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8らくだの図

岐阜県歴史資料館授業に使える当館所蔵史料

No.8らくだの図

「らくだの図」【昼飯村文書5号・120号】
・・・らくだが美濃路を通った!?

らくだの図の画像1
らくだの図の画像2

解説

文政4年(1821)6月、オランダ人が長崎へらくだを持ち込んだ。そのらくだは垂井宿から美濃路へ入り東海道を通って江戸へ運ばれ、文政7年(1824)8月、江戸で行われた見世物興業は大好評を博した。その後、10年以上もかけて日本各地を巡回したという。らくだの通行を目にした人々がその当時の様子を絵にしており当館にも2枚の絵がのこされている。
一枚目の史料(昼飯村文書5号)には、らくだの体に薄い赤茶色、爪には灰色の着色がみられる。また、説明書きもある。当時の人々はらくだを見て、どれほど驚いたことだろうか。
また、もう一枚は、玉屋源治郎の出した木版画らくだの図(昼飯村文書120号)である。その中に「夫婦中むつましき事此うへなし一度是を見れば其気を得てともに中むつましくなると言伝ふ」とあり、らくだは夫婦同伴の意味として、当時流行語になったようである。
江戸時代、鎖国政策により、中国とオランダ、朝鮮の一部に貿易は限られていたが、それらの国を通して様々な外国の文化が伝わったようである。
このように、江戸で見世物興業があったということは、この時代の情勢が安定していたのであろうか。

用語について

昼飯村・・・現大垣市昼飯町。戦国時代の文書に「西美濃昼居」「ひる井」との記述がある。江戸時代〜明治30年(1897)までは不破郡昼飯村。その後、昭和29年(1954)までは青墓村大字昼飯。昭和42年(1967)まで赤坂町大字昼飯。

地図

美濃路・・東海道宮の宿(熱田)と中仙道垂井の宿を約58Kmで結び、途中名古屋、清須(清洲)、稲葉(稲沢)萩原、起、墨俣、大垣の七つの宿があった。美濃路は脇往還としても重要な街道として位置づけられ、早くから一般の旅人だけでなく、西国諸大名たちもこの美濃路を利用した。
はるしや国・・・現イラン国
九尺・・・1尺は、曲尺(かねじゃく)では約30.3センチ。9尺は約2.7メートル
弐間・・・1間はふつう6尺(約1.82メートル)の長さ。弐間は約3.64メートル

史料の授業等への利用について

申請書(様式[Wordファイル/30KB])を歴史資料館へお送り下さい。


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