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内山又助書状
3.内山又助書状
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資料名:内山又助書状
資料名(ふりがな):うちやままたすけしょじょう
年代:慶応4(明治元)年(1868)
資料番号:三淵家関係文書175
解説:
熊本藩士内山又助から新政府の弁事役所宛書状の写し。旧領安八郡南今ケ淵村に謹慎していた旧旗本三淵縫殿助が、京都に到着したことを伝える。熊本藩が三淵氏に協力するのは、同族関係にあったためである。またこの資料からは、鈴木六太夫が三淵氏と細川氏との連絡役を務めていたことがわかる。
【旗本三淵氏と熊本藩主細川氏―先祖を同じくする家―】
旗本三淵氏初代の光行は、室町幕府に仕えた三淵藤英の次男である。
藤英と長男秋豪は、将軍足利義昭が織田信長と対立した際、義昭方につき信長の命により切腹させられた。
光行は信長方についた伯父細川藤孝に養育され成長後、徳川家康に仕えた。藤孝の孫忠利は熊本藩主となるが、光行の次男藤正は熊本の細川家に仕え、名字を郡とした。また三淵氏五代目の正甫は熊本藩士郡氏からの養子であるように、三淵・細川両氏の交流は江戸時代を通じて継続した。
幕末期でも両氏は先祖以来縁故関係が深いと認識しており、それが三淵氏の本領安堵交渉を熊本藩がバックアップする背景となった。
※旗本三淵氏と熊本藩主細川氏の関係はこちら [PDFファイル/360KB]