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2佐渡川船橋絵図

岐阜県歴史資料館授業に使える当館所蔵史料

No.2佐渡川船橋絵図

佐渡川船橋絵図
・・永久の橋をかけないのはなぜ?

佐渡川船橋の画像
【岐阜県歴史資料館所蔵美濃郡代笠松陣屋堤方文書】<上の画像をクリックすると大きな画像を見ることができます>

内容

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解説

江戸時代、主要な街道には橋が架けられることはなく、横断するのにはもっぱら渡船が利用された。幕府にとっては、往来の便を良くすることよりも、川の防衛機能を維持するのが目的であったからである。一度大水が出れば川留めとなり、通行人は、宿場で足止めされ、何日も水が引くのを待たなければならなかった。
岐阜県内においては、五街道の一つの中山道が東西を貫く。中山道は、東海道と並び、江戸(東京)と京(京都)を結ぶ大動脈である。その二大動脈を美濃の地で結ぶ街道が「美濃路」と呼ばれる街道であり、中山道垂井から大垣、墨俣を通り、起を経て名古屋に至る道筋である。この美濃路には、佐渡川(揖斐川)、墨俣川(長良川)、小熊川(境川)、起川(木曽川)があり、通常渡船で人や荷物・牛馬を運んだ。しかし、臨時の舟橋がかけられた時がある。それは、将軍への謁見のための朝鮮通信使や、将軍自身が通行するといった特別の場合である。朝鮮通信使は、江戸時代に12回を数えた。
舟橋は、川に船を並べその上に板を張り詰めてつくった臨時の橋である。川舟を始め、必要品については、周辺村々より調達されるため、周辺村々にとっては、臨時の出費となるものだった。この絵図には、佐渡川にかけられた舟橋の様子が描かれている。船数は、80艘で、内50艘は笠松陣屋(幕府)、30艘は戸田采女正(大垣藩)がそれぞれ負担した。

用語について

朝鮮通信使・・・・・・・朝鮮国王が国書および進物をもって徳川幕府の将軍に派遣した外交使節団
佐渡川・・・・・・・・・現揖斐川のこと。それぞれの土地ごとに名称がかわっていた。揖斐川左岸に佐渡村があり、その村周辺で佐渡川と呼ばれた。
戸田采女正・・・・・・・大垣10万石を支配する。采女正(うねめのかみ)は官職名であり、歴代戸田家の藩主は采女正を名乗る
御料・・・・・・・・・・幕府直轄領のこと

史料の授業等への利用について

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