年に馬場にあった長良川役所が中川原に移されていることから、この頃までに流路は主として長良川を通り、出水の度合いが大きくなるにつれて古川、そして古々川と通水する状態であったと考えられる。

史料の授業等への利用について

申請書(様式[Wordファイル/30KB])を歴史資料館へお送り下さい。


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