本文
今宿遺跡
所在地
大垣市今宿(いまじゅく)
地図<外部リンク>
時代
弥生時代・古墳時代・中世・近世から現代
発掘状況
今宿遺跡は、大垣市の東部、標高5m前後の沖積地に所在する遺跡で、約1.5km東には揖斐川が流れています。弥生時代から現代の堀田に至る水田跡が、何層にも積み重なって見つかりました。また、弥生時代の終わりから古墳時代前期では、水田跡とともに集落の一部も見つかりました。集落と水田との間には水路が掘られ、その脇にはヤマグワの木が植えられていました。さらに古墳時代前期の水田跡では、農作業によるものと思われる9,000歩以上の足跡が見つかっています。
近世から現代の堀田
地下水位が高い輪中地帯では、一定間隔に溝を掘り、両脇にその土を高く積み上げて稲を植えていました。輪中地帯特有の堀田を呼ばれる水田です。今宿遺跡でも、地表から80cmほど掘り下げたところで、この堀田が見つかりました。
写真1 堀田を検出した様子(東から)
古墳時代中期と中世の水田跡
地表から1mほど掘り下げると山茶碗などが出土し、細長い溝や長方形の遺構が方向をそろえ、まとまりをもって並んでいました。そのまとまりの大きさは条理地割の1段の大きさに近いことから、中世の水田が条里型の地割の中に作られていたことがわかりました。
また、小さな畦畔によって方形に区画された水田も見つかりましたが、畦畔が交差する場所からは古墳時代中期の土器が出土したことから、小さな区画の水田は古墳時代中期のものであり、この時代から中世に至るまではあまり土砂の堆積がなかったことがわかりました。
写真2 古墳時代中期と中世の水田を検出した様子(南から)
弥生時代後期から古墳時代前期の水田跡と足跡
古墳時代中期と中世の水田の下には、洪水による土砂が1m近く堆積していました。この洪水で堆積した土砂を取り除くと、土手のような大きな畦畔で大まかな区画をし、さらにその中を小さな畦畔で区画する水田がみつかりました。さらに、発掘区の西部には微高地があり、そこには竪穴建物や掘立柱建物がありました。微高地の東端には南北に流れる水路が掘られ、その東側の低い場所に水田が広がる景観が見えてきました。この水田は洪水の被害にあっていますが、一旦洪水が収まった後の水田には9,000歩以上の足跡が残されていました。列になって並んだり、水田を横切ったり、弧を描くような足跡があり、何らかの農作業を行ったものだと思われます。足跡の中には、指先の形まで残るものもありました。しかし、この作業を行ったすぐ後に、再び洪水の被害を受け、水田に残された足跡の中に洪水による砂が入り込んだことで、発掘調査により見つけることができました。
弥生時代後期から古墳時代前期の水田や集落の跡は、6層にわたって積み重なっていました。
写真3 微高地の東側に広がる水田の様子(西から)
写真4 水田に残された足跡列(白く塗った部分が足跡、上が北)
写真5 水田に残された足跡(指の形まで残る足跡)
写真6 大きな畦畔で区画された水田(北西から)
写真7 微高地と水路脇のヤマグワの根株(北から)
周りに溝を持つ竪穴建物
微高地で見つかった竪穴建物には、周りに溝を掘って内側に土盛りしたものがあります(外周溝や周堤)。方形に床面を掘り下げ、四隅に柱を立てた様子は、よく見られる竪穴建物の形をしていますが、外周溝や周堤を持つものは少ないです。こうした竪穴建物は、低地の遺跡で発見されることが多いため、雨水の進入防止などのためと思われます。丁度外周溝が途切れた部分が入口にあたると思われます。
写真8 外周溝を持つ竪穴建物(西から)
出土した特殊な遺物
古墳時代前期の遺物の中で、出土例が少ない特殊な遺物を紹介します。
写真9 鳥形木製品が出土した様子
古墳時代前期の微高地東側を南北に流れる水路の肩から出土しました。
写真10 鳥形木製品
胴体と羽を別々に作り、4本のヒゴ状の木釘で固定しています。木釘の穴は8箇所開いており、羽の向きを変えると丁度穴の位置が合います。胴体や羽には部分的に黒い彩色がされ、あまり例を見ないものです。
写真11 土製腕輪
包含層から出土した土製の腕輪の一部で、出土例が非常に少ないものです。表面には放射状の線を描き、赤彩を施しています。