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六里遺跡

所在地

揖斐郡大野町六里・小衣斐・麻生(いびぐんおおのちょうろくり・こえび・あそう)
地図<外部リンク>

時代

縄文時代から江戸時代

平成26年度発掘区遠景(北東から)
平成26年度発掘区遠景(北東から撮影)

平成30年度発掘区遠景(東から)
平成30年度発掘区遠景(東から撮影)

発掘状況

六里遺跡は揖斐川と根尾川に挟まれた平野に立地し、平成26年度発掘区に隣接して大野町史跡「条里(じょうり)跡」が所在します。平成26年度に当センターが行った発掘調査では、縄文時代晩期の土器埋設遺構(どきまいせついこう)や、古墳時代後期の集落跡、中世以降の条里地割に関わる溝や畦畔等を確認しました。また、平成29・30年度は平成26年度発掘区の西側を調査し、古墳時代後期から中世以降の遺構を確認しました。

縄文時代の遺構

土器埋設遺構
土器埋設遺構(北から撮影)<平成26年度調査>

土器集合写真
土器埋設遺構に使われていた土器<平成26年度調査>

平成26年度の調査では、現在の地表の約1メートル50センチメートル下で、縄文時代晩期(ばんき)の土器埋設遺構を検出しました。2個体以上の土器を組み合わせて設置されており、このような遺構は当時の墓と考えられています。全部で11基あり、土砂に覆われていたため非常に良好な状態でみつかりました(深鉢1深鉢2)。

古墳時代後期の遺構

竪穴建物と掘立柱建物
竪穴建物と掘立柱建物(西から撮影)<平成26年度調査>

竪穴建物完掘状況(南から)<平成29年度調査C地点>
竪穴建物完掘状況(南から撮影)<平成29年度調査C地点>

溝から出土した遺物や礫(北東から)<平成30年度調査D地点>
溝から出土した遺物や礫(北東から撮影)<平成30年度調査D地点>

溝から出土した土器<平成29・30年度>
溝から出土した土器<平成29・30年度調査>

平成26・29・30年度の調査では、古墳時代後期と考えられる竪穴建物28軒、掘立柱建物跡6棟などを確認しました。竪穴建物9軒には北側や東側の壁に、カマドが備え付けられていました。平成26年度に調査した集落域東端の掘立柱建物は、「総柱(そうばしら)」と呼ばれる建物で、南(白)から北(緑)へ建て替えられていました。また、東西方向の溝から残りの良い土器や礫がまとまって出土しました。

奈良時代

掘立柱建物完掘状況(南東から)<平成29年度調査A地点>
掘立柱建物完掘状況(南東から撮影)<平成29年度調査A地点>

掘立柱建物の完掘状況です

掘立柱建物完掘状況(東から撮影)<令和3年度調査>

平成26・29・30年度、令和3年度の調査では、竪穴建物1軒のほか掘立柱建物2棟などを確認しました。2枚の写真は掘立柱建物の完掘状況で、方形に近い柱穴が規則的に並んでいる様子がわかります。柱穴の大きさは一辺が63センチメートルから92センチメートルで、やや大型のものといえます。建物の一部しか確認できなかったため、建物の規模や性格は不明です。六里遺跡の西に位置する古代寺院の大隆寺(だいりゅうじ)の造営と連動した集落が営まれた可能性があります。

平安時代以降の遺構

里境溝
里境溝完掘状況(北から撮影)<平成26年度調査>

条境溝完掘状況(北東から)<平成29年度調査>
条境溝完掘状況(北東から撮影)<平成29年度調査>

大野町は古代の土地区画である条里地割が残ることで知られています。平成26年度の調査では、「五里」と「六里」の里境(りざかい)、平成29年度調査では「十一条」と「十二条」の条境(じょうざかい)と考えられる溝を確認しました。六里遺跡では、古代以降広い範囲が水田として利用されており、その取水溝として設置されたと考えられます。

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