本文
笠松小研修
笠松小学校6年生が岐阜県歴史資料館で歴史学習
3月6日(火曜日)に、笠松小学校の6年生児童54名が当館へ歴史学習に来ました。社会科の歴史学習の発展として、本物の史料に触れ理解を一層深めようと来館したものです。2クラスが午前と午後に分かれて、それぞれ1時間ほどの学習をしました。普段容易には目にすることの出来ない本物の史料に見入りながら、次のような学習をしました。
1:天下統一をめざして美濃国に進出した織田信長・1567(永禄10)年9月、稲葉山城を攻め落とした織田信長は、北加納(岐阜市)の農民たちに制札(写真1)を出したが、この制札に書かれた信長の花押(麒麟の花押)から、このころには既に天下統一への願いをもっていたことが読み取れる。・稲葉山城に移った信長は、その辺りの地名が井口であったのを岐阜に改める。これは、天下を取るのにふさわしい名前にしようとしたことによる。・稲葉山城に移った信長は、「天下布武」の印を使って天下統一への願いを公に示すようになった。1573(天正元)年10月8日に越前(福井県)の小武弥三郎に宛てた、土地の支配を許可する書状(写真2)にも「天下布武」印が押されている。
写真1:岐阜市円徳寺蔵)、写真2:真剣に説明に聞き入る児童達
2:関ヶ原の戦いに勝った徳川家康・1600(慶長5)年9月15日の関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は、8日後の23日に安八郡の村々(現輪之内町辺)へ禁制(写真3)を出した。これは、この辺りで乱暴を働く者は厳罰にすることを知らせたもので、これからは自分が天下を治めていくことを示したものである。
写真3:信長・家康の書状を見ながら説明を聞く児童達
3:全国測量をした伊能忠敬・全国を測量して正確な地図を作った伊能忠敬は、美濃や飛騨の測量も行っていた。1814(文化11)年3月29日、飛騨の測量に向かおうとしていた忠敬は、飛騨郡代に手紙(写真4)を送って、飛騨の村々に宿の用意等で協力するように命じてほしいと依頼した。また、忠敬らは測量の途中で中呂村(現下呂市萩原町)の名主大前久左衛門の家で小休止したが、久左衛門は、その時の様子を飛騨郡代に報告していて、その控え(写真5)が残っている。忠敬らの持っていた測量器具の絵が描かれている。
写真4、写真5:忠敬の測量隊が通った道筋
4:オランダ語の医学書を翻訳して解体新書を編集した杉田玄白ら・杉田玄白らが翻訳した解体新書を見た大垣藩の医師江馬蘭斎は、西洋医学の素晴らしさに感心し、46歳で江戸に出て、杉田玄白から解体新書の講義を受けた。江馬家に残る解体新書(写真6)はそのころのもので、最初の時期に発刊されたものである。
写真6、写真7:宝暦治水工事と輪中の説明を聞く児童達
5:宝暦治水工事と輪中の村々について・宝暦治水工事の結果、水害が少なくなった所と多くなった所ができ、争いが起きた。水害が少なくなった村と多くなった村を色分けして表したのが益村・障村色分け絵図(写真7)である。裁判の結果、大槫川の洗堰を取り払えとした障村の訴えは退けられた。
以上、主な学習の内容を紹介しましたが、児童たちは熱心に話を聞き、一生懸命にメモを取っていました。熱心な学習態度に感心しました。本館をこのように利用していただけることは大変にありがたいことです。今後も利用希望の学校(小・中・高を問わず)がありましたら、是非ともお問い合わせください。
まとめを記入する児童達