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第49集三宅武夫家第5部

岐阜県歴史資料館 所在史料目録

第49集 三宅武夫家文書目録

第5部 その他

年月日 文書名(内容) 文書番号
大正12年〜昭和54年1月 諸稿断片 本音とたてまえの間 1 5-1-0
昭和40年2月2日 五十分授業の実態(授業時間の不足をいうけれど)   5-1-1
昭和41年10月15日 二郎の友人平方久直のこと(平方久直は一生を通じて得た友人だった)   5-1-2
年月日未詳 私に有縁の人 血族の中の誰彼も   5-1-3
昭和43年12月27日 友人曽我部芳郎のこと   5-1-4
(昭和43年12月28日) 中日新聞切抜(曽我部芳郎「求刑」どおり無罪 知事選をめぐる名誉棄損判決)とそれに対する三宅の和歌4首   5-1-5
昭和43年12月29日 二郎の作文を褒めた石田校長のはなし   5-1-6
年月日未詳 履歴考(自分の履歴書稿)   5-1-7
昭和43年12月11日 今年十二月十二日六十五歳   5-1-8
昭和44年1月5日 (年賀葉書)吹田市津雲台堀田富貴から三宅武夫宛   5-1-9
昭和37年9月21日 自分の墓について(墓、葬儀のこと)   5-1-10
昭和48年1月10日 (右の話に関する安藤三郎・高山清・石田・小坂・高橋の感想)   5-1-11
昭和33年4月25日 自分の墓について再考(1979.1.改稿朱書あり)   5-1-12
年月日未詳 宮沢賢治に私する歌   5-1-13
昭和33年4月25日 (宮沢賢治に私する歌原形)   5-1-14
(昭和37年9月30日) 何故中学校の校長なんかになる気になったか 23年6月30日−(37年9月30日)   5-1-15
年月日未詳 本屋の墓のこと(写)じん五 みやけたけを   5-1-16
昭和39年4月15日 退職者の愚痴(校長の心構えについて)   5-1-17
年月日未詳 一族唄が下手な理由と本家のくらしの一面   5-1-18
年月日未詳 お連婆さんの昔語りI(殿様えんしょのこと)   5-1-19
年月日未詳 馬鹿な話II   5-1-20
大正12年〜昭和2年 生長のあと 歌と生活 大正12年(より)昭和2年(迄)5年間の落書(師範時代の回想あり)   5-1-21
(昭和12年)12月25日 (御奥様には御芽出度の御由に付手紙)兵庫県武庫郡瓦木村西海知子から松山市六軒家町三宅木菟宛(この文書奥野寿子宛手紙案が台紙に書かれいる) 1 5-2-0
昭和34年2月18日 新聞切抜(成田克矢「教師の歴史(16)思想事件」) 1 5-3-0
(昭和41年) 断簡原稿(このうちには苗木藩青山胤道のことを書いて7人に意見を求めるものや二宮泉先生宛の手紙案がある) 1 5-4-0
昭和42年1月15日 昭和四十二年中津地区成人式開会の辞(下書)三宅武夫 1 5-5-0
昭和42年2月4日 (陣屋付近略図) 1 5-6-0
昭和42年3. 広報いわむら第29号(通刊編186号)恵那郡岩村町役場発行(この文書三宅武夫「一斎先生肖像画贈呈の弁」をのせる) 1 5-7-0
年月日未詳 (邦チャンの)弔辞(下書) 1 5-8-0
年月日未詳 西尾彦朗著 移りゆく山村(阿木気質)(装幀案) 1 5-9-0
年月日未詳 年代表(『岐阜県史』のコピー) 1 5-10-0
昭和30年3月〜(昭和55年) 借而不舎一、二、三 1 5-11-0
昭和48年3月6日 教科研中間集会への参加所感 三宅武夫   5-11-1
年月日未詳 草木染講習記録(下書)   5-11-2
年月日未詳 草木染講習余滴   5-11-3
年月日未詳 法事松一足跳の事   5-11-4
(昭和39年) (『東京通信に付感想手紙案』)   5-11-5
年月日未詳 親父夜中ニ飲酒の事   5-11-6
(昭和42年) 1967岐阜県勤美展出品勧誘文案   5-11-7
年月日未詳 市広報報告原案文−三万円寄付−(丹羽康氏市史編集費中)   5-11-8
年月日未詳 (吉村)源斎のすて石について(下書)中津公民館長三宅武夫   5-11-9
年月日未詳 (文楽首の話)   5-11-10
年月日未詳 原稿執筆依頼者名一覧表(孔版)   5-11-11
昭和46年7月3日 (本協会機関誌「濃飛の文化財」(創刊号)原稿執筆依頼について(孔版))岐阜県文化財保護協会会長江口三五から三宅武夫宛   5-11-12
年月日未詳 (ごへいもち)(下書)   5-11-13
年月日未詳 (年中行事調査書の)序(文原稿)恵那地区公民館連絡協議会長田口久治(三宅武夫執筆)   5-11-14
年月日未詳 (結婚へ踏切るつもりに付手紙案)武井宛   5-11-15
年未詳.3月1日 (ご揮毫のよみ方お洩し頂き度に付手紙)堀井昭美父六六翁堀井幸蔵から三宅武夫宛   5-11-16
昭和40年5月10日 (交通事故見舞御礼状案)三宅武夫   5-11-17
年月日未詳 文化行政(原稿)   5-11-18
年月日未詳 (源頼朝と徳川家康)(原稿下書・反古)   5-11-19
年月日未詳 医王寺の解説(展示資料用下書)   5-11-20
(昭和55年) (七十七老の思い)   5-11-21
年未詳(11月21日・22日) (十一月二十一日二日)染色展第一回案内(状下書)   5-11-22
(昭和37年12月) 教育価値観の転換・東洋経済発行日本現代史大系教育史宮原誠一(著写)   5-11-23
年月日未詳 師と友七月号現代の危機と信条(写)   5-11-24
年月日未詳 (女教師)内雇の構想(原稿)   5-11-25
昭和37年2月19日 曽木座談会の結論(下書)   5-11-26
(昭和48年12月) (年金に付御尋ね手紙案)   5-11-27
(昭和43年12月) (恩給に付御尋ね手紙案)三宅武夫から水野宛   5-11-28
年月日未詳 ((神坂事件の中)竹内先生の帰県に付御礼手紙案)三宅武夫から原弥三郎宛   5-11-29
昭和30年3月 職業と趣味と−30.3生徒工場について−   5-11-30
昭和37年8月28日 (丈夫になって帰られたことに付手紙案)三宅武夫から肇宛   5-11-31
(昭和34年4月) 同窓会館落成式(挨拶原稿案)   5-11-32
(昭和34年4月) (同窓会館に托する夢)(下書)   5-11-33
(昭和37年) (土屋鴻の作った『藤井耕一夢のアルバム』に付感想手紙案)   5-11-34
年月日未詳 師と友六月号(の)我々の現代生活信条(写)   5-11-35
(昭和37年) 挨拶・川上三太郎氏のおやすみじごく   5-11-36
年月日未詳 幽霊   5-11-37
年月日未詳 姑と嫁の間の溝   5-11-38
(昭和41年) 年中行事について   5-11-39
年月日未詳 (結婚式式辞案)   5-11-40
年月日未詳 教師の呪文(後欠)   5-11-41
(昭和41年) 正しいものは何か   5-11-42
(昭和27年〜昭和36年頃). 歌屑   5-11-43
年月日未詳 恵麓新聞切抜(さらば十二回生 卒業生に贈る 校長三宅武夫)   5-11-44
昭和33年9月 (教師と政治)   5-11-45
年月日未詳 (中津川市史撮影スライド説明原稿)   5-11-46
昭和38年5月28日 明知部会教育会講演(原稿)案山子雑話(執筆構想)   5-11-47
(昭和38年5月24日) (教員総会講演依頼葉書)恵那郡教員第一部会長大内敏夫から中津川中央公民館長三宅武夫宛   5-11-48
昭和38年5月25日 東婦人会(挨拶原稿)   5-11-49
年月日未詳 (市長立候補直前の政治情勢に付返事手紙案)三宅武夫から西尾(彦朗)宛   5-11-50
年月日未詳 結婚式の形考   5-11-51
昭和43年11月17日 (新郎古沢□□・新婦小島□□結婚式司会の辞原稿)司婚者三宅武夫   5-11-52
年月日未詳 惜不舎集二(中表紙)   5-11-53
年月日未詳 中津川ホテル(平面図)   5-11-54
(戦前) (児童を導く)(後欠)   5-11-55
(戦前) (青玄会僅当三年の中に欠くるものが出来たに付手紙写)矢の喜志雄から(三宅武夫宛)   5-11-56
(戦前) (作文)センセイ(写)一松 中川チヅ子   5-11-57
(戦前) (作文)センセイトボク(写)一松 玉造ヨシ文   5-11-58
(戦後) 代用付属校長候補者についての愚見   5-11-59
(昭和21年春) (母校学校長に)立言雑録(秘)−妄言多謝−   5-11-60
昭和37年8月 (三宅武夫の講演について)   5-11-61
年月日未詳 (校長十三年)(後欠)   5-11-62
年月日未詳 山岡小PTA(での講演原稿構想)   5-11-63
年月日未詳 (中津川市西婦人会報うめ草原稿・仕事について)   5-11-64
昭和42年3月7日 (於福岡公民館)恵公連研修会(メモ)   5-11-65
(昭和41年) 老人会のはなし(構成案)   5-11-66
昭和36年1月23日 (中津川市立第二中学校PTA)役員会(メモ)   5-11-67
年月日未詳 木曽旧記(写)   5-11-68
年月日未詳 (テレビ普及後の青年団活動)(下書)   5-11-69
年月日未詳 (司婚の詞)(下書)   5-11-70
(昭和41年3月) 公民館雑誌P20 時評 囚人服を推すPTA 重松敬一   5-11-71
年月日未詳 五木の子守歌(のふしで歌う替え歌・二中卒業生)   5-11-72
昭和29年11月3日 (二中講堂竣工祝辞原稿下書)(前欠)   5-11-73
年月日未詳 (権利と義務)(断簡)   5-11-74
年月日未詳 (書の先人の偉業)(断簡)   5-11-75
年月日未詳 (神坂合併の苦悩)(断簡)   5-11-76
(昭和47年) 中津川の教育百年史略   5-11-77
年月日未詳 (新潟地震の後始末・国政・県政の情勢に付手紙案)(断簡)   5-11-78
年月日未詳 (教育警句)   5-11-79
昭和40年7月18日 (於西宮社務所)十区老人倶楽部の話(構成)   5-11-80
(昭和29年3月) (二中第6回卒業式祝辞下書)(断簡)   5-11-81
年月日未詳 (今日の職業教育の在り方)(断簡)   5-11-82
昭和39年12月21日 (恵那地区公民館長申合事項覚)   5-11-83
昭和38年4月7日 (記録を残すことについて)中津公民館長三宅武夫   5-11-84
昭和34年10月2日〜昭和45年12月12日 雑 いろいろの断片稿(見返しには「素稿断片四」とある) 1 5-12-0
昭和44年1月 68年1月3日第五回「実のつどい」記録稿   5-12-1
昭和36年6月25日 (惟菩提会)御礼と御報告   5-12-2
年月日未詳 (学力問題)   5-12-3
昭和42年9月18日 坂本公民館(母)加子母(祖父母)   5-12-4
昭和43年2月10日 (三宅武夫草木染展推薦の言葉)松尾吾策・藤村耕一・川口半平   5-12-5
年月日未詳 草木染講習記録   5-12-6
年月日未詳 草木染講習余滴   5-12-7
(昭和42年) 結論中津川市の概観   5-12-8
昭和34年10月2日〜昭和34年12月8日 岐阜県中津川市宮町一町住宅伊勢湾台風ニよる被害修理の始末書   5-12-9
年月日未詳 明治青年談義   5-12-10
昭和42年1月27日 (若い諸君を怒らせる記)   5-12-11
年月日未詳 (近況手紙)愛媛県教委に勤務する内田某   5-12-12
昭和45年12月12日 (三宅武夫)遺言(稿)   5-12-13
年月日未詳 (治療は当分はつゞくに付手紙案)三宅武夫から野田・根石宛   5-12-14
(昭和44年)〜昭和49年1月20日 祝辞弔辞そして履歴書稿 1 5-13-0
昭和49年1月20日 私の履歴の大概 三宅という男   5-13-1
昭和48年4月2日 原軍次先生弔辞   5-13-2
昭和48年4月2日 (御会葬御礼葉書)喪主岐阜県中津川市手賀野原修   5-13-3
昭和47年7月5日 上田利夫君弔辞   5-13-4
昭和48年5月4日 安藤巖君結婚式祝辞   5-13-5
昭和48年8月28日 高橋嘉造弔辞   5-13-6
年月日未詳 (同上氏弔電案)ミヤケタケオからクゼムラツクミ タカハシモリジ宛(上記と同一紙面にあり)   5-13-7
(昭和47年) 私の履歴(母を思う)   5-13-8
(昭和44年) 加知茂君弔辞   5-13-9
年月日未詳 小倉廸也・佐伯経喜君遺作展ニよせて NMSグループ三宅武夫   5-13-10
昭和46年1月12日 三宅武夫履歴書基礎資料   5-13-11
年月日未詳 履歴書をかく基本記録   5-13-12
昭和46年4月 1 5-14-0
年月日未詳 裁判官再任否(原稿は捨てない)   5-14-1
(昭和46年4月) 校長放言(『母と子ども』に書く)   5-14-2
年月日未詳 (母の)「執心為専」   5-14-3
年月日未詳 ポンスたち(前欠)   5-14-4
年月日未詳 恵那地区の人々(昭和29年2月稿の写)   5-14-5
(昭和44年) 教育マゝと学校教育   5-14-6
年月日未詳 この道(三宅武夫の少年時代の詩写)   5-14-7
年月日未詳 (教材用としてポスター分与)御願(反古)聖徳学園女子短期大学部二年代表京都市高見真由美外17人   5-14-8
年月日未詳 相撲   5-14-9
年月日未詳 悪童(大正期の岐阜師範生徒)   5-14-10
年月日未詳 吉村文書(吉村源斎)   5-14-11
昭和46年9月3日 屁のような話 1 5-15-0
年月日未詳 屁について   5-15-1
昭和46年9月3日 放屁談義 へのようなはなし   5-15-2
年月日未詳 西瓜泥棒懺悔録(古稀になった悪童達)   5-15-3
(昭和50年3月) (忘年会挨拶)屁のような話   5-15-4
(昭和46年3月) 文化会館について(見返しには「1970年中津川に文化会館が建つ」とある) 1 5-16-0
年月日未詳 「文化」という名の「もの」「事」   5-16-1
年月日未詳 西尾彦朗と文化会館   5-16-2
年月日未詳 (中津川市文化の方向)   5-16-3
昭和49年3月18日 中津川市議会報告(印刷)日本共産党中津川市委員会発行   5-16-4
(昭和49年春) (西尾市制に対する)想   5-16-5
(昭和43年) (中津川市文化百年史の構想)   5-16-6
(昭和49年)7月4日 ひねくれのうらばなし(見返しには「自作の彫刻などの製作うらばなし」とある) 1 5-17-0
年月日未詳 説明(面について)   5-17-1
年月日未詳 面 つくりについて   5-17-2
(昭和49年)7月4日 放言(古稀老人放言)   5-17-3
年月日未詳 雅号物語り   5-17-4
(昭和49年) あるひねくれの記(生涯最上の日の今日だ・倉ん中にゃ一つめ小僧はおらなんだ)   5-17-5
年月日未詳 三又の槍−くらに入れられた記   5-17-6
昭和50年1月17日〜昭和50年3月11日 いろいろの残り(原)稿類 1 5-18-0
昭和50年1月17日 病院の受付娘と染色   5-18-1
年月日未詳 大正十四年二月十三日逃走   5-18-2
昭和50年3月11日 第二中学校卒業式祝辞   5-18-3
年月日未詳 思考源   5-18-4
年月日未詳 コボ達の為の恵那風土記稿   5-18-5
年月日未詳 朝日新聞依頼中部の女草稿   5-18-6
昭和50年9月23日〜昭和50年10月10日 未完成考窮我苦No.1 1 5-19-0
昭和50年10月10日 「未完成考窮我苦」   5-19-1
年月日未詳 沓井健児懐旧 T13卒 三宅武夫   5-19-2
昭和50年10月4日 回想の六十年   5-19-3
(昭和50年) 教育出版協会の注文、随筆風で千五百字(四十年間の言葉の変化)   5-19-4
年月日未詳 教育五十年回顧史談   5-19-5
年月日未詳 (桑名の宮田医師・矢橋大理石の亀山氏の思い出)   5-19-6
昭和50年9月23日 (うちの女房に)黙る(理由)   5-19-7
年月日未詳 お蓮婆様の話「神田」   5-19-8
年月日未詳 (出会い)   5-19-9
年月日未詳 中馬街道 新山号のお産 1 5-20-0
年月日未詳 中馬街道稿訂   5-20-1
昭和50年1月26日改訂 中馬街道−木曽馬とほんや−   5-20-2
昭和45年8月21日・昭和50年6月10日 新山号のお産と徳と安そして孫さ   5-20-3
昭和55年11月15日 (曽木村史調査来訪記録)   5-20-4
昭和51年8月20日〜昭和51年11月17日 紙屑籠・諸稿の下書き 措而不食 弔辞稿 1 5-21-0
年月日未詳 遺言補追   5-21-1
年月日未詳 (共育独言以前)   5-21-2
年月日未詳 (墓の形式等)   5-21-3
年月日未詳 (泣くで、駄痴漢)   5-21-4
昭和51年11月20日 紙屑籠「この紙片」(行動=労働の惣体)   5-21-5
年月日未詳 (三年生の秋)   5-21-6
年月日未詳 消えた乳牛と鞄と靴   5-21-7
年月日未詳 落馬と言上書   5-21-8
年月日未詳 中馬馬子唄   5-21-9
年月日未詳 退官   5-21-10
年月日未詳 明智老人   5-21-11
昭和51年11月17日 (十月三十日お別れパーティ御礼に付手紙案)丸山校長宛   5-21-12
年月日未詳 紙屑籠(朱子学・恵那の人間の三つのこと、51年8月27日市長対談)   5-21-13
年月日未詳 惚れて通えば千里も一里   5-21-14
年月日未詳 (松山での)会進行予定(表)   5-21-15
年月日未詳 (「教育」とは何か)   5-21-16
年月日未詳 (性行為諸歌人作品抜書)   5-21-17
年月日未詳 吉村裕・美保子氏結婚式祝辞   5-21-18
昭和51年8月20日 丹羽康平君弔辞   5-21-19
(昭和61年2月7日)〜昭和61年2月17日 恵那の共育・西尾先輩の死去(見返しには「恵那の教育人脈考」とある) 1 5-22-0
(昭和61年2月) (執筆構想)   5-22-1
(昭和61年2月) 西尾先生の略歴   5-22-2
(昭和61年2月) 弔辞初稿   5-22-3
(昭和61年2月) 西尾彦朗氏略歴表   5-22-4
昭和61年2月8日 (三宅武夫)弔辞(石田和男執筆)   5-22-5
(昭和61年2月) 西尾先生の略歴考   5-22-6
昭和61年2月8日 西尾彦朗氏弔辞考(下書)代表三宅武夫   5-22-7
昭和61年2月17日 (西尾先生の思い出原稿依頼手紙)恵那教育研究所長石田和男・『恵那雑巾』誌編集部から三宅武夫宛   5-22-8
(昭和61年2月7日) (弔辞の考えがまとまりませんに付手紙案か)   5-22-9
(昭和61年2月9日) 朝日新聞切抜(元中津川市長西尾氏の葬儀)   5-22-10
年月日未詳 恵那屁族   5-22-11
年月日未詳 恵那郡内での(西尾ら教員)位置考察(第5回中津川市教育研究学会資料)   5-22-12
(昭和61年2月) (西尾先生弔辞)稿 三宅武夫   5-22-13
(昭和61年2月) (西尾先生弔辞稿)   5-22-14
年月日未詳 (昭和24年7月26日迄の西尾彦朗履歴書)(コピー)   5-22-15
年月日未詳 私の想出話−分かるよい先生−弔辞−恵那教育系譜考・何を調べるのか・私の履歴と久米爺 1 5-23-0
年月日未詳 私 想出話   5-23-1
昭和25年12月12日 分る=よい=先生考−PTAは学校教育の後援会ではない−   5-23-2
年月日未詳 弔辞(二中に昭和二十七年に来た人)   5-23-3
年月日未詳 恵那地域の教育系譜考(根っこ)   5-23-4
年月日未詳 時代区別   5-23-5
年月日未詳 (西尾彦朗市長の話を聞く)   5-23-6
年月日未詳 何をいうべきか(標準語か方言か)   5-23-7
年月日未詳 年表(1170〜1957)   5-23-8
年月日未詳 だじや松・やだ境についての御尋ね(手紙案)   5-23-9
年月日未詳 (私の)生家   5-23-10
年月日未詳 (久米さという老人)   5-23-11
年月日未詳 身辺歴史考(全国史年表)(三宅武夫や恵那地域のことは記述なし) 1 5-24-0
年月日未詳 高等官便所譚・赤紙の始末記 1 5-25-0
年月日未詳 高等官便所使用の顛末   5-25-1
年月日未詳 赤紙の始末記   5-25-2
年月日未詳 君死に給うこと勿れ−教児出征−   5-25-3
昭和32年1月1日 (年賀葉書)岐阜市鍵屋東町水谷儀一郎から三宅武夫宛 1 5-26-0
(昭和40年1月1日) (年賀葉書)土岐地方事務局大前保次郎から三宅武夫宛 1 5-27-0
(昭和60年) (正月用食器展案内絵葉書)矢筈窯青山鉄郎から三宅先生宛(26〜28は、25に挟んであった) 1 5-28-0
平成7年2月26日 父のアルバム−三宅武夫の生涯− 三宅鴻・醇作製(三宅武夫の五年祭で、参列者に配られたもの) 1 5-29-0
平成7年2月26日 (父の五年祭・『父のアルバム』に付)ごあいさつ(プリンター印字)三宅鴻   5-29-1
(平成7年2月26日) 父のアルバム作成の記(プリンター印字)三宅醇   5-29-2
(平成7年2月26日) (三宅武夫年表)(プリンター印字)   5-29-3
(平成7年2月26日) (写真)解説(プリンター印字)   5-29-4
平成10年6月 孫たちと語るはるさんの思い出 1 5-30-0
年月日未詳 (はるの正装座像写真)(カラー)   5-30-1
年月日未詳 (武夫・はる夫婦金婚記念写真)(カラー)   5-30-2
年月日未詳 はじめに 三宅鴻   5-30-3
年月日未詳 編集後記 三宅醇   5-30-4
年月日未詳 (中津川・書斎のはる写真)(カラー)   5-30-5
年月日未詳 (春日井・庭のはる写真)(カラー)   5-30-6

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