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9帆引新田田畑普請願絵図

岐阜県歴史資料館授業にも使える当館所蔵史料

No.9帆引新田田畑普請願絵図

「帆引新田田畑普請願絵図(ほびきしんでんたはたふしんねがいえず)」
【岐阜県歴史資料館寄託内田家文書】
明和(めいわ)年間(1764〜1771)に出現した堀田(ほりた)!!

帆引新田田畑普請願絵図の画像

解説

宝暦3年(1753)、江戸幕府は繰り返される木曽川、長良川、揖斐川の氾濫に対して、本格的な治水工事に着手することを決めた。幕府はその工事を薩摩藩に命令し宝暦5年(1755)、治水工事は完成した。その後、洪水回数はやや減少したが、大きな効果は期待できないものであった。
この絵図は、そのような状況の中で明和年間(1764〜1771)に作成された「石津郡帆引新田・田畑普請願絵図」で、帆引新田(現海津町)の堀田作成計画図と考えられる。
水はけの悪い帆引新田では、雨が降り続くと水田や畑はすぐに水没してしまい、作物は水腐れをおこし収穫できなくなった。そこで土地の一部を掘り下げ、一方に土を盛り上げることで土地を高くし稲作ができるようにした。土を掘り取って水田をつぶしたところを「堀つぶれ」、掘り取った土を盛り上げて作った水田を「堀り上げ田」といい、合わせて「堀田」といった。
凡例を見ると、黄色は「此色堀田出来畝(このいろほりたできせ)」とあり、堀り上げ田を示している。また、青色で「此色堀田潰地江通(このいろほりたつぶれちえどおり)」とあり、直線で描かれているのが「堀りつぶれ」である。青色で大きな形をしたものは池を現している。おそらく、水はけの悪い土地で繰り返される洪水により、大きな池がところどころにできあがったのであろう。
堀田とは、輪中の低地に生きる人々が洪水との戦いの中から米の生産を高めるために考え出した、まさに生きるための術であったのであろう。

用語について

帆引新田(ほびきしんでん)・・岐阜県海津市平田町

普請(ふしん)・・・・家を建築したり修理したりすること。建築工事。また、道・橋・水路・堤防などの土木工事。

史料の授業等への利用について

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