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10揖斐川長良川中須川村絵図面

岐阜県歴史資料館授業に使える当館所蔵史料

No.10揖斐川長良川中須川(通十ヶ)村絵図面

「揖斐川長良川中須川(通十ヶ)村絵図面」
【購入文書H15】
・・・廃藩置県!加納県・大垣県・犬山県・名古屋県!?
今では存在しない県名が登場!

揖斐川長良川中須川(通十ヶ)村絵図面の画像
<拡大画像は以下のリンクをクリックしてください>

  1. 加納県
  2. 大垣県
  3. 犬山県
  4. 名古屋県
  5. 揖斐川長良川中須川(通十ヶ)村絵図面

解説

明治4年2月、太政官布達により「堤防締役」が設けられ、その役職に当たる者は、最寄りの村より選抜され水行(みずゆき)の点検を仕事とした。この絵図面は、明治4年(1871)9月に安八郡の揖斐川長良川中須川通の笠松県支配村々十ヶ村から、自普請費用、堤外の民家の規模等を調べ、堤防締役から笠松県役所に提出されたものである。絵図面には堤防の長さや高さのほか、堤外の民家の位置に○や△の印と番号が記されている。
このように、江戸時代から繰り返される洪水に、幕府は何度も対策を講じてきたが、大きな成果は上がらず、十ヶ村は常に水害に悩まされ続けていたことが推察できる。
また、この絵図面からは、明治政府が行った政策の一つである廃藩置県の様子が分かる。
廃藩置県とは、明治4年(1871)7月14日、藩を廃して府・県を置き、中央から府知事・県令(後に知事)を派遣して治めさせるという、中央集権国家の形をつくりあげるための改革であった。当初は藩をそのまま県に置き換えたため、現在の都道府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。また飛び地が多く、地域としてのまとまりも弱かった。そこで同年11月には3府72県に統合し、その後、何度も合併を経て県の数は縮小し、明治22年(1889)には1道3府43県となって最終的に落ち着いた。
この絵図には、加納県や大垣県、名古屋県、犬山県など、廃藩置県当初のみに存在した県名がみられることから、廃藩置県直後に描かれた絵図と思われる。同年11月には、美濃国一円の合併も行われ、岐阜県が誕生している。
このように、政府は何度も県の合併を行い、中央集権国家の体制を整えていったのである。

用語について

自普請・・・農民が費用を出して堤防の築造・修理、橋梁の掛け替えなどを行うこと。
水行・・・・水の流れ。江戸時代には水行奉行という役職があった。
廃藩置県当初に存在した県(明治4年7月14日)・・・岐阜県には以下の県が存在した。
高山県(高山市)、郡上県(郡上市)、苗木県(中津川市)、野村県(大野郡揖斐川町)、岩村県(恵那市)
大垣県(大垣市)、高富県(山県市)、加納県(岐阜市)、笠松県(羽島郡笠松町)、今尾県(海津市平田町)

おもしろトピック「どうして廃藩置県はうまくいったの?」

廃藩置県の宣言は人々にとって寝耳に水であったにちがいない。しかし、実際には大きな反対運動はされなかったのである。
廃藩置県のきっかけは、長州藩の鳥尾小弥太と野村靖の2人が、山県有朋を訪ね廃藩論を述べたことによる。即座に同意した山県は、井上馨を通じて木戸孝允に廃藩論をもちかけ、さらに、山県は薩摩藩の西郷隆盛を訪ねた。西郷は山県の提案を受け入れ、大久保利通も同意させる。こうして廃藩置県案は木戸邸で密かに練られたのである。
その後、廃藩置県案はだらだらと議論せず、1ヶ月にも満たない短期日で改革を決断した。廃藩断行には反乱者の出現も考えられたが、予想に反して武力による反対運動はみられなかった(薩摩藩の島津久光は怒り心頭で、夜通し花火を打ち上げ鬱憤を晴らしたという話は有名である)。藩自体は意外に平穏で、多くの士族はこのような日が来ることを受け止めていたようである。
反乱が起こらなかった理由は、

  1. 明治2年(1869)の版籍奉還で、全国の土地と人民は政府(天皇)のものであることが制度上確認されていたこと。
  2. 士族の多くも中央集権化を必要とする「時代の変化」を意識していたこと。
  3. 旧藩の債務を政府が引き受けることになり借金から解放されたこと。

などが考えられる。

史料の授業等への利用について

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