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災害体験談12

岐阜市・各務原市林野火災(2002年/平成14年)

各務原市在住男性(当時各務原市消防団稲羽34分団長)

Q:あなたが体験された災害はなんですか

平成14年4月に各務原市で発生した林野火災を、稲羽34分団の分団長として体験した。私は、消防団員として30年活動しており、当時は火災現場の最前線で指揮を執った。

Q:災害が起きた直後のことを覚えていますか。その時に何をされていたか、その後、何をしたのか教えてください。

火災当日、すぐそばで別の火災対応が一段落ついたころ、ふと振り返ると西の山から激しく煙がでていた。

これは大変だと思い、岐阜カントリークラブゴルフ場のすぐ側の山林へ向かった。昼間だったので、ほとんどの団員は会社に出勤しており、すぐに出動できた団員は、わずか10名たらずだった。

ゴルフ場の池から水を取ろうとしたが、放水するべきポイントまで200メートル以上離れていたため、ポンプ3台を中継して、無線で交信しながらホースを4本引いた。山肌を煙がおりてくる中で、3本は延焼防止のためふもとまでのばしてまだ燃えていない木々に放水し、もう1本は中腹の火元までのばして放水し続けた。

Q:災害対応にあたる中で、苦しかったことはなんですか。

一番苦しかったのは、煙を吸って喉が渇いたこと。特に、火もとに近い筒先では、ひどかった。

私は、分団長として筒先付近で放水の指揮にあたっていたが、途中1本のホースが突然破裂するハプニングが発生した。火が燃え広がる速度が非常に速かったが、すぐに交換を指示したため事なきを得た。もう少し交換が遅れていたら、延焼をくい止められなかったかもしれない。

23時ころ火勢が落ち着いたので、ひとまず放水を中止し、事後の対応について協議した。そして、日の出とともに消火活動を再開した。

2日目は、ヘリによる空中消火と地上部隊による消火活動で、火勢は衰えていったが、表面の火が消えても、土の下にある腐葉土が燃えくすぶっていて、突然発火することがあった。そこで、山の上部から順番に土を起こして、水をかける残火処理を行った。

Q:災害対応にあたる中で、苦労したことはなんですが

市の本部や他の分団と連絡をとることに苦労した。携帯電話は、参集してくる団員との連絡のためすぐに電池が切れてしまった。

分団内は、無線で交信して連絡を取り合ったが、他の分団や、市の本部との連絡手段がなかった。この教訓から、市のほうでデジタル無線の導入をしてもらった。これで、現在では他の分団との連絡が可能となった。

消防団OBから差し入れられた、パン、ジュース、お茶、そして市役所から差し入れられたラーメンがとてもありがたかった。

Q:この災害から学んだことはなんですか。

30年やってきたが、今回の林野火災に限らず同じ現場同じ火災は二度とない。マニュアルが作れない。経験が生きる。今回の林野火災対応でも、毎年消防本部と合同で実施している山の中腹からの放水訓練の経験が役に立った。
いざというときのために事前に準備しておくことが大切と考え、団の予算で、のこぎり、バール、ジャッキ、ロープ等をそろえた。

消防本部との連携は特に重要。僕たち消防団は、後方支援部隊。相貌本部の車両に水を供給する作業に従事することもある。これからも、訓練などを通じて日頃からの関係つくりを重視していきたい。

Q:災害対応にあたる上での課題はありますか

今後の課題は、指揮官を育てること。指揮官は自ら動くのではなく、指揮をして部隊を動かす。隊員は指揮に従い行動する。組織で動かなければ、火は消えない。時に現場で団員に対して怒鳴ったりすることもあるが、すべては地域住民、被災者のため。1秒でも早く火を消すこと。それが僕たちの使命。また、消防団員の確保も大きな課題となっている。多くの団員は、2〜3年で辞めていく。長くても5年。最近は、定員の維持をすることで精一杯。

かつて一緒に活動した団員の息子の世代が入ってきている。ただ、自分の息子は団に入れたくないという元団員の方もおり、少し悲しい気持ちになる。

1年でも団員として、地域のために活動していただいたかたに、副団長名で独自に表彰状をお渡ししている。

Q:その他、災害に関して記憶に残っていることはありますか

鎮火後に山を見たら、自分たちが延焼防止のために水をかけ続けたところだけ、きれいに燃えずに残っていた。自分たちがやったことを誇りに思う。

また、ゴルフ場が芝の保護のため普段は絶対許されないゴルフ場への消防車両の進入を快く率先して認めてくれた。大変感謝している。

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