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第49集三宅武夫家第3部
岐阜県歴史資料館 所在史料目録
第49集 三宅武夫家文書目録
第3部 原稿1・著作本
年月日 | 文書名(内容) | 数 | 文書番号 |
---|---|---|---|
1 教育全般 | |||
昭和5年9月20日〜(昭和58年8月26日) | 中津川ニ生きた私 | 1 | 3-1-1-0 |
年月日未詳 | 雑誌記事コピー(「中津川」・恵那雑巾・街道文化) | 3-1-1-1 | |
年月日未詳 | 雑誌記事コピー(三宅武夫「足と創意と工夫と」) | 3-1-1-2 | |
年月日未詳 | 中日新聞記事コピー(「岐阜人物人地図」三宅武夫) | 3-1-1-3 | |
昭和53年8月23日 | 中日新聞夕刊切抜(「恵那ぞうきん」の本流か 書きも書いたり四七七冊 元教師だった三宅武夫さん)(コピー) | 3-1-1-4 | |
昭和53年8月23日 | 中日新聞夕刊切抜(「恵那ぞうきん」の本流か 書きも書いたり四七七冊 元教師だった三宅武夫さん) | 3-1-1-5 | |
年月日未詳 | (三宅武夫)「「ぶらんこ」原稿の弁」(孔版) | 3-1-1-6 | |
(昭和55年2月23日) | (大学受験合格御祝に付御礼葉書)恵那市大井町丹羽晶子から三宅武夫宛 | 3-1-1-7 | |
(昭和55年)2月22日 | (『おらあ先生になる』ご恵送御礼・同書翰読者に付手紙)西宇和市町見中学校小川喜久雄から三宅武夫宛 | 3-1-1-8 | |
年月日未詳 | (私の生いたち反故原稿) | 3-1-1-9 | |
(昭和55年) | 八○・三・二九(知人小中教員)異動発表(抜書) | 3-1-1-10 | |
年月日未詳 | 原軍次詩草稿(写) | 3-1-1-11 | |
昭和55年4月 | (理事長就任挨拶状)(孔版)社会福祉法人かやの芽福祉会かやの木保育園理事長梶田福子から三宅武夫宛 | 3-1-1-12 | |
(昭和55年5月7日) | かやの木保育園建設費カンパのお礼(孔版)かやの木保育園園長近藤愛子 | 3-1-1-13 | |
昭和55年5月9日 | (同上件に付三宅武夫の感想文) | 3-1-1-14 | |
(昭和58年) | 八十老人三宅武夫略歴 | 3-1-1-15 | |
年月日未詳 | (恵那雑巾について下書・反故) | 3-1-1-16 | |
(昭和58年) | (八十歳の)私のねがい(下書・反故) | 3-1-1-17 | |
(昭和37年) | (履歴書の記入の仕方)(孔版) | 3-1-1-18 | |
(昭和58年8月26日) | 朝日新聞切抜(やるなあ80翁 中津川の元教育委員長三宅さん) | 3-1-1-19 | |
(昭和58年8月) | 文化学園都市づくりをもとめて-80翁・三宅武夫の世界(展覧会宣伝ビラ・孔版) | 3-1-1-20 | |
昭和54年12月13日 | (私の教育に付)御挨拶(駄弁る)(下書) | 3-1-1-21 | |
(昭和54年) | (『おらあ先生になる』出版祝賀会か挨拶原稿下書) | 3-1-1-22 | |
(1)昭和37年12月9日(2)昭和39年4月20日 |
(1)教育の危機(三宅武夫の論考)(2)或る教育放談-座談会記録-(原稿)(三尾郁夫、仁科某、水野一郎、五十嵐義郎、度会義夫外5人が発言し、三宅武夫は司会をした) | 1 | 3-1-2-0 |
昭和41年1月 | PTAに関する十二章(原稿)(昭和41年1月から「母と子ども」(教育出版文化協会発行)に連載されたもの。この原稿は中津川市史編集用箋を使用) | 1 | 3-1-3-0 |
年月日未詳 | 名刺 教育出版文化協会事務局長村瀬竹夫 | 3-1-3-1 | |
昭和41年4月10日 | (壮行の会案内手紙)(印刷)石原良子を励ます会世話人河出修一から三宅武夫宛 | 3-1-3-2 | |
昭和44年9月〜昭和50年10月20日 | いろゝゝのはなし | 1 | 3-1-4-0 |
昭和47年12月25日 | どうすれば教育は改められるかの雑談 | 3-1-4-1 | |
昭和50年10月14日 | 於南小市教研挨拶 | 3-1-4-2 | |
年月日未詳 | 川柳を突破口にして 坂本小交告東平 | 3-1-4-3 | |
昭和44年9月 | 苗木小学校守る会講演稿 | 3-1-4-4 | |
年月日未詳 | 新聞切抜(働く楽しさ知る農繁期休校 中津川市小林たか子) | 3-1-4-5 | |
年月日未詳 | 新聞切抜(服をよごしても生きた学習 瑞浪市坂本須美子) | 3-1-4-6 | |
(昭和50年) | 中津川教育研究所員研修会ノ為ニ(西尾市政残り一年) | 3-1-4-7 | |
昭和49年6月7日 | 中津川市教育研究集会(激励の辞) | 3-1-4-8 | |
(昭和49年) | 昭和四九年度研究各種委員名簿 中津川市教育研究所発行 | 3-1-4-9 | |
昭和48年5月10日 | 恵那教育会議の周辺 雑・拾遺 | 3-1-4-10 | |
年月日未詳 | EECの周辺 | 3-1-4-11 | |
年月日未詳 | EECメモ(昭和48年5月8日第3部2年保育実習について 教務課から三宅宛という紙背文書あり) | 3-1-4-12 | |
昭和49年2月10日 | 若い教育者との対談記-教育・民主主義・共育- | 3-1-4-13 | |
昭和50年10月20日 | 馬木洞のズリゴク共-門野高四郎繁氏の子孫庄次老人と子供たち- | 3-1-4-14 | |
昭和50年10月16日 | 道添いの家-中馬街道の隊商と唄と本屋- | 3-1-4-15 | |
昭和48年7月24日〜昭和51年6月 | 中津川に来て仕たこと仕度かったこと | 1 | 3-1-5-0 |
年月日未詳 | このみち | 3-1-5-1 | |
年月日未詳 | この道 | 3-1-5-2 | |
年月日未詳 | 標題 | 3-1-5-3 | |
(昭和50年) | 発刊に当って 七二老人三宅武夫 | 3-1-5-4 | |
年月日未詳 | 標題案 | 3-1-5-5 | |
年月日未詳 | 発刊に当って | 3-1-5-6 | |
年月日未詳 | 『甚兵衛ぎつね』の表紙、序文、跋文メモ | 3-1-5-7 | |
(昭和48年7月24日) | 『甚兵衛ぎつね』(貼り画グループの原節子作)原稿写本 | 3-1-5-8 | |
年月日未詳 | 昔話『狼の群』(原稿) | 3-1-5-9 | |
年月日未詳 | 教育市民会議挨拶 | 3-1-5-10 | |
(昭和51年6月) | 六月廿日とベトナム復旧の実態 | 3-1-5-11 | |
年月日未詳 | 教育、教師、親、子供の動きと願い | 3-1-5-12 | |
年月未詳.5月 | 新聞切抜「岐阜県中津川のこどもたち」を読んで青森県木立良子 | 3-1-5-13 | |
昭和49年10月17日〜昭和50年3月20日 | 野村芳兵衛先生(見返しには「世界第一人教育者野村芳兵衛讃」とある) | 1 | 3-1-6-0 |
昭和49年10月17日 | 野村芳兵衛著作全集出版記念会(挨拶原稿) | 3-1-6-1 | |
昭和50年3月20日 | (熊谷守一の名作「猫」の複製をお贈り申上状)東京都太田区山王藤村耕一から三宅武夫宛 | 3-1-6-2 | |
昭和49年12月12日〜昭和50年3月18日 | 教案前の胸案1(背表紙には「教案前ニ公立私学校教案」とある) | 1 | 3-1-7-0 |
年月日未詳 | 分ける・分る・出来る・「甘える」 | 3-1-7-1 | |
年月日未詳 | (朝日新聞天声人語欄掲載二三期修習生罷免事件について) | 3-1-7-2 | |
昭和50年3月18日昭和50年3月21日 | 神坂婦人会講演資料ノ内(甘える・甘やかす) | 3-1-7-3 | |
昭和50年3月15日 | 「頼む」こと 頼み方 | 3-1-7-4 | |
年月日未詳 | 初めの質問十七ヶ条 | 3-1-7-5 | |
年月日未詳 | 明治・大正・昭和に生きる古木の駄法螺と枯木のねがい・書いてみようという「共育」事実 | 3-1-7-6 | |
年月日未詳 | 分る授業案 桐の木下駄 | 3-1-7-7 | |
年月日未詳 | 共育...胸生...教育 | 3-1-7-8 | |
年月日未詳 | わかる授業・素案 | 3-1-7-9 | |
年月日未詳 | 出合いの要・出合いの話 | 3-1-7-10 | |
年月日未詳 | 抄写 小刀の研ぎ方と鉛筆削り実習 | 3-1-7-11 | |
(昭和49年12月12日) | 桐の木の下駄(テツクリノゲタ)(三宅の挿し絵あり) | 3-1-7-12 | |
昭和50年2月14日〜昭和51年5月22日 | 恵那地域の教育ノ先覚達 | 1 | 3-1-8-0 |
年月日未詳 | 地域の教育先覚者 | 3-1-8-1 | |
年月日未詳 | ももたろう | 3-1-8-2 | |
年月日未詳 | 先生というもの | 3-1-8-3 | |
年月日未詳 | 助教授はいやだ | 3-1-8-4 | |
昭和51年5月14日 | (教育を考える) | 3-1-8-5 | |
年月日未詳 | 貼り絵講師の罷免 | 3-1-8-6 | |
年月日未詳 | 講話資料 | 3-1-8-7 | |
年月日未詳 | (共育に付)(按分図)(初) | 3-1-8-8 | |
昭和50年2月14日 | (けんかに付)按分図 | 3-1-8-9 | |
年月日未詳 | (よい子に付)按分図 | 3-1-8-10 | |
年月日未詳 | (松山に渡った理由) | 3-1-8-11 | |
年月日未詳 | (見るからやってみる迄に付)頼まれて話す | 3-1-8-12 | |
年月日未詳 | (素人の一言) | 3-1-8-13 | |
年月日未詳 | 尾石局長を送る(反故) | 3-1-8-14 | |
昭和51年5月22日 | 送西尾市長(下書) | 3-1-8-15 | |
(昭和51年5月22日) | 西尾先生にお別れする言葉 | 3-1-8-16 | |
昭和51年5月22日 | 西尾先生を送る言葉 | 3-1-8-17 | |
年月日未詳 | 雑 二五七為児為醜 二四五小者之証明 一四一ライオンズ倶楽部 三九放言 一八四碎啄同機 | 1 | 3-1-9-0 |
昭和50年6月10日 | 257為児為醜(中表紙) | 3-1-9-1 | |
年月日未詳 | 245小者の証明-文化会館講師馘首と一、二、三、四の首事情-(中表紙) | 3-1-9-2 | |
昭和50年10月15日 | 「私」という男の小ささを証明する | 3-1-9-3 | |
昭和50年10月1日 | 記(小者証明の前提となる記録) | 3-1-9-4 | |
(昭和50年4月) | 第5期中津川市民文化講座生募集(全講座初心者向き)(要項)中津川市教育委員会発行 | 3-1-9-5 | |
(昭和50年10月) | 第6期中津川市民文化講座生募集(全講座初心者向き)(要項)中津川市教育委員会・中津川公民館発行 | 3-1-9-6 | |
年月日未詳 | 141ライオンズ倶楽部放言記録(中表紙) | 3-1-9-7 | |
年月日未詳 | ライオンズ倶楽部スピーカー | 3-1-9-8 | |
年月日未詳 | 39放言 講演を頼まれて稿を書き乍らの落書き(中表紙) | 3-1-9-9 | |
年月日未詳 | 中西校長来訪談合の中で | 3-1-9-10 | |
(昭和51年) | (お母様方の)「子育て」 | 3-1-9-11 | |
昭和50年12月14日 | 184砕啄同機 西幼稚園父親に語る稿(中表紙) | 3-1-9-12 | |
(昭和50年12月) | (十二月十四会義士会) | 3-1-9-13 | |
昭和50年12月14日 | 西幼稚園の父親学級の為ニ | 3-1-9-14 | |
(昭和50年12月) | 西幼稚園の父親に意地悪い質問をする | 3-1-9-15 | |
昭和51年 | (三宅武夫)教育畑退職共育漫語記録一(背表紙には「共育漫(退任挨拶稿)語記」とある) | 1 | 3-1-10-0 |
昭和51年10月15日 | (序) | 3-1-10-1 | |
年月日未詳 | 退任の記念講演の要請(執筆構想) | 3-1-10-2 | |
年月日未詳 | 教育漫語(小見出しは、教委で・現場不捨・寂莫・七十三(歳)・共育、自信、後継者・書(類を)焼(く)・共育・教員養成・経費自弁・親、教育外12項目である) | 3-1-10-3 | |
昭和51年6月20日〜昭和52年2月6日 | 意地悪校長の意地悪助言集 | 1 | 3-1-11-0 |
(昭和51年) | 「語尽散懐」の幅 | 3-1-11-1 | |
年月日未詳 | 素直な子に育てゝもいゝですか(途中まで記述の反古原稿) | 3-1-11-2 | |
年月日未詳 | 家庭訪問 | 3-1-11-3 | |
年月日未詳 | (私が先生でよかった話) | 3-1-11-4 | |
年月日未詳 | (学力) | 3-1-11-5 | |
年月日未詳 | 硝子が割れた話-表現の能力訓練- | 3-1-11-6 | |
(昭和51年12月) | 丁巳七十七年賀状稿 | 3-1-11-7 | |
(昭和52年2月6日) | 朝日新聞切抜(平和呼びかける「七士の墓」愛知県幡豆町長小田悦雄)(三宅武夫の感想記入あり) | 3-1-11-8 | |
年月日未詳 | (附録買う為の本誌買い) | 3-1-11-9 | |
昭和51年6月20日 | 第三回中津川教育市民会議総会挨拶稿(同題2つ) | 3-1-11-10 | |
昭和51年9月 | (映画「夜明けへの道」)挨拶稿・中津川市教育市民会議々長三宅武夫 | 3-1-11-11 | |
昭和51年9月 | (同上件)第一校正稿 | 3-1-11-12 | |
昭和51年9月 | 映画製作への期待の声第一稿 | 3-1-11-13 | |
昭和51年9月 | 稿の稿(自主映画「夜明けへの道」挨拶稿執筆要項) | 3-1-11-14 | |
昭和51年9月 | 映画「夜明けへの道」挨拶稿下書反故 | 3-1-11-15 | |
昭和52年1月23日〜昭和52年3月1日 | 意地悪校長の意地悪助言等 | 1 | 3-1-12-0 |
昭和52年3月1日 | プラモデル | 3-1-12-1 | |
年月日未詳 | 狐は賢すぎる | 3-1-12-2 | |
(昭和15年頃) | 三宅武夫略歴(昭和15年迄記述) | 3-1-12-3 | |
年月日未詳 | 余生 | 3-1-12-4 | |
昭和52年3月1日 | 忘れんことは頭がいい事か | 3-1-12-5 | |
年月日未詳 | 記憶力 | 3-1-12-6 | |
年月日未詳 | 年賀状に書く文句 | 3-1-12-7 | |
年月日未詳 | (『鞦韆』贈呈に付手紙案)三宅武夫から笹之内宛 | 3-1-12-8 | |
年月日未詳 | (「赤旗」紙上の御批評に付御礼手紙案)三宅武夫から国枝栄三宛 | 3-1-12-9 | |
昭和52年1月23日 | (みかん御恵与御礼手紙案)三宅武夫から増田御夫妻宛 | 3-1-12-10 | |
昭和52年 | 俺だけでは共育にならん話 | 1 | 3-1-13-0 |
昭和51年3月初 | 初めに | 3-1-13-1 | |
年月日未詳 | 1.中津川の校長会名簿 | 3-1-13-2 | |
年月日未詳 | 2.鉦三・□平様 武夫・はる | 3-1-13-3 | |
年月日未詳 | 3.染 | 3-1-13-4 | |
年月日未詳 | 4.赤座憲久の情熱と飛騨んじい | 3-1-13-5 | |
年月日未詳 | 5.俺を育てた幾つかの話 | 3-1-13-6 | |
年月日未詳 | 5.共育考 | 3-1-13-7 | |
年月日未詳 | 6.俺 | 3-1-13-8 | |
年月日未詳 | 7.恵那地域の教育の系譜・公立私学校経営のはなし | 3-1-13-9 | |
年月日未詳 | 8.ライフワークとしての本当の教育、協力願のこと | 3-1-13-10 | |
年月日未詳 | 9.教育百年表後記 | 3-1-13-11 | |
年月日未詳 | 10.原家蔵三番叟首の縁起 | 3-1-13-12 | |
年月日未詳 | 11.公立私学校経営を部下がみる 第二中学校における新学制発足(高橋守二「恵那の教育一○○年史・恵那山麓に生きる」コピー) | 3-1-13-13 | |
年月日未詳 | 12.「ぶらんこ」原稿の弁(孔版) | 3-1-13-14 | |
年月日未詳 | 13.大島一洋・治子夫妻の話 | 3-1-13-15 | |
年月日未詳 | 14.中山道 | 3-1-13-16 | |
年月日未詳 | 14-2.初めての人事 | 3-1-13-17 | |
昭和49年1月21日 | 15.教子・校長達の自殺には驚かされた | 3-1-13-18 | |
昭和46年1月 | 16.弔辞 | 3-1-13-19 | |
年月日未詳 | 17.二十九年(内田守弥) | 3-1-13-20 | |
年月日未詳 | 18.極簡易な染め方について | 3-1-13-21 | |
昭和51年3月10日 | 19.第二中学校第二十八回生卒業式祝辞 | 3-1-13-22 | |
年月日未詳 | 二年生の歌(鯛焼きの歌)(孔版)(子門真人歌「およげ!たいやきくん」の替歌) | 3-1-13-23 | |
昭和51年3月10日 | 第28回卒業式式次第(印刷) | 3-1-13-24 | |
年月日未詳 | (斎太郎節外6曲楽譜)(印刷) | 3-1-13-25 | |
年月日未詳 | PTAだよりNo.7(印刷)中津川二中・PTA成人教育委員会発行 | 3-1-13-26 | |
(昭和53年9月) | 年よりのひやみず(教育)談義(表紙には「ひやみず談義」とある) | 1 | 3-1-14-0 |
2 愛媛師範学校・岐阜師範学校 | |||
昭和33年〜昭和56年頃 | 愛媛讃 | 1 | 3-2-1-0 |
年月日未詳 | (三宅武夫顔写真1枚)(カラー) | 3-2-1-1 | |
年月日未詳 | 愛媛讃(以下内容) | 3-2-1-2 | |
年月日未詳 | Y・B生徒のこと | 3-2-1-3 | |
年月日未詳 | 鈴木六二校長のこと | 3-2-1-4 | |
年月日未詳 | 六二校長の家(昭和28年1月6日伊予新聞切抜貼付) | 3-2-1-5 | |
昭和33年4月20日 | 先生の生活今昔談(長井章の国民服)(三宅武夫と長井章記念写真)(モノクロ)(三宅武夫と鈴木六二写真)(モノクロ) | 3-2-1-6 | |
年月日未詳 | (三宅武夫)日誌断片・書の鑑識鑑賞への道 | 3-2-1-7 | |
年月日未詳 | 城山の石垣の話(松山城) | 3-2-1-8 | |
年月日未詳 | 弟子のこと(篠原咲子) | 3-2-1-9 | |
年月日未詳 | 高橋万寿男(高橋からの感想) | 3-2-1-10 | |
年月日未詳 | 日誌断紙 | 3-2-1-11 | |
(昭和56年頃) | 天来先生と私(孔版)(この中に合田弘「三宅武夫先生との出会い」あり。『山じ風』の抜刷) | 3-2-1-12 | |
(昭和46年) | 皇紀二千六百二十年青玄会思出話改その日その時(内身は昭和46年以降の忘備録。冒頭に「五十八歳母識右録母戒武夫」と「昭和戊寅八月還暦所感母識」が書かれている) | 1 | 3-2-2-0 |
(昭和46年) | 恵那地区の生んだ人々(構成案) | 3-2-2-1 | |
(昭和46年) | (三宅武夫)履歴書(構成案) | 3-2-2-2 | |
(昭和46年) | 子供向け中津の話を書きたい(構成案) | 3-2-2-3 | |
(昭和46年) | 46年度市の教育目標 | 3-2-2-4 | |
(昭和46年) | 玉葱に明盤媒染 | 3-2-2-5 | |
(昭和46年) | (ロー染講習案) | 3-2-2-6 | |
年月日未詳 | 名刺 株式会社新人物往来社編集局出版部次長内川千裕 | 3-2-2-7 | |
年月日未詳 | 名刺 東京都世田谷区岡倉捷郎 | 3-2-2-8 | |
年月日未詳 | 名刺 中央相互銀行中津川支店支店長席付仲神宗亮 | 3-2-2-9 | |
(昭和46年5月6日) | (黒川中講演案) | 3-2-2-10 | |
(昭和46年4月27日) | (大阪府立花園高等学校長就任に付葉書)大阪府立花園高等学校長三宅孝明から三宅武夫宛 | 3-2-2-11 | |
昭和51年2月〜昭和51年8月 | 松山城下での行動記録抄 | 1 | 3-2-3-0 |
年月日未詳 | 梶原勝 | 3-2-3-1 | |
年月日未詳 | 吉田拡と林伝次 | 3-2-3-2 | |
年月日未詳 | 青玄会と盲腸手術 | 3-2-3-3 | |
年月日未詳 | 日誌焼却 | 3-2-3-4 | |
年月日未詳 | 長井章の国民服 | 3-2-3-5 | |
年月日未詳 | 野元教諭の屁 | 3-2-3-6 | |
(昭和51年8月9日) | 咲子という子 | 3-2-3-7 | |
年月日未詳 | 松山に遠島の理由 | 3-2-3-8 | |
(昭和51年) | 青玄会 | 3-2-3-9 | |
年月日未詳 | 首の五回表 | 3-2-3-10 | |
年月日未詳 | 岡井渉 | 3-2-3-11 | |
(昭和51年4月) | 岡井正木書作展(案内状葉書)(改訂)伊予郡松前町岡井渉から三宅武夫宛 | 3-2-3-12 | |
(昭和51年4月) | 岡井正木書作展(案内状葉書)(初版)伊予郡松前町岡井渉から三宅武夫宛 | 3-2-3-13 | |
(昭和51年)2月11日 | (私個展に色紙をお送り下されたくに付葉書) | 3-2-3-14 | |
(昭和51年)3月31日 | (四月から復職・今年の異動・個展に付手紙)岡井正木から三宅宛 | 3-2-3-15 | |
(昭和51年4月8日) | 新聞夕刊切抜(松山で岡井さん闘病2年筆とり直す) | 3-2-3-16 | |
(昭和51年)4月8 | (個展様子中間報告手紙)岡井渉から三宅宛 | 3-2-3-17 | |
昭和51年4月12日 | (個展についての三宅の感想) | 3-2-3-18 | |
昭和51年6月〜昭和51年8月 | 伊予路の足跡(背表紙には「伊予路の足跡 壷天子」とある) | 1 | 3-2-4-0 |
年月日未詳 | 遊びの研究 | 3-2-4-1 | |
年月日未詳 | 石槌山と片岡教諭 | 3-2-4-2 | |
年月日未詳 | 松山城の看板 | 3-2-4-3 | |
(昭和51年) | 楽焼とうに採り | 3-2-4-4 | |
年月日未詳 | 鼻についた価値感 | 3-2-4-5 | |
年月日未詳 | 楠橋猪之助と三宅孝明 | 3-2-4-6 | |
年月日未詳 | 「斗牛」見学記 | 3-2-4-7 | |
年月日未詳 | 雨宮新七校長と娘、松中火災 | 3-2-4-8 | |
昭和51年7月3日 | 回想の青々老人(教子の来訪) | 3-2-4-9 | |
(昭和51年7月8日) | (計十六名お会いできるのを楽しみにしていますに付葉書)松山市清水町河野博から三宅武夫宛 | 3-2-4-10 | |
(昭和51年8月8日) | (目下十五名いよいよ近づき切符など準備中ですに付葉書)松山市清水町河野博から三宅武夫宛 | 3-2-4-11 | |
(昭和51年8月9日) | (暑中見舞・十七日を楽しみに付葉書)松山市立花青野信雄から三宅宛 | 3-2-4-12 | |
昭和16年3月 | 昭和16年3月本科第1部卒業(生名簿)(孔版) | 3-2-4-13 | |
昭和51年6月22日 | (おたより有難く存じますに付葉書)松山市松前町村上壷天子から三宅宛 | 3-2-4-14 | |
年月日未詳 | 証言一(雑語)(伊予教育研究所主催決意) | 3-2-4-15 | |
年月日未詳 | 成績の順序をきめることに反発した話 | 3-2-4-16 | |
(昭和51年4月) | 松山ニやられた理由など | 1 | 3-2-5-0 |
年月日未詳 | 運命 | 3-2-5-1 | |
年月日未詳 | 教師養成学校に専門教科の先生は不要 長井章の国民服 | 3-2-5-2 | |
昭和51年4月12日 | 松山転出 | 3-2-5-3 | |
年月日未詳 | 担任 | 3-2-5-4 | |
年月日未詳 | 家の問題 | 3-2-5-5 | |
年月日未詳 | 篠原家 咲子 | 3-2-5-6 | |
年月日未詳 | 厚さ一糎 巾不明 | 3-2-5-7 | |
年月日未詳 | 圭へ | 3-2-5-8 | |
年月日未詳 | 法華津峠とちくわ かまぼこ | 3-2-5-9 | |
年月日未詳 | 練長城の紙芝居 | 3-2-5-10 | |
年月日未詳 | 手織のネクタイ | 3-2-5-11 | |
年月日未詳 | 田坂道□ 緒方玉造 高田 | 3-2-5-12 | |
年月日未詳 | 山路兄弟と伊予の教育 | 3-2-5-13 | |
年月日未詳 | 日本人茲にあり | 3-2-5-14 | |
年月日未詳 | 女と酒と半分にした話 | 3-2-5-15 | |
年月日未詳 | 筆 | 3-2-5-16 | |
昭和53年8月19日 | 雨宮校長のことゞも | 1 | 3-2-6-0 |
年月日未詳 | (雨宮新七夫妻位牌・雨宮家墓牌写真)(カラー) | 3-2-6-1 | |
(昭和58年8月19日) | (雅号物語六四頁八行の件雨宮新七に付回答葉書)内田守弥から三宅武夫宛 | 3-2-6-2 | |
(昭和58年8月19日) | (資料雨宮新七先生の現住所・小伝に付回答葉書)内田守弥から三宅武夫宛 | 3-2-6-3 | |
(昭和58年8月19日) | (雨宮先生退職後の消息に付回答葉書)内田守弥から三宅武夫宛 | 3-2-6-4 | |
昭和55年 | 高山利武『山梨県塩山市竹森出身校長雨宮新七先生小伝』(コピー)愛媛県立松山中学校東高等学校同窓会誌明教昭和五十五年所掲 | 3-2-6-5 | |
年月日未詳 | 南海の島四国余情 | 1 | 3-2-7-0 |
年月日未詳 | 果物王国 伊予の思出 | 3-2-7-1 | |
年月日未詳 | (よそもの)(おきゅうのあと)の話 | 3-2-7-2 | |
年未詳.6月27日 | (お灸で良くなられた話を聞かされに付手紙)松山市久万ノ台佐田幸江から三宅武夫宛(同封のお灸の方法のメモ貼付) | 3-2-7-3 | |
年月日未詳 | 造り酒屋の娘 咲子という娘 | 3-2-7-4 | |
年月日未詳 | 山田長政の来訪(鈴木六二と南海翁) | 3-2-7-5 | |
年月日未詳 | トピシイと秋田鷹山公の話 | 3-2-7-6 | |
年月日未詳 | 別宮方行と門屋□の反逆 | 3-2-7-7 | |
年月日未詳 | 二宮弥助 志垣寛 芦田恵之助 | 3-2-7-8 | |
年月日未詳 | さゝ山登りはゆ快だった話 | 3-2-7-9 | |
年月日未詳 | 遠島由来 | 1 | 3-2-8-0 |
年月日未詳 | 県の総会視察始末記(松山ニ遠島事情) | 3-2-8-1 | |
年月日未詳 | 学資返戻の纏末記 | 3-2-8-2 | |
年月日未詳 | 「ナフタリン」の由来 | 3-2-8-3 | |
年月日未詳 | 浅間山と苗木城 | 3-2-8-4 | |
年月日未詳 | 文楽首と川上 | 3-2-8-5 | |
年月日未詳 | 蟻ん子のえもの曳き | 3-2-8-6 | |
(昭和8年)1月14日〜昭和53年8月25日 | コウケイシャハタレカ師導弟行稿No.1(見返しには「原稿師導弟行昭和十九年元旦夜半」とある) | 1 | 3-2-9-0 |
昭和53年8月25日 | メモ(私の日本童話五冊、今後にのこしたいと思う) | 3-2-9-1 | |
年月日未詳 | 師導弟行 | 3-2-9-2 | |
昭和18年12月8日 | 御弟子大明神 弟子こそ指導者 師弟一如 | 3-2-9-3 | |
昭和26年4月2日 | 自序 | 3-2-9-4 | |
昭和19年1月1日 | 自序に代えて 先輩小川卓尓先生ニ弟子篠木教諭ノ生徒記録ヲ報ズル手紙(聾唖ニも皇国民としての自覚を与へつゝ懸命の弟子あり曰く篠木恵徳) | 3-2-9-5 | |
昭和16年6月20日 | 宣言(転任挨拶)-(岐師一部五年生ノ招キニ応ジテ...)-昭和十七年六月廿日於五年生控室級長水野定之ノ願書アリテ一席告グルコト如是 | 3-2-9-6 | |
昭和16年6月20日 | 着任挨拶 本科五年生ノ為ニ | 3-2-9-7 | |
昭和17年 | 昭和十七年春卒業岐阜在住の者達の集ひに | 3-2-9-8 | |
昭和19年1月5日 | 岐阜県下呂国民学校訓導種田丹治君に寄する書信附青玄会々則 | 3-2-9-9 | |
年月日未詳 | 種田先生宛「御礼」袋 下呂町婦人会 | 3-2-9-10 | |
年月日未詳 | (飼育箱作製作業)案 | 3-2-9-11 | |
昭和16年3月18日 | 紀元二千六百二十年昭和三十五年祝典青玄会総会挙式青玄会二十年総会案・青玄会々則案 | 3-2-9-12 | |
年月日未詳 | 報告愛媛師範女子部附属楠橋訓導ノコトドモ | 3-2-9-13 | |
年月日未詳 | 楠橋訓導ノコトゝモ其二 | 3-2-9-14 | |
(昭和18年)1月14日 | (師導弟行心まちに致して居ります。印刷物みんな送ります。雅号が欲しいに付手紙)(楠橋)猪之助から三宅武夫宛 | 3-2-9-15 | |
昭和17年11月6日 | 愛媛教育研究会 昭和十七年11月6日発表『愛媛教育』昭和十八年1月号所載 | 3-2-9-16 | |
年月日未詳 | (楠橋猪之助)「體練科の生活化」(印刷) | 3-2-9-17 | |
年月日未詳 | 楠橋訓導ノコトトモ其ノ三 | 3-2-9-18 | |
年月日未詳 | 高等科児童の国史観 今治市今治国民学校楠橋猪之助(孔版) | 3-2-9-19 | |
昭和16年11月20日〜(昭和21年2月) | コウケイシャハタレカ師導弟行稿No.2 | 1 | 3-2-10-0 |
年月日未詳 | 岐阜師範予科生ニ示セルモノゝ一部「学級訓話記録抄其一」 | 3-2-10-1 | |
昭和18年7月18日 | 岐阜師範学校卒業学年ニ示シタルモノゝ一部「学級訓話記録抄其二」 | 3-2-10-2 | |
年月日未詳 | 岐阜師範学校上級生「学級訓話記録抄其ノ三」伍世華記 | 3-2-10-3 | |
(昭和18年) | (昭和十八年秋研究科生徒の一部ニ対して)故篠原咲子遺著「茶の花咲く丘」を薦むるの辞 | 3-2-10-4 | |
(昭和15年) | (皇紀二千六百年七月七日の)「御挨拶」(印刷)と称する私の一文を読んで見ませう | 3-2-10-5 | |
昭和17年2月18日 | (書道の)躾について | 3-2-10-6 | |
(昭和21年2月) | (昭和21年度岐阜師範卒業生に告げる) | 3-2-10-7 | |
年月日未詳 | 卒業生に対する返信抄 | 3-2-10-8 | |
昭和18年9月下旬 | 本巣郡生津女子青年団に於けるお話 | 3-2-10-9 | |
昭和16年11月20日〜昭和16年11月22日 | 坂祝国民学校奉安殿建立に就いて美談報告(三宅武夫・座馬直樹往復書簡)岐師予三ノ一加藤孝七記 | 3-2-10-10 | |
年月日未詳 | 書道講義(後欠)選修生筆録 | 3-2-10-11 | |
昭和15年11月12日〜昭和20年6月22日 | コウケイシャハタレカ師導弟行稿No.3 | 1 | 3-2-11-0 |
昭和20年6月22日 | 一八会報 青山(義男)中尉追悼号(孔版) | 3-2-11-1 | |
昭和15年11月12日 | 稲羽の素莵(孔版) | 3-2-11-2 | |
昭和18年12月12日 | 素兎の話後書き(原稿)予三大屋貞雄記 | 3-2-11-3 | |
年月日未詳 | (書道一時中止残念に付軍事郵便葉書)北支申第一六四九部隊壷井隊足立正行から岐阜師範学校三宅武夫宛 | 3-2-11-4 | |
年月日未詳 | 寓話猿蟹合戦 | 3-2-11-5 | |
昭和16年1月 | 「猿蟹合戦」後書き 愛媛師範誌「勝山」原稿 | 3-2-11-6 | |
年月日未詳 | 創作(寓話)「舌切雀の話」 | 3-2-11-7 | |
年月日未詳 | 舌切雀の話考 | 3-2-11-8 | |
昭和16年1月5日 | 舌切雀の話後書に代へて(愛媛師範本科一部三年岸田生に対する返信) | 3-2-11-9 | |
年月日未詳 | 桃太郎の話(後欠) | 3-2-11-10 | |
年月日未詳 | 第二回座談会問題(孔版) | 3-2-11-11 | |
年月日未詳 | [ ]題(孔版) | 3-2-11-12 | |
年月日未詳 | 第八回生活修養ニ実スル問題(孔版) | 3-2-11-13 | |
(昭和16年)10月23日 | (職員一同先生に習字の御指導を仰ぎ度きに付手紙)加茂郡坂祝国民学校内座馬直樹から岐阜師範学校三宅武夫宛 | 3-2-11-14 | |
(昭和16年10月20日) | (先生のお話を承りお礼葉書)高山市西国民学校蒲接蔵から岐阜県師範学校三宅武夫宛 | 3-2-11-15 | |
昭和16年2月16日 | 紙芝居原稿(時局下の「兎と亀の駈競べ」)(孔版) | 3-2-11-16 | |
年月日未詳 | 良師良友 | 3-2-11-17 | |
昭和19年5月15日 | 「この道と歩み」(聾教育に関する作文)鹿児島県有田キヨ外31人の女性 | 3-2-11-18 | |
昭和54年~昭和55年 | 岐阜師範校の悪共(背表紙には「岐阜師範の悪共外」とある) | 1 | 3-2-12-0 |
年月日未詳 | 書損・師範の悪たれ共 | 3-2-12-1 | |
昭和50年5月18日 | 愛媛新聞切抜(鴻池楽斎墨美展) | 3-2-12-2 | |
昭和50年5月 | 鴻池楽斎墨技展(案内状)松山市西一万町鴻池楽斎 | 3-2-12-3 | |
(昭和55年3月18日) | 朝日新聞切抜(岐阜市の「なずな学園」障害児の家庭塾10周年の集いと出版) | 3-2-12-4 | |
(昭和50年)5月17日 | (合田先輩を訪ね云々に付手紙)岡井渉から三宅宛 | 3-2-12-5 | |
昭和50年5月13日 | 愛媛新聞切抜(県美術会脱会の浅海蘇山氏ら「法天会」を結成) | 3-2-12-6 | |
昭和55年1月13日 | 出版記念祝賀会ニついて | 3-2-12-7 | |
年月日未詳 | (おたまじゃくしは蛙になったか) | 3-2-12-8 | |
年月日未詳 | (先生と弟子) | 3-2-12-9 | |
昭和54年12月10日 | (三宅武夫への手紙) | 3-2-12-10 | |
年月日未詳 | (子供と親) | 3-2-12-11 | |
年月日未詳 | 小使さん。お手伝いさん。 | 3-2-12-12 | |
昭和55年3月23日 | (三月二十二日の名村きみさん) | 3-2-12-13 | |
昭和55年4月27日 | 朝日新聞切抜(伝えばなしのふるさと(3)揖斐郡徳山村新田義貞の墓) | 3-2-12-14 | |
昭和58年9月 | 「地域と文化 中津川文化会館だより」No.97(市民大学セミナー8月26日に三宅武夫が「生活を創り出した人々(山窩から学ぶ)」を講義すると出ている) | 3-2-12-15 | |
年月日未詳 | 「御祝」(みる、きく、つくるへの返礼)のし袋 吉江辰美 | 3-2-12-16 | |
(昭和55年)6月27日 | (先生の書をいただき外長文礼状)松山市古三津町矢野喜志雄から三宅武夫先生宛 | 3-2-12-17 | |
昭和55年3月24日 | (青年会議所との国会に付放談感想) | 3-2-12-18 | |
(昭和55年3月24日) | 名刺 社団法人中津川青年会議所理事長酒井嘉彦 | 3-2-12-19 | |
昭和55年5月23日 | 朝日新聞切抜(文化・学園都市めざし基盤作り 中津川市が方針) | 3-2-12-20 | |
昭和55年5月21日 | 新聞切抜(映画「からだ作りと子供の心」岐阜県恵那方面での積極的とりくみ) | 3-2-12-21 | |
昭和55年5月19日 | 朝日新聞切抜(児童が版画物語 伊豆新島小で出版 わたしたちの飛騨んじい) | 3-2-12-22 | |
年月日未詳 | (内田守弥君) | 3-2-12-23 | |
(昭和55年3月) | (三月九日西山学校PTA講演要請について) | 3-2-12-24 | |
3 中津川市立第二中学校(公立私学校十三年抄) | |||
昭和20年1月29日〜昭和40年3月29日 | 創業第二中学校公立私学校語録(背表紙には「創業第二中学校・公立私学校経営資料」とあり、見返しには「二中の創業 生徒達に語る稿-S40年5月3日-」とある) | 1 | 3-3-1-0 |
年月日未詳 | お化けのはなし 無始無終。夢中話 生徒に語る | 3-3-1-1 | |
昭和25年12月11日 | 初めのことば | 3-3-1-2 | |
昭和27年6月20日 | 始めのことば | 3-3-1-3 | |
昭和24年3月3日 | 二中着任当時の様子 | 3-3-1-4 | |
昭和26年5月3日 | 昭和廿三年九月六日元中津商業の状態 | 3-3-1-5 | |
年月日未詳 | 恵那山讃歌 | 3-3-1-6 | |
昭和27年2月12日 | 中津の民謡 | 3-3-1-7 | |
(昭和30年代) | (三宅武夫の)墓とその銘について | 3-3-1-8 | |
年月日未詳 | 二中出発前夜 | 3-3-1-9 | |
昭和33年4月30日 | 校長以前のねがいについて(昭和18年の三宅武夫の談話記録。続きは「語尽散憶は本校宿直室の掛軸の文句である」にある) | 3-3-1-10 | |
昭和20年1月29日 | 漬物重石論について | 3-3-1-11 | |
昭和24年7月5日 | 先生というもの | 3-3-1-12 | |
昭和24年2月 | 私の学校と私共の学校 | 3-3-1-13 | |
昭和32年9月16日 | (先生は教えた)ガットル話 | 3-3-1-14 | |
昭和32年4月10日 | 呪文三唱の功得 | 3-3-1-15 | |
昭和30年2月17日 | 責任外の仕事について | 3-3-1-16 | |
昭和30年9月25日 | 指令に従うことは組合内でのみ美徳である | 3-3-1-17 | |
昭和28年3月5日 | 校長は何もようせん話 | 3-3-1-18 | |
昭和32年10月15日 | 法的根拠論 | 3-3-1-19 | |
昭和28年2月 | 評価され度くない話 | 3-3-1-20 | |
昭和31年5月3日 | 自分が悪いのではない | 3-3-1-21 | |
年月日未詳 | 先生は一人前であること | 3-3-1-22 | |
年月日未詳 | 忙しくて生徒と一緒になれぬ話 | 3-3-1-23 | |
年月日未詳 | 旅行の宿めし | 3-3-1-24 | |
年月日未詳 | 行事過多の話 | 3-3-1-25 | |
年月日未詳 | よい然し悪い話 | 3-3-1-26 | |
年月日未詳 | 家庭訪問について | 3-3-1-27 | |
年月日未詳 | 脚下に「教育事実を拾う」話(昭和26年のアイヘル講習回想) | 3-3-1-28 | |
年月日未詳 | 座高調 | 3-3-1-29 | |
昭和37年10月25日 | 生徒に「いうこと」は「どういういゝ方」でするのがいゝのか | 3-3-1-30 | |
昭和34年5月10日 | 卅四年度教育推進計画原案(昭和23年からの三宅武夫の歩みを書く) | 3-3-1-31 | |
年月日未詳 | 雑事雑然 | 3-3-1-32 | |
昭和36年6月26日 | 受恵三法考 | 3-3-1-33 | |
昭和40年3月29日 | 岐阜日日新聞切抜(県政時評 小説になる「教育正常化」 早船ちよが取材 | 3-3-1-34 | |
年月日未詳 | 教育雑談・学力問題 | 3-3-1-35 | |
昭和32年10月9日〜昭和42年1月28日 | 行動教育 公立私学校(見返しには「行動教育 実践を通して」とある) | 1 | 3-3-2-0 |
昭和32年10月9日 | よい子、出来る子の境 | 3-3-2-1 | |
昭和33年5月17日 | (共育のむずかしさ、今日の教育問題の重要観点) | 3-3-2-2 | |
年月日未詳 | おたまじゃくしは蛙の子であったこと | 3-3-2-3 | |
年月日未詳 | 民主主義世界はまだ遠いところにあるはなし | 3-3-2-4 | |
昭和36年6月15日〜昭和36年6月20日 | 好意受くべきか否か(二中退職記念品問題) | 3-3-2-5 | |
昭和36年6月4日 | 三野新聞切抜(「区長条例の設置など中津川市区長会から要望」三宅武夫の退職記念品寄付金問題) | 3-3-2-6 | |
昭和36年6月18日 | みの新聞切抜(三宅氏に贈る記念品募金 中津川市PTAが批判される) | 3-3-2-7 | |
昭和36年6月17日 | 朝日新聞切抜(市条例にふれるか 中津川第二中校長送別記念金の募集) | 3-3-2-8 | |
昭和40年10月 | 家直し記 | 3-3-2-9 | |
昭和36年6月3日 | 『本物。正しいもの。』 | 3-3-2-10 | |
昭和37年10月8日 | 『ドンド』終焉記 | 3-3-2-11 | |
年月日未詳 | 木札をたてる要について(教育の本体について) | 3-3-2-12 | |
年月日未詳 | (三宅武夫は赴任当時中津川)二中に必要な校長ではなかった話 | 3-3-2-13 | |
年月日未詳 | 私のレジャー | 3-3-2-14 | |
昭和38年5月18日 | 二中会挨拶(只今中津川市史編集中・健康について) | 3-3-2-15 | |
昭和35年2月3日〜昭和35年2月5日 | 何が「教育」を本物にするか(校長よ記録を残せ) | 3-3-2-16 | |
年月日未詳 | 近頃無礼な教員の卵(コノゴロノワカイセンセイトイウモノ) | 3-3-2-17 | |
昭和42年1月25日 | (中津川公民館の結婚式についての問題点について)岐阜市立□□小学校□□□□から公民館長三宅武夫宛 | 3-3-2-18 | |
(昭和42年)1月25日 | (近況報告手紙)□□□□から三宅武夫宛 | 3-3-2-19 | |
昭和42年1月28日 | (御丁寧な御教示に付返事手紙案)三宅武夫から□□□□宛 | 3-3-2-20 | |
昭和39年8月14日 | (自分の行動に似ている)蝸牛 | 3-3-2-21 | |
(昭和33年) | 増築校舎落成(式栞)(リーフレット)中津川市立第一中学校発行 | 3-3-2-22 | |
(昭和33年10月) | (創立十年記念)教室新築並同窓会館落成(式しおり案)主催中津川市・第二中学校生徒会・同PTA発行 | 3-3-2-23 | |
年月日未詳 | 見通しと具体的計画の上にある累積(教育の進め方) | 3-3-2-24 | |
(昭和33年4月) | (二中卒業生の会)あけぼの会(を結成した石田利博について) | 3-3-2-25 | |
(昭和33年3月9日) | あけぼの会規約 | 3-3-2-26 | |
昭和33年4月12日 | あけぼの会誌 | 3-3-2-27 | |
昭和51年1月18日〜昭和52年9月28日 | 新学制当初の中学校の苦悩証言 公立私学校経営十三年抄誌No.1 | 1 | 3-3-3-0 |
昭和52年9月28日 | はじめに | 3-3-3-1 | |
年月日未詳 | 第一年次1948年9月5日...1949年3月31日 二中創業混迷期(見出し) | 3-3-3-2 | |
年月日未詳 | 第二中学校の教育への立言I | 3-3-3-3 | |
年月日未詳 | 着任一ヶ月の行動の記録項目 | 3-3-3-4 | |
昭和47年9月5日〜昭和52年9月3日 | 着任挨拶の言葉の出所 | 3-3-3-5 | |
年月日未詳 | 中津町立第二中学校長任命次第 | 3-3-3-6 | |
昭和23年9月5日 | 「着任挨拶の言葉」昭和二十三年九月五日-於南小講堂一・二中合同- | 3-3-3-7 | |
昭和23年9月4日 | 二中に来た | 3-3-3-8 | |
昭和23年9月28日 | 学校運営への始動(1948年9月28日 地区PTA) | 3-3-3-9 | |
昭和23年 | 昭和二十三年度日誌抄 | 3-3-3-10 | |
年月日未詳 | 公立私学校の先生達・昭和三十三年当初の職員名 | 3-3-3-11 | |
昭和23年9月21日 | 成績通知票廃止の件-職員会上提案の中- | 3-3-3-12 | |
昭和23年10月10日 昭和52年8月1日 |
共育宣言案第一 | 3-3-3-13 | |
昭和23年12月12日 | 共育思考 | 3-3-3-14 | |
昭和23年10月29日 昭和52年7月1日 |
新参校長当初の回想 | 3-3-3-15 | |
昭和23年10月5日 昭和52年7月7日 |
証言のつぶやき | 3-3-3-16 | |
昭和52年6月21日〜昭和52年9月21日 | 証言(中津川に戻った) | 3-3-3-17 | |
昭和23年12月28日昭和52年1月15日 | 公立私学校由来記 | 3-3-3-18 | |
昭和23年9月10日 | 校長室の設定 | 3-3-3-19 | |
昭和52年8月3日 | わたくし | 3-3-3-20 | |
昭和23年10月9日 | 俺の学校(教組支部長対談) | 3-3-3-21 | |
昭和52年9月6日 | ご挨拶方 | 3-3-3-22 | |
昭和23年10月9日 | 若い先生達の忠告など | 3-3-3-23 | |
昭和51年1月18日 昭和52年9月26日 |
川端柳 | 3-3-3-24 | |
昭和52年10月1日 | 拾遺 | 3-3-3-25 | |
昭和23年10月23日 昭和24年2月21日 |
桜の幹の太さ | 3-3-3-26 | |
昭和24年1月7日 | 白昼夢 | 3-3-3-27 | |
昭和48年12月23日 | 十二月二十三日記録抄 | 3-3-3-28 | |
昭和23年9月20日 | 耐える修業 | 3-3-3-29 | |
昭和24年3月29日 | 石(市)岡信輔(介)町長 | 3-3-3-30 | |
昭和52年1月28日 | 公立私学校ニついて、再言 | 3-3-3-31 | |
昭和25年1月19日 昭和52年9月24日 |
生徒工場設立への努力 | 3-3-3-32 | |
昭和52年1月5日 | 十三年校長の初年度回顧 | 3-3-3-33 | |
昭和24年 | 昭和二十四年度日誌抜 | 3-3-3-34 | |
昭和23年9月7日〜昭和23年12月19日 | 再び軍政部教育課長初視察 | 3-3-3-35 | |
昭和52年7月1日〜昭和52年10月7日 | 中津町立第二中学校 公立私学校経営十三年の内24年5月6日No.2 | 1 | 3-3-4-0 |
昭和24年 | 昭和二十四学年度日誌抄 | 3-3-4-1 | |
昭和24年8月27日 昭和25年3月17日 |
高村清と時彦の協力 | 3-3-4-2 | |
昭和23年10月9日 | チップ用材机代用の借入(23年分) | 3-3-4-3 | |
昭和24年10月11日 | 借用証(備忘昨年10月11日生徒を通じて家庭に願出た借用証案) | 3-3-4-4 | |
昭和24年5月17日 | 廿四年度補追 | 3-3-4-5 | |
昭和24年5月15日 | 校舎の補強保全 | 3-3-4-6 | |
昭和24年6月4日 | 出る釘の頭を打つ | 3-3-4-7 | |
昭和24年6月1日 | 生徒工場の開設と校内整備 | 3-3-4-8 | |
昭和24年6月8日 | 四ツ目川底美化作業案 | 3-3-4-9 | |
昭和52年7月1日 | ベニヤ合板(昭和24年7月17日) | 3-3-4-10 | |
年月日未詳 | 四ツ目川底美化促進についての申請 | 3-3-4-11 | |
昭和52年7月10日 | 二中にでもやりや | 3-3-4-12 | |
昭和52年7月1日 | 高校の火事と生徒の自主性 | 3-3-4-13 | |
昭和24年8月26日 | (雑誌)盤水(原稿) | 3-3-4-14 | |
昭和24年8月27日〜昭和24年8月31日 | ベニヤ合板の壁 | 3-3-4-15 | |
昭和24年12月9日 | 生産教育 | 3-3-4-16 | |
昭和24年3月8日〜昭和24年3月12日 | 壁塗り | 3-3-4-17 | |
昭和24年6月29日 | 備品台帳写案 | 3-3-4-18 | |
昭和24年6月29日 | 備品台帳 | 3-3-4-19 | |
昭和24年12月19日 | なぜ私は懸命したか | 3-3-4-20 | |
昭和24年12月15日 | 君が代異変 | 3-3-4-21 | |
昭和24年12月30日〜昭和25年2月28日 | 方向決定 | 3-3-4-22 | |
昭和25年3月1日 | 耐える | 3-3-4-23 | |
昭和25年3月18日 | 年末回顧 | 3-3-4-24 | |
年月日未詳 | 第三年次1950.4....1951.3.昭和二五-二六(見出し) | 3-3-4-25 | |
昭和25年 | 昭和二十五学年度日誌抄 | 3-3-4-26 | |
昭和25年5月23日 | (第三年次) | 3-3-4-27 | |
昭和24年5月10日 | 百万の味方 | 3-3-4-28 | |
昭和25年5月30日 | 行動即教育 | 3-3-4-29 | |
昭和25年1月12日 | 諸行流転 | 3-3-4-30 | |
(昭和25年)5月23日 | 大物ではない | 3-3-4-31 | |
昭和25年11月17日 | 大物をいう | 3-3-4-32 | |
昭和25年4月29日 | 三月三、四日塗装講習(大村講師) | 3-3-4-33 | |
年月日未詳 | 第四年次1951.4....1952.3.昭26-27(見出し) | 3-3-4-34 | |
昭和26年 | 昭和二十六学年度日誌抜 | 3-3-4-35 | |
年月日未詳 | 中津は「中津の教育」を進めよう | 3-3-4-36 | |
昭和26年4月9日 | 一人一研究志向 | 3-3-4-37 | |
昭和26年4月11日 | 生徒工場設立へ | 3-3-4-38 | |
昭和26年5月13日 | 備品台帳 | 3-3-4-39 | |
昭和26年6月10日 | 「共育」の場、所、人 | 3-3-4-40 | |
昭和26年4月7日 | 生誕三年の二中 | 3-3-4-41 | |
昭和26年3月25日 | 石上三年行と忍苦行 | 3-3-4-42 | |
昭和26年3月31日 | 桃栗三年 | 3-3-4-43 | |
昭和52年10月7日 | 愚痴 | 3-3-4-44 | |
(昭和26年11月6日) | (英語にほどほど閉口に付葉書)小石川区台町三宅武夫から(妻)三宅春子宛 | 3-3-4-45 | |
(昭和26年11月9日) | (明日で六分の一終るに付葉書)文京区台町三宅武夫から三宅春子宛 | 3-3-4-46 | |
(昭和26年)11月11日 | (吉祥寺の伊藤様を訪ね成渓の学校を拝見に付手紙)文京区台町三宅武夫から三宅春子宛 | 3-3-4-47 | |
年月日未詳 | (もうあと九日に付手紙)(封筒欠)(三宅)武(夫)から母ちゃん宛 | 3-3-4-48 | |
昭和23年10月31日〜昭和52年11月23日 | 新学制当初の中学校の苦悩証言 公立私学校経営十三年抄誌No.3 | 1 | 3-3-5-0 |
昭和52年11月23日 | (上件に付感想) | 3-3-5-1 | |
昭和52年11月19日 | 初めの言葉 | 3-3-5-2 | |
昭和52年11月15日 | 遊びと喧嘩 | 3-3-5-3 | |
昭和24年9月30日 | 本気で喧嘩し真剣に反省せよ | 3-3-5-4 | |
昭和23年9月30日 | (昭和)23年9月30日記 | 3-3-5-5 | |
昭和23年10月31日 | 吾是非我 | 3-3-5-6 | |
昭和23年11月30日 | 若僧我等 | 3-3-5-7 | |
昭和23年12月3日 | 比べてものを見る | 3-3-5-8 | |
昭和23年12月12日 | 甘えと育ち | 3-3-5-9 | |
昭和23年12月15日 | 苦しみの向うに甘えの安易さは光る | 3-3-5-10 | |
昭和23年12月17日 | 布団のぬくみ | 3-3-5-11 | |
昭和23年12月23日 | 小者小細工柵から落ちる | 3-3-5-12 | |
昭和23年12月28日 | (私の体重)十二貫七百五十 | 3-3-5-13 | |
昭和24年1月9日 | 背触倶非 | 3-3-5-14 | |
昭和24年1月29日 | 熊谷きよ婆 | 3-3-5-15 | |
昭和24年2月25日 | 母の伝言 | 3-3-5-16 | |
昭和24年2月26日 | 町当局との接渉 | 3-3-5-17 | |
昭和24年3月27日 | (破損ガラス)一九八二枚 | 3-3-5-18 | |
年月日未詳 | 昭和廿四年度(第二年次)(見出し) | 3-3-5-19 | |
昭和24年 | 第二年昭和二十四年度職員名 | 3-3-5-20 | |
昭和24年4月1日 | (第二年目の心得) | 3-3-5-21 | |
昭和24年4月10日 | 林檎箱の机から | 3-3-5-22 | |
昭和24年4月25日 | (分かる授業) | 3-3-5-23 | |
昭和24年5月30日 | 始動の兆し-(共に育とう) | 3-3-5-24 | |
昭和24年6月25日 | 教育の畑には真剣が欲しい | 3-3-5-25 | |
昭和24年7月25日 | 皆仲好し | 3-3-5-26 | |
昭和24年8月26日 | 我等の学校 | 3-3-5-27 | |
昭和24年9月29日 | 泥土放光 | 3-3-5-28 | |
昭和25年2月25日 | 二中にやりや何かにする | 3-3-5-29 | |
昭和25年2月26日 | 生徒工場 | 3-3-5-30 | |
昭和25年3月30日 | 耐える修業 | 3-3-5-31 | |
年月日未詳 | 表彰 | 3-3-5-32 | |
年月日未詳 | 現場は忙しい | 3-3-5-33 | |
年月日未詳 | 第三年昭和二十五年度職員名 | 3-3-5-34 | |
年月日未詳 | 第廿五年度(第三年次)(見出し) | 3-3-5-35 | |
昭和25年4月2日 | 野球ばかりがうまくなり | 3-3-5-36 | |
昭和25年4月4日 | 遊びの研究 | 3-3-5-37 | |
昭和25年4月4日 | やれば出来る | 3-3-5-38 | |
昭和25年4月4日 | 救援二高校 | 3-3-5-39 | |
昭和25年4月4日 | 白昼夢 | 3-3-5-40 | |
昭和25年4月5日 | 真剣を嗤うな | 3-3-5-41 | |
昭和25年4月5日 | 前髪ばらり... | 3-3-5-42 | |
昭和25年4月19日 | 逃した魚は大きい | 3-3-5-43 | |
昭和25年5月2日 | 家庭訪問 | 3-3-5-44 | |
昭和25年5月4日 | (県教委)指導課の忠告 | 3-3-5-45 | |
昭和25年6月9日 | 創意-(花瓶) | 3-3-5-46 | |
昭和25年9月10日〜12月20日 | 耐える修業の空しさ | 3-3-5-47 | |
昭和25年11月20日 | 個人表彰 | 3-3-5-48 | |
昭和25年12月1日 | 図書の漸増 | 3-3-5-49 | |
昭和25年12月25日 | 本は買うのが目的か | 3-3-5-50 | |
昭和26年1月3日 | 女教師群の幕作り作業 | 3-3-5-51 | |
昭和26年2月2日 | 「其の案頂き」 | 3-3-5-52 | |
昭和26年2月20日 | 学校祭是非 | 3-3-5-53 | |
昭和26年3月15日 | 校旗樹立 | 3-3-5-54 | |
昭和26年2月10日 | 比べる教育は、大半を損なう | 3-3-5-55 | |
昭和26年3月24日 | 授業時数の不足 | 3-3-5-56 | |
昭和26年3月31日 | 二十五年の反省記 | 3-3-5-57 | |
年月日未詳 | 第四年昭和二十六年度職員名 | 3-3-5-58 | |
年月日未詳 | 第廿六学年度(第四年次)(見出し) | 3-3-5-59 | |
昭和26年4月10日 | 一人一著書要請 | 3-3-5-60 | |
昭和26年4月11日 | 生徒工場 | 3-3-5-61 | |
昭和26年4月20日 | 参観人に追われる | 3-3-5-62 | |
昭和26年5月19日 | 塵芥焼却場作業 | 3-3-5-63 | |
昭和26年5月30日 | 始業鈴から十五分で授業は初(始)まる | 3-3-5-64 | |
昭和26年6月26日 | 本ものを見る | 3-3-5-65 | |
昭和26年8月 | 蛍の名所の変形 | 3-3-5-66 | |
昭和26年8月25日 | 織と博物館 | 3-3-5-67 | |
昭和26年9月30日 | 北の国の素走り | 3-3-5-68 | |
昭和26年10月28日 | 据え膳の教育に根は出ない | 3-3-5-69 | |
昭和26年12月27日 | アイヘル | 3-3-5-70 | |
昭和26年12月28日 | 可愛子に旅 | 3-3-5-71 | |
昭和26年12月30日 | 梅ぼし(栄太楼飴) | 3-3-5-72 | |
昭和27年2月23日 | 印刷機が出来た | 3-3-5-73 | |
昭和27年3月18日 | (人ニ好感を与えない私の人柄) | 3-3-5-74 | |
昭和27年3月20日 | 漢法医薬はきかなんだ | 3-3-5-75 | |
昭和27年3月23日 | 自惚 | 3-3-5-76 | |
昭和27年3月29日 | 第十五年(私の)引退の花道 | 3-3-5-77 | |
昭和27年3月31日 | 廿七年は二中出発第一年次 | 3-3-5-78 | |
年月日未詳 | 第五年昭和二十七年度職員名 | 3-3-5-79 | |
年月日未詳 | 第廿七年(第五年度)(見出し) | 3-3-5-80 | |
昭和27年4月5日〜昭和27年4月15日 | 行動の二十七年 | 3-3-5-81 | |
昭和27年5月30日 | 悪循還 | 3-3-5-82 | |
昭和27年6月22日 | 愛校心も自分の手を汚してみてそこで生れる | 3-3-5-83 | |
昭和27年7月25日 | これならやれる | 3-3-5-84 | |
昭和27年8月2日 | 作(文教育)全(国)協(議会) | 3-3-5-85 | |
昭和27年8月6日 | プール掘地鎮祭と自転車(事故) | 3-3-5-86 | |
昭和27年9月24日 | その気になればやれる | 3-3-5-87 | |
年月日未詳 | その気になる | 3-3-5-88 | |
年月日未詳 | (プール建設) | 3-3-5-89 | |
年月日未詳 | (東海北陸教育研究会の議長) | 3-3-5-90 | |
昭和27年10月 | 教頭推挙の元海軍将校を不採用にする | 3-3-5-91 | |
昭和27年11月30日 | 何でも二中が一番という見方は違いだ | 3-3-5-92 | |
昭和27年12月30日 | 追われては教育はない | 3-3-5-93 | |
昭和28年1月4日 | ニコン写真機 | 3-3-5-94 | |
昭和28年2月24日 | 沈滞 | 3-3-5-95 | |
昭和28年3月15日 | 断裁機 | 3-3-5-96 | |
昭和28年3月29日 | 生徒の為の学校 | 3-3-5-97 | |
昭和28年3月31日 | やれやれやっちまえ | 3-3-5-98 | |
(昭和47年)6月5 | (母十三回忌)摩訶般若波羅密多心教(写経、印刷) | 3-3-5-99 | |
昭和28年4月8日〜昭和31年3月31日 | 新学制実施当初の中学校の苦悩証言 公立私学校経営十三年抄誌No.4 | 1 | 3-3-6-0 |
年月日未詳 | 第二十八年度(六年目)(見出し) | 3-3-6-1 | |
年月日未詳 | 第六年昭和二十八年度職員名 | 3-3-6-2 | |
昭和28年4月11日 | 教育長対談 | 3-3-6-3 | |
昭和28年4月8日 | 小板清治君の参加 | 3-3-6-4 | |
昭和28年4月30日 | 一歩前進はまだ遠い | 3-3-6-5 | |
昭和28年4月26日 | 学校大工の常傭 | 3-3-6-6 | |
昭和28年5月1日 | 四ツ目川清掃 | 3-3-6-7 | |
昭和28年5月1日 | 話合いは駄弁りでいゝか | 3-3-6-8 | |
昭和28年6月6日 | テレビ初見学 | 3-3-6-9 | |
昭和28年6月30日 | テフートー(印刷機) | 3-3-6-10 | |
昭和28年7月5日 | 文化の中心への自負 | 3-3-6-11 | |
昭和28年7月12日 | 本物を見せる | 3-3-6-12 | |
昭和28年9月1日 | 陶器窯 | 3-3-6-13 | |
昭和28年8月21日 | 内田守弥来津 | 3-3-6-14 | |
昭和28年10月18日 | 再び文化の中心は学校の弁 | 3-3-6-15 | |
昭和28年11月23日 | 三宅の曳出し | 3-3-6-16 | |
昭和28年11月30日 | 窯築代 | 3-3-6-17 | |
昭和28年12月22日 | 試験問題 | 3-3-6-18 | |
昭和29年1月25日 | 図書館運営審第二席 | 3-3-6-19 | |
昭和29年1月16日 | 左義長消滅罪 | 3-3-6-20 | |
昭和29年2月9日 | 職家研発表会 | 3-3-6-21 | |
昭和29年3月2日 | 文化の中心論第二四発言とその反響 | 3-3-6-22 | |
昭和52年12月3日 | (文部大臣表彰『教育功労者』をいただき御礼に付手紙)松山市太山寺町篠木重徳から三宅武夫宛 | 3-3-6-23 | |
昭和28年3月31日 | 第六年を終るに当って(昭和28年度) | 3-3-6-24 | |
昭和23年10月30日 | 先生と先生育成 | 3-3-6-25 | |
年月日未詳 | 私の墓 | 3-3-6-26 | |
昭和28年3月29日 | 私の覚悟 | 3-3-6-27 | |
昭和29年3月28日 | 抜群無益 | 3-3-6-28 | |
年月日未詳 | 二十九年(七年目)度(見出し) | 3-3-6-29 | |
年月日未詳 | 第七年昭和二十九年度職員名 | 3-3-6-30 | |
昭和29年4月5日 | 号外印刷と橋場久房先生 | 3-3-6-31 | |
昭和29年4月23日 | 実践活動の強さ | 3-3-6-32 | |
昭和29年5月2日 | 草木染と調理講習 | 3-3-6-33 | |
昭和29年5月27日 | 地域婦人の集合 | 3-3-6-34 | |
昭和29年5月29日 | 内田(守弥)の住宅 | 3-3-6-35 | |
昭和29年6月19日 | (仲間雑誌)どんぐり誌 | 3-3-6-36 | |
昭和29年6月23日 | (「整美週間」) | 3-3-6-37 | |
昭和29年1月1日 | 第九年に入る | 3-3-6-38 | |
昭和29年7月2日 | (重ねて公言する)文化の中心学校 | 3-3-6-39 | |
昭和29年8月10日 | (瀬戸)内海を渡る | 3-3-6-40 | |
昭和29年9月6日 | 創立六周年 | 3-3-6-41 | |
昭和29年9月26日 | 十五号台風到る | 3-3-6-42 | |
昭和29年9月29日 | 何故の転勤勧告 | 3-3-6-43 | |
昭和30年3月3日〜昭和30年3月31日 | 現状とその打開 | 3-3-6-44 | |
年月日未詳 | 三十年(第八年目)(見出し) | 3-3-6-45 | |
年月日未詳 | 第八年昭和三十年度職員名 | 3-3-6-46 | |
昭和30年4月2日 | 公簿調製 | 3-3-6-47 | |
昭和30年4月7日 | 歓送迎会 | 3-3-6-48 | |
昭和30年4月8日 | 帳簿考 | 3-3-6-49 | |
昭和30年4月30日 | 内田守弥 | 3-3-6-50 | |
昭和30年8月1日 | 特殊教育は差別か | 3-3-6-51 | |
昭和30年5月24日〜昭和30年5月31日 | 高山生徒工場長 | 3-3-6-52 | |
昭和30年7月21日 | 職員旅行 | 3-3-6-53 | |
昭和30年8月14日 | 古屋(武)校長逝く | 3-3-6-54 | |
昭和30年8月28日 | (調理室の)タイル張り | 3-3-6-55 | |
昭和30年9月1日 | 熊谷きよさ | 3-3-6-56 | |
昭和30年9月6日 | 開校記念日学校浴室開き | 3-3-6-57 | |
昭和30年10月15日〜30日 | 福原(県教委課長)視察 山下(孝介)教授校舎視察 | 3-3-6-58 | |
昭和30年10月28日 | (講堂)ステージ(-寄進) | 3-3-6-59 | |
昭和30年12月6日 | (中津川教育)八十周年記念行事 | 3-3-6-60 | |
昭和30年12月17日 | おんしゃ幾つんなる? | 3-3-6-61 | |
昭和31年2月15日 | 文化の中心(襖張り講習) | 3-3-6-62 | |
昭和31年2月28日 | やれる 出来る力 | 3-3-6-63 | |
昭和31年3月30日 | 謝々 | 3-3-6-64 | |
昭和31年3月31日 | 科学的教育 | 3-3-6-65 | |
年月日未詳 | はは(母) | 3-3-6-66 | |
昭和31年3月31日 | 謝安 | 3-3-6-67 | |
昭和31年4月14日〜昭和52年12月21日 | 新学制実施当初の中学校の苦悩証言 公立私学校経営十二年抄誌No.5 | 1 | 3-3-7-0 |
年月日未詳 | 昭和三十一年度(見出し) | 3-3-7-1 | |
年月日未詳 | 第九年昭和三十一年度(全職員名) | 3-3-7-2 | |
昭和31年4月14日 | 三十一年が始まる | 3-3-7-3 | |
昭和31年4月20日 | 同情はしない | 3-3-7-4 | |
昭和31年5月21日 | 新任校長講習 | 3-3-7-5 | |
昭和31年6月7日 | 四ツ目川底美化表彰 | 3-3-7-6 | |
昭和31年8月30日 | 教科研究会 | 3-3-7-7 | |
昭和31年7月25日 | 特殊教育の発足 | 3-3-7-8 | |
昭和31年7月25日 | 特教反対の校内 | 3-3-7-9 | |
昭和31年7月23日 | 橋場(君詩集)出版 | 3-3-7-10 | |
昭和31年8月3日 | カルキ禍 | 3-3-7-11 | |
昭和31年9月2日 | 脚並揃う | 3-3-7-12 | |
昭和31年9月16日〜昭和31年9月28日 | 二中移転問題 | 3-3-7-13 | |
昭和31年10月30日 | 建築当初設計に立合った奴は誰だ | 3-3-7-14 | |
昭和31年11月31日 | 行う教育実践 | 3-3-7-15 | |
昭和32年1月27日 | 教師の軽挙と地域教育への影響 | 3-3-7-16 | |
昭和32年2月9日 | 武藤知事視察と二中支援問題 | 3-3-7-17 | |
昭和32年2月21日 | 投書事件の始末と山本教育長の断 | 3-3-7-18 | |
昭和32年3月20日 | 叱る時しっかり叱る要 | 3-3-7-19 | |
昭和32年3月31日 | 七年計画 | 3-3-7-20 | |
年月日未詳 | 昭和三十二年(第十年目)(見出し) | 3-3-7-21 | |
昭和32年 | 第十年昭和三十二年職員名 | 3-3-7-22 | |
昭和32年4月7日 | 旦那衆の娘 | 3-3-7-23 | |
昭和32年4月10日 | 教育実践 | 3-3-7-24 | |
昭和32年4月13日 | うたいの先生 | 3-3-7-25 | |
昭和32年5月6日 | 教員なんか嫌という彼 | 3-3-7-26 | |
昭和32年5月16日 | ブロック積建物 | 3-3-7-27 | |
年月日未詳 | 二中交換問題 | 3-3-7-28 | |
年月日未詳 | (中津川市)教育長急逝前後 | 3-3-7-29 | |
昭和32年5月31日 | 玉置教育長弔問 | 3-3-7-30 | |
昭和32年6月15日 | 音楽研究指定 | 3-3-7-31 | |
昭和32年6月11日 | 教育長後任 | 3-3-7-32 | |
昭和32年7月28日 | 西尾教育長 | 3-3-7-33 | |
昭和32年8月6日 | 野心 | 3-3-7-34 | |
昭和32年8月23日 | 川上水害 | 3-3-7-35 | |
昭和32年8月29日 | 相沢生徒水死 | 3-3-7-36 | |
昭和32年9月30日 | 側溝改修 | 3-3-7-37 | |
昭和32年9月25日 | 政治の谷間。うれうべき教科書問題 | 3-3-7-38 | |
昭和32年11月22日 | 市制実施五周年祝賀 | 3-3-7-39 | |
昭和32年12月9日 | スライド優秀賞 | 3-3-7-40 | |
年月日未詳 | 生徒補導功労賞 | 3-3-7-41 | |
昭和32年10月24日 | 通信票廃止問題 | 3-3-7-42 | |
昭和33年1月27日 | 素人の一言 | 3-3-7-43 | |
昭和33年1月7日 | 勤評反対 | 3-3-7-44 | |
昭和33年3月29日 | 33年3月29日日記写高山教頭 | 3-3-7-45 | |
昭和33年2月22日 | 図書館運営表彰 | 3-3-7-46 | |
年月日未詳 | 教師への信頼 | 3-3-7-47 | |
年月日未詳 | 学歴オンリーの教育 | 3-3-7-48 | |
昭和33年3月31日 | 共育 | 3-3-7-49 | |
年月日未詳 | 昭和三十三年度(第十年目)(見出し) | 3-3-7-50 | |
昭和33年 | 第十一年昭和三十三年度(全職員名) | 3-3-7-51 | |
年月日未詳 | 三十三年度始まる | 3-3-7-52 | |
昭和33年5月4日 | 政治の波間 | 3-3-7-53 | |
昭和33年5月11日 | 七組の生徒 | 3-3-7-54 | |
昭和33年5月19日 | 恵那教育会議 | 3-3-7-55 | |
昭和33年6月28日 | 教育会議幹事会 | 3-3-7-56 | |
昭和33年7月5日 | 熊沢(次郎吉)翁逝く | 3-3-7-57 | |
昭和33年3月26日 | 松田農場入手の纏(顛)末 | 3-3-7-58 | |
昭和33年7月31日 | 鎌倉窯 | 3-3-7-59 | |
昭和33年7月12日 | EEC | 3-3-7-60 | |
昭和33年7月30日 | 血圧上る | 3-3-7-61 | |
昭和33年8月31日 | 十年史 | 3-3-7-62 | |
昭和33年9月30日 | 校長不在 | 3-3-7-63 | |
昭和33年11月17日 | 電報(神坂問題) | 3-3-7-64 | |
昭和33年10月17日 | 市制のたまもの | 3-3-7-65 | |
昭和33年11月1日 | 神坂併合 | 3-3-7-66 | |
昭和33年11月3日 | 教育最優秀賞 | 3-3-7-67 | |
昭和33年11月18日 | (同窓会館)地鎮祭 | 3-3-7-68 | |
昭和33年12月17日 | 青邨記念堂(用古家) | 3-3-7-69 | |
昭和34年1月26日 | 精薄教育放送 | 3-3-7-70 | |
昭和34年2月1日 | (同窓会館建設に)市五十万円寄付 | 3-3-7-71 | |
昭和34年3月1日 | 政治が教育をこわす | 3-3-7-72 | |
昭和34年3月24日 | 同窓会館竣工検査 | 3-3-7-73 | |
昭和34年3月31日 | やりゃできる | 3-3-7-74 | |
年月日未詳 | 満足 | 3-3-7-75 | |
年月日未詳 | 開館落成詩 | 3-3-7-76 | |
昭和34年3月31日 | 三十三年を終る | 3-3-7-77 | |
年月日未詳 | 申訳(恵那教育会議と勤評の関係) | 3-3-7-78 | |
年月日未詳 | 昭和三十四年度(第十一年目)(見出し) | 3-3-7-79 | |
年月日未詳 | 第十二年昭和三十四年度(全職員名) | 3-3-7-80 | |
昭和34年3月31日 | 市長選への用心 | 3-3-7-81 | |
昭和34年4月6日 | 立場 | 3-3-7-82 | |
昭和34年4月9日 | 大転換期 | 3-3-7-83 | |
昭和34年4月8日 | 自分達の手でつくる | 3-3-7-84 | |
昭和34年5月26日 | 岩村中学校長逝く | 3-3-7-85 | |
昭和34年5月30日 | 村瀬課長 | 3-3-7-86 | |
昭和34年6月22日 | 校内教育研究会 | 3-3-7-87 | |
昭和34年7月28日 | 教育を中心にしたい | 3-3-7-88 | |
昭和34年8月20日 | ガットリズム | 3-3-7-89 | |
昭和34年9月10日 | 学内が落ついて来た | 3-3-7-90 | |
昭和34年9月27日 | 伊勢湾台風 | 3-3-7-91 | |
昭和34年9月30日 | 恵那教育会議は赤いという | 3-3-7-92 | |
昭和34年10月26日 | 県図工研 | 3-3-7-93 | |
昭和34年10月18日 | 生徒の部屋より先きに教師の部屋ニストーブが | 3-3-7-94 | |
昭和34年12月28日 | (台風後始末) | 3-3-7-95 | |
昭和35年2月20日 | (近来血圧高く) | 3-3-7-96 | |
昭和35年2月28日 | 図書館経営表彰 | 3-3-7-97 | |
昭和35年3月15日 | 近藤教諭は掃除に熱心 | 3-3-7-98 | |
昭和35年3月28日 | 竹村(中津川)市長死去 | 3-3-7-99 | |
年月日未詳 | 年間反省 | 3-3-7-100 | |
年月日未詳 | 後継者 | 3-3-7-101 | |
昭和35年3月31日 | 西尾教育長 | 3-3-7-102 | |
年月日未詳 | 昭和三十五年度(第十三年目)(見出し) | 3-3-7-103 | |
昭和35年 | 第十三年昭和三十五年度(全職員名) | 3-3-7-104 | |
昭和35年4月1日 | 内田を帰す | 3-3-7-105 | |
昭和35年4月20日 | 松本楢重一日講座 | 3-3-7-106 | |
昭和35年5月31日 | 西尾市長断念勧告 | 3-3-7-107 | |
昭和35年5月6日 | 母逝く | 3-3-7-108 | |
昭和52年12月21日 | 母戒を語り過ぎた | 3-3-7-109 | |
昭和35年6月30日 | 過労 | 3-3-7-110 | |
昭和35年7月7日 | 梧桐一葉 | 3-3-7-111 | |
昭和35年7月10日 | EEC | 3-3-7-112 | |
昭和35年7月31日 | 弾圧の中で | 3-3-7-113 | |
昭和35年8月25日 | 行事予定板考究 | 3-3-7-114 | |
昭和35年8月31日 | 人情の常 | 3-3-7-115 | |
昭和35年9月6日 | 火花の散る時 | 3-3-7-116 | |
昭和35年9月30日 | 紀念品製作 | 3-3-7-117 | |
昭和35年10月3日 | 教育低落 | 3-3-7-118 | |
昭和35年10月8日 | 勝沼先生招請 | 3-3-7-119 | |
昭和35年10月30日 | 中津の教育委員会 | 3-3-7-120 | |
昭和35年11月5日 | 三宅一男氏逝く | 3-3-7-121 | |
昭和35年11月7日 | 加藤、熊谷表彰 | 3-3-7-122 | |
昭和35年11月28日 | 安江教育長母逝去 | 3-3-7-123 | |
昭和35年11月30日 | 二中の後任 | 3-3-7-124 | |
昭和35年12月18日 | ポリエステル作務 | 3-3-7-125 | |
昭和36年1月8日 | 整理作業 | 3-3-7-126 | |
昭和36年1月30日 | 葬送曲(三宅の首切り) | 3-3-7-127 | |
昭和36年2月23日 | 引続書作製 | 3-3-7-128 | |
昭和36年2月28日 | 同窓会館に収入役文句 | 3-3-7-129 | |
昭和36年2月11日 | 記念作業 | 3-3-7-130 | |
昭和36年3月14日 | 後任決定会議 | 3-3-7-131 | |
昭和36年3月26日 | 退職願ニ捺印 | 3-3-7-132 | |
(昭和36年)3月27日 | 電報 | 3-3-7-133 | |
昭和36年4月3日 | 覚悟 | 3-3-7-134 | |
昭和51年6月15日〜昭和53年12月1日 | 公立私学校経営十三年の証言S23.9-25.3創業当時の記録(背表紙には「公立私学校十三年抄史(1)」とある) | 1 | 3-3-8-0 |
昭和23年9月15日(昭和53年12月1日) | 公立私学校の由来 | 3-3-8-1 | |
昭和51年6月15日 | 公立私学校の経営について | 3-3-8-2 | |
年月日未詳 | 初めに(挨拶代り) | 3-3-8-3 | |
昭和51年6月28日 | 私の履歴書、略記 | 3-3-8-4 | |
昭和51年7月10日 | 公立私学校経営十三年史 初めに | 3-3-8-5 | |
年月日未詳 | 第二年目に入るに当って | 3-3-8-6 | |
昭和24年3月31日 | 半年終って | 3-3-8-7 | |
年月日未詳 | 第二年目に入る | 3-3-8-8 | |
年月日未詳 | 満一年経過 | 3-3-8-9 | |
年月日未詳 | 昭和二十四年を終る | 3-3-8-10 | |
年月日未詳 | 第二年を終るに当って | 3-3-8-11 | |
昭和25年4月19日〜昭和27年4月1日 | 公立私学校経営十三年の証言S26-S28校内返(反)逆苦難時代記録(背表紙には「公立私学校十三年抄史(2)」とある) | 1 | 3-3-9-0 |
年月日未詳 | (初めの言葉) | 3-3-9-1 | |
昭和25年4月19日 | 脚かけ三年目の出発(昭和25年度の主な出来事を月毎に記入してある) | 3-3-9-2 | |
昭和26年4月1日 | 決議の年至る(昭和26年度の主な出来事を月毎に記入してある) | 3-3-9-3 | |
昭和27年4月1日 | 昭和廿七年度が始まる(昭和27年度の主な出来事を月毎に記入してある) | 3-3-9-4 | |
昭和28年〜昭和30年 | 公立私学校経営十三年の証言S28-S31(背表紙には「公立私学校十三年の抄史(3)」とある) | 1 | 3-3-10-0 |
昭和28年3月31日 | (序) | 3-3-10-1 | |
年月日未詳 | (昭和二十八年度・S28年度の主な出来事が月毎に記入してある) | 3-3-10-2 | |
年月日未詳 | (昭和二十九年度・S29年度の主な出来事が月毎に記入してある) | 3-3-10-3 | |
年月日未詳 | (昭和三十年度・S30年度の主な出来事が月毎に記入してある) | 3-3-10-4 | |
昭和31年4月〜昭和33年3月 | 公立私学校経営十三年の証言S32(31.4)-33(背表紙には「公立私学校十三年抄史(4)」とある) | 1 | 3-3-11-0 |
年月日未詳 | 目次 | 3-3-11-1 | |
昭和31年3月31日 | 三十年度終末の反省と「我」 | 3-3-11-2 | |
昭和31年4月2日 | 三十一学年への出発(31年度の主な出来事を月毎に記入してある) | 3-3-11-3 | |
年月日未詳 | (32年度の主な出来事を月毎に記入してある) | 3-3-11-4 | |
年月日未詳 | 現場における教育問題当面の苦しみ | 3-3-11-5 | |
年月日未詳 | 教育長急逝から西尾教育長 | 3-3-11-6 | |
年月日未詳 | 職員一研究の発表の際に自分も参加の為の稿 | 3-3-11-7 | |
年月日未詳 | 行事予定板製作案 | 3-3-11-8 | |
年月日未詳 | (行事予定原案における序)はじめに | 3-3-11-9 | |
昭和35年1月20日 | 校長・三宅武夫「はじめに」「(中津川市立第二中学校)科学教育の事例研究」 | 3-3-11-10 | |
年月日未詳 | 岐阜県中津川市立第二中学校同生徒会同育友会其他諸行事推進予定表 | 3-3-11-11 | |
年月日未詳 | 第二輯 | 3-3-11-12 | |
年月日未詳 | 行事予定板製作案 | 3-3-11-13 | |
昭和33年〜昭和36年4月7日 | 公立私学校経営十三年の証言昭和三十三年四月〜三十六年三月(背表紙には「公立私学校十三年抄史(5)」とある) | 1 | 3-3-12-0 |
年月日未詳 | 昭和三十三年度(S33年度の主な出来事が月毎に記入されている) | 3-3-12-1 | |
年月日未詳 | 昭和三十四年度(S34年度の主な出来事が月毎に記入されている) | 3-3-12-2 | |
昭和35年3月31日 | 三十五年度を迎える | 3-3-12-3 | |
年月日未詳 | 昭和三十五年度(S35年度の主な出来事が月毎に記入されている) | 3-3-12-4 | |
昭和36年4月7日 | (退職についての思いが綴られている) | 3-3-12-5 | |
昭和52年7月10日 | 公立私学校経営ノ顛末記挨拶稿(背表紙には「挨拶 顛末記ニよせる」とある) | 1 | 3-3-13-0 |
昭和52年10月末 | (昭和28年度迄)二中公立私学校経営十三年間日々誌(年表)上 | 1 | 3-3-14-0 |
年月日未詳 | (昭和35年度迄)二中公立私学校経営十三年間日々誌(年表)下 | 1 | 3-3-15-0 |
(昭和55年7月7日) | 公立私学校経営一 | 1 | 3-3-16-0 |
年月日未詳 | 公立私学校沿革誌抄 | 3-3-16-1 | |
昭和55年7月7日 | 公立私学校思出ばなし 目録 | 3-3-16-2 | |
年月日未詳 | 中津川二中の経営 もう一つの証言 | 3-3-16-3 | |
年月日未詳 | 三宅武夫年譜略誌 | 3-3-16-4 | |
年月日未詳 | 三宅武夫年譜 | 3-3-16-5 | |
昭和55年9月9日 | 公立私学校の共育 | 3-3-16-6 | |
年月日未詳 | 昭和二十三学年を終えて | 3-3-16-7 | |
年月日未詳 | 新学制実施時代の恵那の教育の中で | 3-3-16-8 | |
昭和55年6月〜昭和55年7月13日 | 公立私学校の経営二(背表紙には「公立私学校経営二」とある) | 1 | 3-3-17-0 |
年月日未詳 | (公立私学校の立ち上げについて) | 3-3-17-1 | |
年月日未詳 | 共育論 | 3-3-17-2 | |
年月日未詳 | 「記録公開」を承認したら何を述べるべきか | 3-3-17-3 | |
年月日未詳 | 初めの挨拶 | 3-3-17-4 | |
年月日未詳 | 考 三宅を育てた人々 | 3-3-17-5 | |
年月日未詳 | 公立私学校記録(記述なし) | 3-3-17-6 | |
年月日未詳 | この一冊で何を言いたいと思ったか | 3-3-17-7 | |
年月日未詳 | 緒言 | 3-3-17-8 | |
年月日未詳 | 文化の流れ | 3-3-17-9 | |
年月日未詳 | 恵那地域に影響した人々の略歴 | 3-3-17-10 | |
年月日未詳 | 元中津商業学校はどうなっていたか。市費はどうなっていたのか | 3-3-17-11 | |
昭和55年7月13日 | 何を考えて何をどうしたのか、具体的に 領収書の雛形の写し | 3-3-17-12 | |
年月日未詳 | 県教委指導主事S・I先生 | 3-3-17-13 | |
昭和55年6月 | 責任者個別折衝 | 3-3-17-14 | |
年月日未詳 | 運営費自弁交渉をした理由など | 3-3-17-15 | |
(昭和31年12月12日) | 公立私学校経営三 | 1 | 3-3-18-0 |
年月日未詳 | 公立私学校経営略誌 | 3-3-18-1 | |
年月日未詳 | 公立私学校運営抄史 | 3-3-18-2 | |
年月日未詳 | 公立私学校沿革抄 | 3-3-18-3 | |
年月日未詳 | 公立私学校 | 3-3-18-4 | |
年月日未詳 | 公立私学校諸事情 | 3-3-18-5 | |
年月日未詳 | (恵那の教育と第二中学校) | 3-3-18-6 | |
年月日未詳 | 恵那郡教育と中津川第二中学校の関係 | 3-3-18-7 | |
年月日未詳 | 中津川市立第2中学校 | 3-3-18-8 | |
(昭和31年12月12日) | 公立私学校の諸事情 | 3-3-18-9 | |
4 恵那教育会議議長 | |||
(1)恵那雑巾 | |||
昭和50年1月13日〜 昭和50年2月16日 | 恵那雑巾の共育(差し直し考)みる こゝろみる 思う わける わかる 出来るよい子 | 1 | 3-4(1)-1-0 |
昭和50年1月13日 | わかる授業 教える、示す、習う、倣う、真似る、分ける、分かる、出来る、よい子。 | 3-4(1)-1-1 | |
昭和50年2月16日 | じぶんでわける、わかる、できる よいこと共に育つ話 | 3-4(1)-1-2 | |
年月日未詳 | 分ける ならべる 直す 作る 出来るよい子 | 3-4(1)-1-3 | |
(昭和52年) | 此地ニ必要な本当の教育は何かに応えて 恵那雑巾共の志向1 | 1 | 3-4(1)-2-0 |
年月日未詳 | 甘えとっちゃ駄茶漢はなし | 3-4(1)-2-1 | |
年月日未詳 | 猫さ | 3-4(1)-2-2 | |
年月日未詳 | 雨宮校長と和歌浦糸子 | 3-4(1)-2-3 | |
年月日未詳 | (松山中焼失と責任問題) | 3-4(1)-2-4 | |
年月日未詳 | 圭一の算数 | 3-4(1)-2-5 | |
(昭和53年) | 此地域ニ必要な本当の教育は何かに応えて 恵那雑巾共の志向II | 1 | 3-4(1)-3-0 |
年月日未詳 | 共育への背骨 | 3-4(1)-3-1 | |
年月日未詳 | 背中のいれずみ | 3-4(1)-3-2 | |
年月日未詳 | 牛耕は失敗だった | 3-4(1)-3-3 | |
年月日未詳 | ジンチャン(江幡仲衛)リレキ(1)(江幡先生履歴書送付手紙)赤座憲久から三宅宛(2)江幡仲衛「歳月を顧みて」(印刷)江幡仲衛先生謝恩事業運営委員会発行(3)同「功績調書」 | 3-4(1)-3-4 | |
年月日未詳 | 勲章はいらん | 3-4(1)-3-5 | |
年月日未詳 | 扇面 | 3-4(1)-3-6 | |
年月日未詳 | 教員養成校に教科専門教師が多過ぎる話 | 3-4(1)-3-7 | |
年月日未詳 | 二十四時間生活と出合い(松山時代のこと) | 3-4(1)-3-8 | |
年月日未詳 | 長井章の国民服 | 3-4(1)-3-9 | |
(昭和53年) | 恵那雑巾の土性骨 | 1 | 3-4(1)-4-0 |
(昭和53年4月14日) | (序文) | 3-4(1)-4-1 | |
年月日未詳 | 恵那地域の教育の系譜 | 3-4(1)-4-2 | |
(昭和53年)4月21日 | (中津川と成田空港の距離等に付回答手紙)坂本千旦林小島幸吉から | 3-4(1)-4-3 | |
昭和49年1月20日 | 恩師岡山守五先生謝恩の碑(しおり) | 3-4(1)-4-4 | |
年月日未詳 | 恵那地域の特異性 | 3-4(1)-4-5 | |
年月日未詳 | 石田隆碩の行動教育 | 3-4(1)-4-6 | |
昭和53年1月23日 | (参上御礼・結婚に付手紙)岐阜市六条野村芳兵衛から三宅武夫宛(同封された三宅夫妻と野村芳兵衛、三宅夫妻と野村深雪、野村芳兵衛と三宅武夫の写真を貼付) | 3-4(1)-4-7 | |
昭和56年6月16日〜昭和56年7月2日 | 恵那雑巾・共育と地域考(内表紙には「恵那雑巾・教育と地域考・共育回想」とある) | 1 | 3-4(1)-5-0 |
昭和56年6月30日 | 恵那雑巾 教育と地域考 共育回想 | 3-4(1)-5-1 | |
年月日未詳 | 目録 | 3-4(1)-5-2 | |
昭和56年6月16日 | 勝野尚行氏との話合いの中から | 3-4(1)-5-3 | |
年月日未詳 | 或日の対談(石田先生・武夫と回想記) | 3-4(1)-5-4 | |
年月日未詳 | 共育に至る行動教育の実態 | 3-4(1)-5-5 | |
年月日未詳 | 地域に関係して | 3-4(1)-5-6 | |
年月日未詳 | 地域に根ざす 地域に立脚する 地域ぐるみ | 3-4(1)-5-7 | |
年月日未詳 | 恵那雑巾 | 3-4(1)-5-8 | |
昭和55年8月10日 | 恵那雑巾の共育 | 3-4(1)-5-9 | |
年月日未詳 | 恵那地区教育の原点 | 3-4(1)-5-10 | |
昭和56年6月18日 | 地域という言葉について | 3-4(1)-5-11 | |
(昭和56年)7月2 | (地域に関する用語に付手紙)岐阜市長良北町鈴木頼恭から三宅武夫宛(上原専禄「地域とは何か」『国民教育-地域に根ざす共育』コピー同封) | 3-4(1)-5-12 | |
昭和58年8月26日〜昭和58年10月22日 | 恵那雑巾の共育考其二(見返しには「恵那雑巾第二号原稿原」とある) | 1 | 3-4(1)-6-0 |
(昭和58年)8月26日 | 文化学園都市づくりをもとめて80翁・三宅武夫の世界(チラシ複写)主催中津川市・中津川市教育委員会・中津川市文化会館組合 | 3-4(1)-6-1 | |
(昭和58年8月28日) | 朝日新聞切抜(やるなあ80翁 中津川の元教育委員長三宅さん) | 3-4(1)-6-2 | |
昭和58年9月28日 | 岐阜日々新聞夕刊切抜(コピー)(夕閑帳・あかねるつ(三宅武夫の)みる きく つくる) | 3-4(1)-6-3 | |
昭和58年8月26日 | 文化学園都市づくりをもとめて「八十翁三宅武夫の世界」展(解説文・中津川市長小池保「共育一筋に生きてこられた三宅武夫先生」あり) | 3-4(1)-6-4 | |
年月日未詳 | 恵那地域における共育人脈考二 | 3-4(1)-6-5 | |
年月日未詳 | 恵那雑巾への稿 | 3-4(1)-6-6 | |
昭和58年10月22日 | これからやっとかにゃならん仕事 | 3-4(1)-6-7 | |
(昭和60年) | 下書の(恵那雑巾の頃)記憶1(表紙には「反故をすてぬ一」とあり、見返しには「恵那雑巾の下書き」とある) | 1 | 3-4(1)-7-0 |
年月日未詳 | 恵那雑巾の源流考 拾うべき人物 | 3-4(1)-7-1 | |
年月日未詳 | 恵那雑巾の源流考 | 3-4(1)-7-2 | |
年月日未詳 | 恵那雑巾の淵源考資料-「岩村出身」佐藤坦(一斎)略歴- | 3-4(1)-7-3 | |
年月日未詳 | 明治期の恵那の教育 | 3-4(1)-7-4 | |
年月日未詳 | 他地区から来県の人々 | 3-4(1)-7-5 | |
年月日未詳 | 恵那雑巾誌ニ寄せる稿 | 3-4(1)-7-6 | |
年月日未詳 | 下書の(恵那雑巾の頃)記憶2(表紙には「反故をすてぬ二」とあり、見返しには「恵那雑巾の下書き二」とある) | 1 | 3-4(1)-8-0 |
年月日未詳 | 恵那雑巾によせて(昨年10月から4ヶ月程病気とある) | 3-4(1)-8-1 | |
年月日未詳 | 恵那雑巾によせる(No.4稿) | 3-4(1)-8-2 | |
年月日未詳 | 私の校長は二人あった | 3-4(1)-8-3 | |
年月日未詳 | 「恵那雑巾」の流に拾う | 3-4(1)-8-4 | |
年月日未詳 | 恵那の教育過去の実践を考える | 3-4(1)-8-5 | |
(2)恵那の共育 | |||
昭和47年(12月12日) | (秘)恵那の教育反省期(背表紙には「恵那地域教育共育の原点考」とある) | 1 | 3-4(2)-1-0 |
年月日未詳 | 何を調べるか第一 | 3-4(2)-1-1 | |
年月日未詳 | 誰と何とに焦点をおくか | 3-4(2)-1-2 | |
年月日未詳 | 恵那の教育考・恵那雑巾の共育歴考 | 3-4(2)-1-3 | |
(昭和50年12月〜昭和56年) | 恵那地域の教育 | 1 | 3-4(2)-2-0 |
(昭和50年12月) | 佐藤一斎と平田篤胤の影響について | 3-4(2)-2-1 | |
年月日未詳 | 間杢衛門と中津高等女学校の創立 | 3-4(2)-2-2 | |
年月日未詳 | 鷹見豊次郎と(岩村教育)恵那地域の教育 | 3-4(2)-2-3 | |
年月日未詳 | 玉置源次郎と其の子孫達の教育 | 3-4(2)-2-4 | |
年月日未詳 | 阿部栄之助(師範学校教諭) | 3-4(2)-2-5 | |
年月日未詳 | 加藤護一の恵那郡史出版 | 3-4(2)-2-6 | |
(昭和56年) | ホッチョセ節 | 3-4(2)-2-7 | |
年月日未詳 | 志津栄一と松尾農場 | 3-4(2)-2-8 | |
年月日未詳 | 実業補習学校と坂下の教育 | 3-4(2)-2-9 | |
年月日未詳 | 伊藤恭一の政治性と口田問題 | 3-4(2)-2-10 | |
年月日未詳 | 中津商業学校と恵那中学校 | 3-4(2)-2-11 | |
年月日未詳 | 保母肇の女子教育 | 3-4(2)-2-12 | |
年月日未詳 | 浅野とくと女子教育 | 3-4(2)-2-13 | |
年月日未詳 | 勤彊学園と古屋武とその子達 | 3-4(2)-2-14 | |
年月日未詳 | 加子母の聖恩学園教育を中心にする雑談 | 3-4(2)-2-15 | |
(昭和53年) | 恵那地区で西尾(彦朗)先生を送る挨拶(挨拶稿) | 3-4(2)-2-16 | |
年月日未詳 | 恵那地域での送別会(西尾先生送別の集い) | 3-4(2)-2-17 | |
年月日未詳 | 丹羽弥の生物学研究と恵那地域への影響 | 3-4(2)-2-18 | |
年月日未詳 | 先輩の実績と「我等の業跡」反省 | 3-4(2)-2-19 | |
昭和52年7月14日〜昭和57年1月5日 | 共育という言葉はどうしていつから使ったか | 1 | 3-4(2)-3-0 |
年月日未詳 | 言葉の中にあるもの考 | 3-4(2)-3-1 | |
昭和52年8月19日 | 教育と共育 | 3-4(2)-3-2 | |
昭和52年7月14日 | 塾・学力 | 3-4(2)-3-3 | |
昭和57年1月5日 | 「えなの共育」第9号 恵那教育連絡会議発行 | 3-4(2)-3-4 | |
年月日未詳 | 「共育の原点」考 | 3-4(2)-3-5 | |
年月日未詳 | (三宅武夫略歴)年次別考(昭和56年6月迄) | 3-4(2)-3-6 | |
昭和53年7月30日 | 恵那地域における共育の流れ | 1 | 3-4(2)-4-0 |
昭和53年7月18日 | はじめに | 3-4(2)-4-1 | |
昭和53年1月16日 | 中身の概説と落書I | 3-4(2)-4-2 | |
昭和53年4月9日 | 「恵那雑巾」共の共育 | 3-4(2)-4-3 | |
昭和53年5月9日 | 知ること、出来ること | 3-4(2)-4-4 | |
昭和53年6月19日 | 恵那雑巾共も少し賢くなれ | 3-4(2)-4-5 | |
年月日未詳 | 恵那雑巾が育った「現場」で二百年間誰が何をしして見せたか | 3-4(2)-4-6 | |
昭和53年7月11日〜昭和53年7月19日 | 恵那地域の教育の流れ | 3-4(2)-4-7 | |
年月日未詳 | 明治教育から大正期への移行期 | 3-4(2)-4-8 | |
年月日未詳 | 敗戦後混乱の中で恵那雑巾共は共育を考えた | 3-4(2)-4-9 | |
年月日未詳 | 作全教の丸山雅巳 | 3-4(2)-4-10 | |
年月日未詳 | 教育研究所の石田和男 | 3-4(2)-4-11 | |
年月日未詳 | 恵那雑巾の共育と指導助言者 | 3-4(2)-4-12 | |
年月日未詳 | 雑巾共の育ってきた・中にあった・外から与えた共育の様々 | 3-4(2)-4-13 | |
年月日未詳 | お弟子大明神 | 3-4(2)-4-14 | |
年月日未詳 | 次代をになう人々の群 | 3-4(2)-4-15 | |
年月日未詳 | 勤評と恵那教育会議 | 3-4(2)-4-16 | |
年月日未詳 | 再び作全協 | 3-4(2)-4-17 | |
年月日未詳 | 教育百年展と中津川の姿勢 | 3-4(2)-4-18 | |
年月日未詳 | 教育市民会議と映画「夜明けへの道」 | 3-4(2)-4-19 | |
年月日未詳 | これからの恵那地域の共育の為に | 3-4(2)-4-20 | |
年月日未詳 | 表 | 3-4(2)-4-21 | |
年月日未詳 | 恵那地域の教育の系譜 | 3-4(2)-4-22 | |
年月日未詳 | 総括(この系譜に三宅自身の筆による「公立私学校」論P156〜あり) | 3-4(2)-4-23 | |
年月日未詳 | 名刺 岐阜経済大学教授教育学博士勝野尚行 | 3-4(2)-4-24 | |
年月日未詳 | 名刺 名古屋短期大学教務課長式庄憲二 | 3-4(2)-4-25 | |
昭和53年 | 驚きの中にあった共育 | 1 | 3-4(2)-5-0 |
年月日未詳 | 雑記印刷物標題考 | 3-4(2)-5-1 | |
年月日未詳 | 印刷物初工夫 もくじ | 3-4(2)-5-2 | |
年月日未詳 | これから何を書くつもりか | 3-4(2)-5-3 | |
(昭和51年) | 驚きの共育(挿入図あり)恵那山 | 3-4(2)-5-4 | |
年月日未詳 | 恵那地域教育のルーツ | 3-4(2)-5-5 | |
昭和54年3月15日 | 草土文化社梅津勝恵岩堀瑞子来訪 | 3-4(2)-5-6 | |
年月日未詳 | 名刺 株式会社草土文化出版部岩堀瑞子 | 3-4(2)-5-7 | |
昭和53年8月18日 | 恵那地域二百年の教育展望・恵那雑巾共の共育の系譜 | 3-4(2)-5-8 | |
年月日未詳 | 恵那雑巾共の共育 | 3-4(2)-5-9 | |
昭和53年4月3日 | 伝記 | 3-4(2)-5-10 | |
年月日未詳 | 江戸期における恵那の教育の源泉 | 3-4(2)-5-11 | |
年月日未詳 | 恵那雑巾共の中心となった人々の履歴調 | 3-4(2)-5-12 | |
年月日未詳 | 明治期の恵那地域の教育 | 3-4(2)-5-13 | |
年月日未詳 | 大正期の恵那地域教育 | 3-4(2)-5-14 | |
昭和53年8月8日 | 大正昭和(戦前)期の恵那地域の教育 | 3-4(2)-5-15 | |
年月日未詳 | 隅感 | 3-4(2)-5-16 | |
年月日未詳 | よそもの共の恵那地域教育評 | 3-4(2)-5-17 | |
年月日未詳 | 権力の威圧 | 3-4(2)-5-18 | |
昭和50年10月8日 | 恵那地区教育の原点考(馬木村太門次宅図絵)(印刷)2枚 | 3-4(2)-5-19 | |
(昭和49年) | うたくず(三宅武夫の戦前戦後の短歌・俳句選句) | 3-4(2)-5-20 | |
昭和53年8月19日 | (小池市長来訪返答に付)間四郎氏(略歴) | 3-4(2)-5-21 | |
年月日未詳 | (中津川二中)生徒会(歴代)役員(表) | 3-4(2)-5-22 | |
年月日未詳 | (臭いに付覚え) | 3-4(2)-5-23 | |
(昭和53年) | (七十五老人の一日) | 3-4(2)-5-24 | |
(3)恵那教育の系譜 | |||
昭和47年12月2日〜昭和52年12月21日 | 資料恵那地域に於ける教育の系譜-特殊恵那地域教育略表- | 1 | 3-4(3)-1-0 |
昭和52年12月21日 | 何を目あてに調べてみるのか | 3-4(3)-1-1 | |
年月日未詳 | 恵那地域の教育(目次) | 3-4(3)-1-2 | |
年月日未詳 | 恵那地域に於ける教育の系譜年表 | 3-4(3)-1-3 | |
年月日未詳 | 恵那地域の特種地域教育(推移年表) | 3-4(3)-1-4 | |
昭和51年4月3日 | 恵那雑巾共の教育 | 3-4(3)-1-5 | |
昭和47年12月12日〜昭和51年11月9日 | 恵那地域の教育山脈考 | 3-4(3)-1-6 | |
昭和52年1月17日 | 愚直一本(恵那雑巾考) | 3-4(3)-1-7 | |
昭和52年1月18日 | 恵那地域教育の系譜の為に何を拾うか | 3-4(3)-1-8 | |
昭和52年1月18日 | 恵那地域の教育に努力した人々調べ | 3-4(3)-1-9 | |
年月日未詳 | 恵那地域教育の系譜の中で取上げる問題と人 | 3-4(3)-1-10 | |
年月日未詳 | 恵那地域教育系譜の中の各人履歴抄 | 3-4(3)-1-11 | |
年月日未詳 | 石田隆碩と行動教育 | 3-4(3)-1-12 | |
年月日未詳 | 稲垣春吉と高等国民学校 | 3-4(3)-1-13 | |
年月日未詳 | 「梅沢英造の労働教育」と行動教育 | 3-4(3)-1-14 | |
年月日未詳 | 三尾栄二と耕道学園(土と教育) | 3-4(3)-1-15 | |
昭和51年5月29日・30 | 西尾彦朗の興村教育と価値観 | 3-4(3)-1-16 | |
昭和50年10月25日〜昭和51年1月15日 | No.0恵那地域ニ於ける教育の系譜源考 | 1 | 3-4(3)-2-0 |
年月日未詳 | 逞しい生活意欲をもつ生産人の育成を願った話 | 3-4(3)-2-1 | |
昭和50年10月25日 | (同上件)初案 | 3-4(3)-2-2 | |
昭和51年1月15日 | 恵那教育の系譜考・資料貸与願いの件 三宅武夫から恵那高等学校長渡辺宛 | 3-4(3)-2-3 | |
年月日未詳 | (西尾彦朗を考える) | 3-4(3)-2-4 | |
年月日未詳 | (恵那地域の教育原点の起きた)趣旨 | 3-4(3)-2-5 | |
年月日未詳 | (恵那地域に於ける教育の系譜源考構成案) | 3-4(3)-2-6 | |
昭和50年12月12日 | 何を調べるか第二 | 3-4(3)-2-7 | |
年月日未詳 | 文化と文明 | 3-4(3)-2-8 | |
年月日未詳 | 明智町教育長島村四三「教育随想『学力』について(切抜)」 | 3-4(3)-2-9 | |
年月日未詳 | 初めに | 3-4(3)-2-10 | |
年月日未詳 | 恵那郡人の大概 | 3-4(3)-2-11 | |
年月日未詳 | 中津の教育の原点 中津川古老にきく | 3-4(3)-2-12 | |
昭和50年10月10日〜昭和50年12月5日 | 恵那地域ニ於ける教育の系譜考No.1江戸期 | 1 | 3-4(3)-3-0 |
昭和50年10月10日 昭和50年10月20日 |
恵那地区の教育原点を探る要 | 3-4(3)-3-1 | |
年月日未詳 | 調査依頼文案 | 3-4(3)-3-2 | |
年月日未詳 | 朱子学と陽明学、古学と国学の競争 | 3-4(3)-3-3 | |
年月日未詳 | 二中の教育は誰の系統によるものか? | 3-4(3)-3-4 | |
年月日未詳 | (江戸時代以降戦争前迄概説史) | 3-4(3)-3-5 | |
昭和50年12月5日 | (恵那地域ニ於ける教育の系譜考 構想案) | 3-4(3)-3-6 | |
年月日未詳 | 佐藤一斎を中心に王陽明、朱熹の学問系列と愚鈍な馬鹿正直な田舎臭い恵那雑巾と鋭敏忽ち先頭切る秀才型人間の併存 | 3-4(3)-3-7 | |
年月日未詳 | 興村(教育)西尾(彦朗) | 3-4(3)-3-8 | |
昭和47年6月7日〜昭和50年8月3日 | 恵那地域ニ於ける教育の系譜考No.2明治期 | 1 | 3-4(3)-4-0 |
昭和48年9月2日 | 恵那地域における教育の系譜 玉置源治郎 | 3-4(3)-4-1 | |
年月日未詳 | 恵那地域における教育の系譜 玉置忠良 | 3-4(3)-4-2 | |
昭和48年10月15日 | 石田隆碩の生活綴方話合いと「行動教育」 | 3-4(3)-4-3 | |
昭和50年2月3日 | 稲垣春吉の興民教育 | 3-4(3)-4-4 | |
昭和47年6月7日 | 梅沢栄造と「労作教育」 | 3-4(3)-4-5 | |
昭和50年8月3日 | 付知町三尾栄二の耕道学園 | 3-4(3)-4-6 | |
昭和16年10月 | 岐阜県恵那郡付知国民学校編刊『土と教育 皇民錬成と耕道学園』 | 3-4(3)-4-7 | |
昭和50年6月6日 | 恵那地域ニ於ける教育の系譜考No.5戦後版 | 1 | 3-4(3)-5-0 |
昭和50年6月6日 | 二中の創立と新学制 教育研究所 | 3-4(3)-5-1 | |
年月日未詳 | 公立私学校の宣言とその始末別ニ(尾藤証言) | 3-4(3)-5-2 | |
年月日未詳 | 共育論議分ける分かる出来る子よい子 | 3-4(3)-5-3 | |
昭和51年1月16日 | 稿本No.1恵那地域ニ於ける教育の系譜ニついて | 1 | 3-4(3)-6-0 |
昭和51年2月11日 | 恵那地域ニ於ける教育の系譜稿(中津川市教育学会に於ける発表原稿) | 1 | 3-4(3)-7-0 |
(昭和51年) | 母親達に語る稿本 恵那地域ニおける教育の系譜考(こらえる)(背表紙には「教育の系譜雑考」とある) | 1 | 3-4(3)-8-0 |
年月日未詳 | 恵那の地域の教育 | 3-4(3)-8-1 | |
年月日未詳 | 恵那の地域の中の悪童話 | 3-4(3)-8-2 | |
年月日未詳 | 江戸期 | 3-4(3)-8-3 | |
年月日未詳 | 江戸・明治の間の町村の離合 | 3-4(3)-8-4 | |
年月日未詳 | 漫然と恵那地区の中の教育者回想 | 3-4(3)-8-5 | |
年月日未詳 | 江戸末以後の教育現場の功労者表 | 3-4(3)-8-6 | |
年月日未詳 | 西尾彦朗の教育方向(はだかの西尾彦朗) | 3-4(3)-8-7 | |
昭和51年5月22日 | 昭和51年(1976)五月廿二日(土曜日)西尾市長退官送別会の挨拶控 | 3-4(3)-8-8 | |
(昭和51年頃) | 母親達に語る稿本 恵那地域における教育の系譜考(背表紙には「教育の系譜雑考」とある) | 1 | 3-4(3)-9-0 |
年月日未詳 | 「恵那雑巾」共の仕草 | 3-4(3)-9-1 | |
年月日未詳 | 学力進学 能力実力 | 3-4(3)-9-2 | |
年月日未詳 | 共育 | 3-4(3)-9-3 | |
年月日未詳 | 不憤不啓不排不発 | 3-4(3)-9-4 | |
年月日未詳 | 江戸期〜昭和期区分 | 3-4(3)-9-5 | |
年月日未詳 | 恵那の教育五期分年表 | 3-4(3)-9-6 | |
年月日未詳 | 第二期、三・四・五期年表 | 3-4(3)-9-7 | |
年月日未詳 | 西高東低考 | 3-4(3)-9-8 | |
昭和51年3月31日〜昭和51年10月22日 | 恵那地域の教育系譜 | 1 | 3-4(3)-10-0 |
年月日未詳 | これを纏めたらどう題目をつけるか | 3-4(3)-10-1 | |
年月日未詳 | 恵那地域教育の系譜起稿の態度 目録 | 3-4(3)-10-2 | |
昭和51年3月31日 | 初めの言葉 | 3-4(3)-10-3 | |
年月日未詳 | 坂下の青年教育 | 3-4(3)-10-4 | |
年月日未詳 | 私の教育六十年譜抜 | 3-4(3)-10-5 | |
年月日未詳 | 私の教育六十年譜考 | 3-4(3)-10-6 | |
年月日未詳 | 今後「教育」で目をつけなくてはならぬ所 | 3-4(3)-10-7 | |
年月日未詳 | 教育考「教育」は思い上がりである | 3-4(3)-10-8 | |
年月日未詳 | 根本=人目=評価 | 3-4(3)-10-9 | |
年月日未詳 | クラス会 | 3-4(3)-10-10 | |
年月日未詳 | 生意気考 | 3-4(3)-10-11 | |
年月日未詳 | 公立私学校の経営 | 3-4(3)-10-12 | |
年月日未詳 | 継承 | 3-4(3)-10-13 | |
昭和51年10月22日 | 希望念願-欲望 | 3-4(3)-10-14 | |
昭和51年10月20日 | (私の)遺言 | 3-4(3)-10-15 | |
年月日未詳 | 江戸末期の教育から明治、大正、昭和期へと何を継承したのか | 3-4(3)-10-16 | |
昭和52年3月13日 | 恵那地域に於ける教育の系譜1(見返しには「「恵那地域に於ける教育の系譜」考原点・原典・実態」とある) | 1 | 3-4(3)-11-0 |
(昭和52年) | 74(構想)メモより・総括 | 3-4(3)-11-1 | |
年月日未詳 | 態度考 年表風-記録にするか。 | 3-4(3)-11-2 | |
年月日未詳 | 仕事考仕事の進め方「恵那地域に於ける教育の原点」再考 | 3-4(3)-11-3 | |
年月日未詳 | 仕事の順序 | 3-4(3)-11-4 | |
年月日未詳 | 恵那の愚直性(消去反古) | 3-4(3)-11-5 | |
年月日未詳 | 恵那地域に於ける教育の系譜考 恵那雑巾の話 | 3-4(3)-11-6 | |
年月日未詳 | 系譜への思考(執筆構想) | 3-4(3)-11-7 | |
昭和52年3月13日 | 序章・わたし | 3-4(3)-11-8 | |
年月日未詳 | 恵那地域に於ける教育の系譜(考)恵那雑巾の話 | 3-4(3)-11-9 | |
昭和51年〜昭和52年5月20日 | 恵那地域に於ける教育の系譜2=恵那雑巾=(背表紙には「恵那雑巾教育の系譜序説」とある) | 1 | 3-4(3)-12-0 |
年月日未詳 | (目次) | 3-4(3)-12-1 | |
年月日未詳 | 恵那地域に於ける教育の系譜(案) | 3-4(3)-12-2 | |
(昭和51年) | 私(序文代) | 3-4(3)-12-3 | |
年月日未詳 | 第1回稿捨てのこり | 3-4(3)-12-4 | |
年月日未詳 | 恵那地域の教育六区分考 | 3-4(3)-12-5 | |
昭和52年3月30日 | 「恵那雑巾」という言葉の解釈・イ雑巾・ロ雑巾と恵那人 | 3-4(3)-12-6 | |
年月日未詳 | 恵那雑巾の話 | 3-4(3)-12-7 | |
年月日未詳 | (「恵那地域の教育事情」の初めに一言) | 3-4(3)-12-8 | |
年月日未詳 | 公立私学校(生産教育)抄史 第二中学校に十三年もいて何をしたか | 3-4(3)-12-9 | |
昭和52年5月20日 | 雑誌「恵那雑巾」について | 3-4(3)-12-10 | |
昭和52年3月25日 | 恵那地域に於ける教育の系譜1=わたし=(背表紙には「わたし 共育の系譜序説に代えて」とある) | 1 | 3-4(3)-13-0 |
(昭和44年) | (三宅武夫66才の写真)(昭和44年 モノクロ・上半身像) | 3-4(3)-13-1 | |
年月日未詳 | (生家-恵那郡静波村東方馬木の写真)(カラー・昭和52年3月葺替後) | 3-4(3)-13-2 | |
昭和49年 | (三宅武夫71才の写真)(昭和49年 カラー・全身像) | 3-4(3)-13-3 | |
年月日未詳 | 三宅武夫年表 | 3-4(3)-13-4 | |
年月日未詳 | 恵那地域に於ける教育の系譜(共育)(職員かげ口)序に代えて-私 | 3-4(3)-13-5 | |
年月日未詳 | わたし | 3-4(3)-13-6 | |
(昭和10年) | 松山 | 3-4(3)-13-7 | |
(昭和23年) | 二中へ | 3-4(3)-13-8 | |
(昭和36年) | (勤評問題で)首 | 3-4(3)-13-9 | |
(昭和52年5月21日) | 恵那地域ニ於ける教育の系譜=わたし=2(見返しには「わたし-公立私学校経営 恵那地域の教育の系譜」とある) | 1 | 3-4(3)-14-0 |
年月日未詳 | 恵那地域の教育の概観 | 3-4(3)-14-1 | |
年月日未詳 | 恵那地域ニ於ける教育の系譜考(人物一覧表) | 3-4(3)-14-2 | |
年月日未詳 | 公立私学校の経営譚抄(公立私学校経営の概略誌) | 3-4(3)-14-3 | |
年月日未詳 | 公立私学校案の町長認可 | 3-4(3)-14-4 | |
年月日未詳 | 二中における教育の目標 | 3-4(3)-14-5 | |
昭和52年5月31日〜昭和52年6月1日 | 恵那地域ニ於ける教育の系譜=わたし=3(見返しには「わたし公立私学校の経営 恵那地域ニおける教育の系譜」とあり、背表紙には「わたし 公立私学校二」とある) | 1 | 3-4(3)-15-0 |
年月日未詳 | 初の想 | 3-4(3)-15-1 | |
(昭和52年)5月31日 | わたし(417)の3(当文書)を初めるに当って | 3-4(3)-15-2 | |
年月日未詳 | 第二中学校同窓会館(図書館) | 3-4(3)-15-3 | |
昭和52年6月1日 | 朝日新聞切抜(道芝・郷土への愛着) | 3-4(3)-15-4 | |
年月日未詳 | 壁張り作業(母に借金してベニヤ購入・高山清父子の奉仕・教頭の昼寝) | 3-4(3)-15-5 | |
年月日未詳 | 決死(第二年目-墓標-) | 3-4(3)-15-6 | |
年月日未詳 | 唇寒録抄 | 3-4(3)-15-7 | |
年月日未詳 | 大校長と小校長 | 3-4(3)-15-8 | |
昭和37年3月31日 | 恵那地域ニ於ける教育系譜=わたし=4(背表紙には「わたし公立私学校三」とあり、見返しには「わたし公立私学校経営(昭和25年,26年)」とある) | 1 | 3-4(3)-16-0 |
昭和25年3月8日 | O教諭ニH君、S君に | 3-4(3)-16-1 | |
昭和25年4月12日 | 職員会 | 3-4(3)-16-2 | |
年月日未詳 | 県(教委)指導(課)主事尾藤操氏の二中観(尾藤操女史書簡77年5月27日日付備考あり) | 3-4(3)-16-3 | |
年月日未詳 | 二十五年度の動き(抄録) | 3-4(3)-16-4 | |
年月日未詳 | 三輪昭典君の花瓶 | 3-4(3)-16-5 | |
年月日未詳 | 校庭改訂案 | 3-4(3)-16-6 | |
年月日未詳 | 校歌制定 | 3-4(3)-16-7 | |
年月日未詳 | 学校運営 | 3-4(3)-16-8 | |
年月日未詳 | 植物目録案 | 3-4(3)-16-9 | |
年月日未詳 | 生徒工場 | 3-4(3)-16-10 | |
昭和51年4月20日〜昭和51年5月3日 | 公立私学校運営第四年(「わたし」第二中学校公立私学校経営第四年) | 3-4(3)-16-11 | |
年月日未詳 | 塵芥焼窯 | 3-4(3)-16-12 | |
年月日未詳 | 北海道旅行 | 3-4(3)-16-13 | |
年月日未詳 | アイヘル(参加) | 3-4(3)-16-14 | |
年月日未詳 | 鶏と豚と葉書と飴玉 | 3-4(3)-16-15 | |
年月日未詳 | 学校博物館 | 3-4(3)-16-16 | |
年月日未詳 | 印刷機の運転 | 3-4(3)-16-17 | |
(昭和52年6月3日) | 恵那地域に於ける教育の系譜=わたし=(背表紙には「わたし 公立私学校四」とある) | 1 | 3-4(3)-17-0 |
年月日未詳 | (昭和27年4月1日〜8月6日分)公立私学校経営記録抄 | 3-4(3)-17-1 | |
昭和52年6月3日 | プール建設計画(孔版の計画書・青焼き図面共に) | 3-4(3)-17-2 | |
年月日未詳 | (昭和28年2月28日〜3月15日分)公立私学校経営記録抄 | 3-4(3)-17-3 | |
年月日未詳 | (昭和28年度4月1日〜昭和29年3月2日分)公立私学校経営記録抄 | 3-4(3)-17-4 | |
年月日未詳 | (学校改革方向メモ)(原本) | 3-4(3)-17-5 | |
年月日未詳 | 岐阜県恵那郡中津町第二中学校厨房教室平面図(青焼き) | 3-4(3)-17-6 | |
昭和29年(1)19 | (学校と地方文化)(写) | 3-4(3)-17-7 | |
昭和49年2月1日〜昭和52年4月20日 | 恵那地域ニ於ける教育の系譜 恵那人の特質 | 1 | 3-4(3)-18-0 |
昭和49年2月1日 | 口の悪い恵那の奴ら-馬鹿利口、執念くしにくど根性- | 3-4(3)-18-1 | |
年月日未詳 | 恵那地域の教育の特異性I-ちっとやそっとではふらつかない- | 3-4(3)-18-2 | |
年月日未詳 | ゾオキン | 3-4(3)-18-3 | |
年月日未詳 | 恵那地域の教育の特異性II | 3-4(3)-18-4 | |
昭和52年4月20日 | (昭和23年)第二中学校々長事ム引継事情覚 | 3-4(3)-18-5 | |
年月日未詳 | 第二中学校長としてPTA会長訪問談義-教育は中断してはいけない- | 3-4(3)-18-6 | |
年月日未詳 | 恵那屁の由来 | 3-4(3)-18-7 | |
昭和48年12月21日〜昭和52年5月10日 | 恵那地域ニ於ける教育の系譜 労作教育の梅沢英造先生 | 1 | 3-4(3)-19-0 |
年月日未詳 | (執筆構想)考 | 3-4(3)-19-1 | |
昭和52年5月10日 | 「行動教育」への追憶記 | 3-4(3)-19-2 | |
年月日未詳 | 記憶を便りに写した石田隆硯(行動教育実践者)校長の明知部会での報告案文 | 3-4(3)-19-3 | |
年月日未詳 | 労作教育 於岩邑小学校 梅沢英造(大正13年-昭和3年) | 3-4(3)-19-4 | |
昭和52年2月9日 | 梅沢英造の労作教育ニよせる | 3-4(3)-19-5 | |
昭和48年12月21日 | 労作教育(梅沢学校の勤労教育その理論と実際の追求) | 3-4(3)-19-6 | |
昭和52年5月1日 | (労作教育梅沢英造の論文・伊藤恭一) | 3-4(3)-19-7 | |
昭和52年5月2日〜昭和52年5月9日 | 後継者物色弁語 | 3-4(3)-19-8 | |
年月日未詳 | (恵那の教育の評価) | 3-4(3)-19-9 | |
昭和52年4月1日〜昭和52年7月10日 | 恵那地域教育系譜諸稿 | 1 | 3-4(3)-20-0 |
年月日未詳 | 目次 | 3-4(3)-20-1 | |
年月日未詳 | 恵那地域ニ於ける教育の系譜序説(反古) | 3-4(3)-20-2 | |
年月日未詳 | 十三年の日誌序文 | 3-4(3)-20-3 | |
昭和52年4月1日 | (三宅武夫の)これからの予定計画事項 | 3-4(3)-20-4 | |
昭和52年7月 | 大阪毎日新聞文芸部杉本誠氏来訪恵那の住民気質について | 3-4(3)-20-5 | |
昭和52年5月 | (恵那の教育の系譜の為の履歴書・要覧頂戴依頼の稿) | 3-4(3)-20-6 | |
昭和52年7月10日 | (恵那の教育の系譜序文) | 3-4(3)-20-7 | |
年月日未詳 | (稿本)はじめに... | 3-4(3)-20-8 | |
年月日未詳 | はじめに(稿ノ稿) | 3-4(3)-20-9 | |
年月日未詳 | 第一改稿はじめに | 3-4(3)-20-10 | |
年月日未詳 | (執筆構想)考 | 3-4(3)-20-11 | |
年月日未詳 | 恵那地域ニおける教育の系譜稿資料覚 | 3-4(3)-20-12 | |
年月日未詳 | 恵那地域の教育に力となった人、力となるべき人 | 3-4(3)-20-13 | |
年月日未詳 | 福岡、志津栄一の松尾農場経営・松尾農場の開墾と志津栄一の教育 | 3-4(3)-20-14 | |
昭和52年5月13日 | 三尾栄二の耕道学園「土と教育」の教示 | 3-4(3)-20-15 | |
年月日未詳 | 加子母村青年学校(聖恩学園)粥川真策記 | 3-4(3)-20-16 | |
年月日未詳 | (浅野とく略歴) | 3-4(3)-20-17 | |
年月日未詳 | (加藤護一略歴) | 3-4(3)-20-18 | |
(昭和52年) | 恵那地域教育、系譜諸稿 | 1 | 3-4(3)-21-0 |
年月日未詳 | 恵那地域ニ於ける教育の系譜序説(下書き) | 3-4(3)-21-1 | |
年月日未詳 | 恵那屁 | 3-4(3)-21-2 | |
年月日未詳 | 愚鈍 | 3-4(3)-21-3 | |
年月日未詳 | 恵那地域に於ける教育の系譜序説 | 3-4(3)-21-4 | |
年月日未詳 | (恵那)雑巾(の定義つけ) | 3-4(3)-21-5 | |
年月日未詳 | 小林(廉作) | 3-4(3)-21-6 | |
(昭和52年) | (私の恵那共育)所感 | 3-4(3)-21-7 | |
年月日未詳 | 三尾(栄二) | 3-4(3)-21-8 | |
昭和52年7月19日 | 明治青年原稿作成の実態 | 3-4(3)-21-9 | |
(昭和52年7月) | (『明治青年』へ原稿依頼手紙)杉原明雄から三宅武夫宛 | 3-4(3)-21-10 | |
(昭和52年) | (御米を頂き御礼手紙)三宅武夫から営林署田口史郎宛 | 3-4(3)-21-11 | |
(4)その他 | |||
昭和35年10月〜昭和53年3月11日 | 石田隆硯先生・行動教育I | 1 | 3-4(4)-1-0 |
年月日未詳 | 石田隆硯履歴抄 | 3-4(4)-1-1 | |
昭和53年3月11日 | 石田隆硯履歴書(明智小学校所蔵履歴のコピー) | 3-4(4)-1-2 | |
年月日未詳 | 人間石田隆硯 | 3-4(4)-1-3 | |
昭和53年3月3日 | 石田校長の行動教育 | 3-4(4)-1-4 | |
年月日未詳 | まっすぐに歩けばまっすぐに行ける寒中渡河体操 | 3-4(4)-1-5 | |
年月日未詳 | 石田隆硯先生・行動教育2 | 1 | 3-4(4)-2-0 |
昭和52年10月7日 | 初めに... | 3-4(4)-2-1 | |
昭和52年4月18日 | 石田隆硯先生の行動教育 | 3-4(4)-2-2 | |
昭和52年5月3日 | 石田隆硯の行動教育(資料がないことを指摘) | 3-4(4)-2-3 | |
年月日未詳 | 西郷さんと大久保利通の話 | 3-4(4)-2-4 | |
年月日未詳 | (行動教育)「石田校長の「生活作文指導」記」(抄) | 3-4(4)-2-5 | |
年月日未詳 | 作文写し(本屋がつぶれた話・秋の一日) | 3-4(4)-2-6 | |
昭和36年9月10日〜昭和49年11月29日 | (1)中津川市民教育会議(2)中津川市教育百年の展望(3)EECを中心にした中津川の教育の軌跡 | 1 | 3-4(4)-3-0 |
昭和49年11月28日 | 部外秘対校長市民教育会議ニ協力を願う話 | 3-4(4)-3-1 | |
昭和49年11月29日 | (部外秘対校長市民教育会議ニ協力を願う話)追伸 | 3-4(4)-3-2 | |
昭和42年6月19日 | 中津川教育百年の展望 | 3-4(4)-3-3 | |
年月日未詳 | 恵那地区教育の系譜・EEC沿革誌研究資料 | 3-4(4)-3-4 | |
昭和43年10月5日 | 岐阜県教育明治百年を顧る(リーフレット)岐阜県退職校長会 | 3-4(4)-3-5 | |
昭和36年9月10日 | 恵那地域の教育 | 3-4(4)-3-6 | |
昭和49年4月初 | (文化会館の責任者) | 3-4(4)-3-7 | |
年月日未詳 | EECの略歴 | 3-4(4)-3-8 | |
年月日未詳 | (昭和49年迄)EEC沿革史研究資料(年表) | 3-4(4)-3-9 | |
昭和47年2月28日 | 中津川市教育将来の為ニ(書き出しには「自閉性を育てた教育百年と今後の問題」とある)(三宅武夫の人生と教育観) | 1 | 3-4(4)-4-0 |
年月日未詳 | 初めに | 3-4(4)-4-1 | |
年月日未詳 | ひとのうえにひとをつくらぬねがいのゆれ | 3-4(4)-4-2 | |
年月日未詳 | 三万六千日現場教師の悩み | 3-4(4)-4-3 | |
年月日未詳 | 上下関係の徹底と水臭い先輩後輩の間 | 3-4(4)-4-4 | |
年月日未詳 | 軍部に乗取られた教育 | 3-4(4)-4-5 | |
年月日未詳 | 太平洋戦争前とあと | 3-4(4)-4-6 | |
年月日未詳 | 地域に根ざす教育への考究 | 3-4(4)-4-7 | |
年月日未詳 | 公立私学校経営の中での意欲人育成 | 3-4(4)-4-8 | |
年月日未詳 | 教育とは「うごく」ことなり | 3-4(4)-4-9 | |
年月日未詳 | 恵那教育会議其の後 | 3-4(4)-4-10 | |
(昭和47年) | 教育(百年)への回想(下書) | 1 | 3-4(4)-5-0 |
年月日未詳 | 初めに | 3-4(4)-5-1 | |
(昭和47年) | 人の上に人をつくらぬねがいのゆれ | 3-4(4)-5-2 | |
年月日未詳 | 学力低下とエリート養成 | 3-4(4)-5-3 | |
年月日未詳 | 地方の実情 | 3-4(4)-5-4 | |
年月日未詳 | 教師自閉症の由来 | 3-4(4)-5-5 | |
年月日未詳 | 人の目 | 3-4(4)-5-6 | |
年月日未詳 | 身分 | 3-4(4)-5-7 | |
年月日未詳 | 絶対というもの | 3-4(4)-5-8 | |
年月日未詳 | 反逆者としての先生達 | 3-4(4)-5-9 | |
年月日未詳 | 太平洋戦争 | 3-4(4)-5-10 | |
年月日未詳 | 敗戦の蘇生 | 3-4(4)-5-11 | |
年月日未詳 | 先生といわれる程の馬鹿 | 3-4(4)-5-12 | |
年月日未詳 | 公立私学校 | 3-4(4)-5-13 | |
年月日未詳 | 意欲・やる気 | 3-4(4)-5-14 | |
年月日未詳 | 生徒の目のかがやき | 3-4(4)-5-15 | |
年月日未詳 | 盥水 | 3-4(4)-5-16 | |
年月日未詳 | 教育 | 3-4(4)-5-17 | |
(昭和47年) | 再び自閉症 | 3-4(4)-5-18 | |
年月日未詳 | 保革の中 | 3-4(4)-5-19 | |
年月日未詳 | 結び | 3-4(4)-5-20 | |
(2)昭和48年2月5日 | (1)書いておき度いことゝも(執筆項目・構想)(2)中津川市教育今後のために(3)PTA総会での挨拶(教育)(背表紙には「みる・きく・つくる」とある) | 1 | 3-4(4)-6-0 |
昭和49年2月28日 | 恵那地域教育の原点を探る | 1 | 3-4(4)-7-0 |
(昭和51年) | 稿本No.2恵那地域教育の原点考 | 1 | 3-4(4)-8-0 |
年月日未詳 | 恵那地域ニおける教育の原点考 | 3-4(4)-8-1 | |
年月日未詳 | (年)表 | 3-4(4)-8-2 | |
年月日未詳 | 言志録 | 3-4(4)-8-3 | |
昭和51年 | 悪法ハ法 | 3-4(4)-8-4 | |
年月日未詳 | (佐藤)一斎 | 3-4(4)-8-5 | |
年月日未詳 | みのべ | 3-4(4)-8-6 | |
年月日未詳 | 岩村の学者 | 3-4(4)-8-7 | |
年月日未詳 | 専心 | 3-4(4)-8-8 | |
年月日未詳 | 叙勲 | 3-4(4)-8-9 | |
年月日未詳 | 作業 | 3-4(4)-8-10 | |
昭和50年8月15日 | 中津川市教育現場の実状と其の泣き処 | 1 | 3-4(4)-9-0 |
昭和47年6月5日〜昭和51年9月21日 | 鞦韆・ほんやの墓余滴(鞦韆1冊・ほんやの墓余滴2冊合本) | 1 | 3-5-1-0 |
年月日未詳 | 鳳の草の団子杉 | 3-5-1-1 | |
(昭和48年7月1日) | 初めに | 3-5-1-2 | |
年月日未詳 | 鳳の草の親子の「生活の中にある共育」実態記録鞦韆 | 3-5-1-3 | |
昭和51年9月21日 | 鞦韆(ぶらんこ遊び) | 3-5-1-4 | |
年月日未詳 | 親と子のぶらんこあそび第一稿本(挿絵あり) | 3-5-1-5 | |
昭和47年6月5日 | 「ほんやの墓余滴」原稿責任者三宅武夫(2冊) | 3-5-1-6 | |
昭和44年12月15日〜昭和51年10月30日 | 退官記念印行鞦韆始末記(背表紙には「ぶらんこ始末記1」とある) | 1 | 3-5-2-0 |
(昭和44年12月15日) | (すばらしいお話でしたに付葉書)高橋守二から三宅武夫宛 | 3-5-2-1 | |
年月日未詳 | 記念印刷ぶらんこ送り先 | 3-5-2-2 | |
年未詳.10月22日 | (手紙案)三宅武夫から石田宛 | 3-5-2-3 | |
昭和51年10月22日 | 「「ぶらんこ」原稿の弁」印刷4部・手書き原稿1部 | 3-5-2-4 | |
年月日未詳 | 「ぶらんこ」を印刷してもらったわけ | 3-5-2-5 | |
昭和51年9月20日・昭和51年10月30日 | 色紙揮毫原稿 | 3-5-2-6 | |
昭和51年10月30日 | 鞦韆(原稿複製・写真二色製版) | 1 | 3-5-3-0 |
年月日未詳 | 鳳の草の団子杉 | 3-5-3-1 | |
(昭和48年7月1日) | 初めに | 3-5-3-2 | |
年月日未詳 | 鳳の草の親子の「生活の中にある共育」実態記録鞦韆 | 3-5-3-3 | |
昭和51年9月21日 | 鞦韆(ぶらんこ遊び) | 3-5-3-4 | |
年月日未詳 | 親と子のぶらんこあそび第一稿本(挿絵あり) | 3-5-3-5 | |
昭和47年6月5日〜昭和51年9月21日 | 鞦韆・ほんやの墓余滴(2冊合本)(背表紙には「ぶらんことほんやの墓余滴」とある) | 1 | 3-5-4-0 |
昭和48年7月1日 | 初めに | 3-5-4-1 | |
年月日未詳 | 鳳の草の親子の「生活の中にある共育」実態記録鞦韆(中表紙) | 3-5-4-2 | |
昭和51年9月21日 | 鞦韆(ぶらんこ遊び...) | 3-5-4-3 | |
年月日未詳 | 親と子のぶらんこあそび第一稿本(挿絵あり) | 3-5-4-4 | |
昭和47年6月5日 | ほんやの墓余滴 原稿責任者三宅武夫 | 3-5-4-5 | |
昭和47年6月5日 | ほんやの墓余滴 原稿責任者三宅武夫 | 1 | 3-5-5-0 |
昭和54年12月12日 | おらあ先生になる-ひとつの恵那の「共育」史-三宅武夫著草土文化発行 | 1 | 3-5-6-0 |
昭和53年6月10日〜昭和53年6月20日 | (挿絵付き)おにぎり・おれはなぜ先生ニなったか(見返しには「おにぎり・わたしの履歴書」とある) | 1 | 3-5-7-0 |
昭和53年6月10日 | 初(めに) | 3-5-7-1 | |
年月日未詳 | 目次 | 3-5-7-2 | |
年月日未詳 | 書いておこうと思ったわけ | 3-5-7-3 | |
昭和53年6月20日 | 初めのことば | 3-5-7-4 | |
年月日未詳 | おにぎり(見出し) | 3-5-7-5 | |
年月日未詳 | 「俺は弁当が嫌いだ」 | 3-5-7-6 | |
年月日未詳 | 身代限りの話 | 3-5-7-7 | |
年月日未詳 | 元禄元年に建った古家 | 3-5-7-8 | |
年月日未詳 | 本屋の子 | 3-5-7-9 | |
年月日未詳 | 中馬街道 | 3-5-7-10 | |
年月日未詳 | 中馬馬子唄 | 3-5-7-11 | |
年月日未詳 | 尺八造りの名手 | 3-5-7-12 | |
年月日未詳 | 喰うに困りながら | 3-5-7-13 | |
年月日未詳 | 三河の斧叔父 | 3-5-7-14 | |
年月日未詳 | 御嵩裁判所が来てから | 3-5-7-15 | |
年月日未詳 | 親族会議 | 3-5-7-16 | |
年月日未詳 | 呉越同舟の話 | 3-5-7-17 | |
年月日未詳 | むかしばなしの名人 | 3-5-7-18 | |
年月日未詳 | 親族会議と父 | 3-5-7-19 | |
年月日未詳 | 好太爺は分家の長老 | 3-5-7-20 | |
年月日未詳 | 白い長首 | 3-5-7-21 | |
年月日未詳 | きくだけやぼ | 3-5-7-22 | |
年月日未詳 | 大人ちゅうもんた | 3-5-7-23 | |
年月日未詳 | 武はえゝ子だけど泣くで駄痴漢 | 3-5-7-24 | |
年月日未詳 | おてまえ | 3-5-7-25 | |
年月日未詳 | にらみ合い | 3-5-7-26 | |
年月日未詳 | 兄貴 | 3-5-7-27 | |
年月日未詳 | 青いもな何でも喰う | 3-5-7-28 | |
年月日未詳 | 利夫とまつはいゝ奴 | 3-5-7-29 | |
年月日未詳 | チコンカン | 3-5-7-30 | |
年月日未詳 | 山菜探り | 3-5-7-31 | |
年月日未詳 | 遊ぶ時間がない | 3-5-7-32 | |
年月日未詳 | わけせんじゃくの話 | 3-5-7-33 | |
年月日未詳 | 俺は先生になる | 3-5-7-34 | |
年月日未詳 | ニュウムの弁当箱 | 3-5-7-35 | |
年月日未詳 | 腹のむし | 3-5-7-36 | |
年月日未詳 | 俺は昼弁当が嫌いだ | 3-5-7-37 | |
年月日未詳 | 飯喰い乍ら話すという校長先生 | 3-5-7-38 | |
年月日未詳 | 海苔巻おにぎり | 3-5-7-39 | |
年月日未詳 | 「俺は先生になる!」 | 3-5-7-40 | |
昭和54年11月2日 | おらあ先生ニなる出版の顛末記 | 1 | 3-5-8-0 |
昭和54年11月24日 | (顛末記編集の序文) | 3-5-8-1 | |
年月日未詳 | (記毫「観世音菩薩」) | 3-5-8-2 | |
昭和54年11月6日 | 出版記念会をやると石田が言う(御礼の言葉) | 3-5-8-3 | |
年月日未詳 | おら先生ニなるの経過 | 3-5-8-4 | |
(昭和54年) | (ゲラ送付手紙)草土文化梅津勝恵から三宅武夫宛 | 3-5-8-5 | |
昭和54年9月10日 | (返事手紙案)三宅武夫から梅津宛 | 3-5-8-6 | |
(昭和54年9月11日) | (ゲラ送付・今後のスケジュールに付手紙)草土文化梅津勝恵から三宅武夫宛 | 3-5-8-7 | |
(昭和54年9月) | (先生の校正ゲラと御葉書受けとりましたに付手紙)草土文化梅津勝恵から三宅武夫宛 | 3-5-8-8 | |
昭和54年8月 | (複写)納品書 岐阜県中津川市えびす町堀尾写真場から三宅宛(2枚) | 3-5-8-9 | |
昭和54年9月1日 | (複写代)領収証 岐阜県中津川市えびす町堀尾写真場から三宅宛(2枚) | 3-5-8-10 | |
(昭和54年) | (ゲラ送付・文章面での点検をおねがいに付手紙)草土文化梅津勝恵から三宅武夫宛 | 3-5-8-11 | |
(昭和54年)7月18日 | (お原稿を印刷所にわたすことができましたに付手紙)東京都千代田区五番町草土文化梅津勝恵から三宅武夫宛 | 3-5-8-12 | |
(昭和54年10月31日) | (十一月六日にまいりたい・題字をおかきねがいたいに付葉書)草土文化出版部梅津勝恵から三宅武夫宛 | 3-5-8-13 | |
昭和54年7月20日 | 思惟(三宅武夫の自伝) | 3-5-8-14 | |
(昭和54年) | 目録(『おらあ先生になる』の目次案) | 3-5-8-15 | |
昭和54年1月17日 | 知久也喜(ちくやきに付覚) | 3-5-8-16 | |
(昭和54年1月) | 伝統の京料理(知久也喜リーフレット)(印刷)京・大仏・正面道楽発行 | 3-5-8-17 | |
(昭和54年) | 目録 | 3-5-8-18 | |
昭和54年11月5日 | (耐える・遊び) | 3-5-8-19 | |
(昭和54年) | (目録) | 3-5-8-20 | |
昭和54年10月27日 | 先生とは | 3-5-8-21 | |
(昭和54年) | (共育とは) | 3-5-8-22 | |
(昭和54年)8月 | 梅津氏来訪(に付打合せ案) | 3-5-8-23 | |
昭和54年10月23日 | 梅津先生(宛手紙案) | 3-5-8-24 | |
昭和54年11月14日 | (梅津勝恵宛速達に付覚) | 3-5-8-25 | |
(昭和54年11月16日) | (御葉書の件承知・定価部数訂正に付葉書)草土文化梅津勝恵から三宅武夫 | 3-5-8-26 | |
昭和54年11月19日 | 梅津氏(へ)電話(内容覚) | 3-5-8-27 | |
(昭和54年) | 三宅武夫略歴 | 3-5-8-28 | |
年月日未詳 | (献本先リスト) | 3-5-8-29 | |
年月日未詳 | (三宅武夫著作歴) | 3-5-8-30 | |
昭和54年11月6日 | 梅津・丸山・石田三宅会談(内容覚) | 3-5-8-31 | |
年月日未詳 | 贈呈先考 | 3-5-8-32 | |
(昭和54年) | (誤字誤植に付手紙案)梅津宛 | 3-5-8-33 | |
昭和54年12月12日 | (贈呈先に付手紙)七十六老人三宅武夫 | 3-5-8-34 | |
(昭和54年11月23日) | (おらあ先生になる発売のチラシ)草土文化梅津勝恵から三宅宛 | 3-5-8-35 | |
昭和54年12月6日 | 注文覚 | 3-5-8-36 | |
年月日未詳 | (改訂に付手紙)梅津宛(はさみ込み) | 3-5-8-37 | |
年月日未詳 | (贈呈先に付問い合せ手紙)梅津宛 | 3-5-8-38 | |
昭和54年12月9日 | 改注控 | 3-5-8-39 | |
(昭和54年) | (贈呈先覚) | 3-5-8-40 | |
(昭和54年) | (贈呈状案) | 3-5-8-41 | |
昭和54年12月10日 | (おらあ先生になる28)納品書 東京都中央区晴海株式会社流通から三宅武夫宛(はさみ込み) | 3-5-8-42 | |
昭和54年12月11日 | (井野川潔・早船ちよ祝)電報接到(覚) | 3-5-8-43 | |
(昭和54年)12月10日 | (オラアセンセイニナルゴシュツパントタンジョウビに付電報)イノカワキヨシ・ハヤシフネチヨからミヤケタケオ宛 | 3-5-8-44 | |
昭和54年12月11日 | (祝電御礼状)井野川潔・早船ちよ宛 | 3-5-8-45 | |
昭和54年12月12日 | おらあ先生になる-ひとつの恵那の「共育」史-(著者改訂版準備本)三宅武夫著草土文化発行(昭和55年1月1日(年頭の決意)が表紙裏に書いてある) | 1 | 3-5-9-0 |
(昭和54年) | おらあ先生ニなったけど-資料集 | 1 | 3-5-10-0 |
(昭和51年) | 鞦韆(原稿複製本)丙辰歳秋 三宅武夫著刊 | 3-5-10-1 | |
昭和47年6月5日 | ほんやの墓余滴 原稿責任者三宅武夫 | 3-5-10-2 | |
昭和55年3月3日 | 日本一周旅行計画の放棄(原稿複製本) | 3-5-10-3 | |
昭和56年2月13日 | 林伝次校長遺徳顕彰碑外伝略(原稿) | 3-5-10-4 | |
昭和29年2月5日 | 文部省指定産業教育研究校岐阜県中津川市立第二中学校(要覧)第二中学校発行印刷 | 3-5-10-5 | |
昭和55年 | 愚拙回想資料 | 1 | 3-5-11-0 |
年月日未詳 | 初めのことば | 3-5-11-1 | |
年月日未詳 | これから書いておきたい教育としての私の一代記 構想の大部分 | 3-5-11-2 | |
年月日未詳 | 私(三宅武夫履歴)(三宅の生家のモノクロ引伸し写真あり) | 3-5-11-3 | |
年月日未詳 | 中津川二中の経営録(もう一つの証言)(西尾彦朗の略歴あり) | 3-5-11-4 | |
年月日未詳 | 先生にはなったけれど | 3-5-11-5 | |
年月日未詳 | 書いたもの覚え | 3-5-11-6 | |
年月日未詳 | 解説もどき | 3-5-11-7 | |
年月日未詳 | じねんしょ巻頭言素稿 | 3-5-11-8 | |
年月日未詳 | 書損原稿(形式考) | 3-5-11-9 | |
年月日未詳 | 経費のめどなしに引受けるのは無茶でしょう(運動費の捻出) | 3-5-11-10 | |
年月日未詳 | 初めに・・・(態度・立場・方向・係わり)おらあ先生になったけどの初 | 3-5-11-11 | |
(昭和55年) | 幼児期の生家歿落ニからむ「強気」の泣虫 | 3-5-11-12 | |
年月日未詳 | (公立私学校について) | 3-5-11-13 | |
年月日未詳 | (この役人の実態) | 3-5-11-14 | |
年月日未詳 | (『おらあ先生になる』の御感想) | 3-5-11-15 | |
(昭和55年) | かいておかねばならんと思った理由のようなもの | 3-5-11-16 | |
年月日未詳 | 作文写し 本屋がつぶれた話 秋の一日(孔版)三宅武夫 | 3-5-11-17 | |
昭和45年3月20日 | (中津川市教育委員長三宅武夫「子どもの遊び」)『中津川市子ども会報』第63号切抜 中津川市子ども会指導者連絡協議会・中津川市教育委員会発行 | 3-5-11-18 | |
昭和23年9月〜昭和24年12月 | (公立私学校 昭和23年9月から同24年12月迄年表) | 3-5-11-19 | |
昭和55年10月 | 昭和22年3月師範男子部2組卒業名簿(コピー)昭和55年10月現在(紙背に二二会に付三宅武夫のメモがある) | 3-5-11-20 | |
昭和55年10月25日 | 同窓会 三宅武夫先生古稀を祝う会(欠席者近況)(孔版) | 3-5-11-21 | |
年月日未詳 | (校長の職員管理) | 3-5-11-22 | |
昭和54年3月3日 | おら先生になる稿一 | 1 | 3-5-12-0 |
昭和54年3月3日 | おら先生になる稿二 | 1 | 3-5-13-0 |
昭和54年3月3日 | おら先生になる稿三 | 1 | 3-5-14-0 |
昭和54年3月1日〜昭和55年3月3日 | 先生は生徒に約束したことを勝手に放棄してもいゝか 一銭貯金顛末記 | 1 | 3-5-15-0 |
昭和55年2月16日 | 「内田守弥寄贈 青玄会規約案」と封筒にあるも別冊に移されている | 3-5-15-1 | |
昭和55年2月15日 | 初めに | 3-5-15-2 | |
昭和55年2月8日 | 一銭貯金とその一部始終 | 3-5-15-3 | |
昭和55年12月 | (『おらあ先生になる』の)脱落(したもの) | 3-5-15-4 | |
年月日未詳 | 共育準備への道(中表紙) | 3-5-15-5 | |
昭和55年2月11日 | 中津川市教育学会への準備(構想) | 3-5-15-6 | |
昭和55年2月11日 | 中津教育学会発表(原稿) | 3-5-15-7 | |
年月日未詳 | 一銭貯金失敗記録(『おらあ先生ニなる』P238の後ニ入れる筈の原稿下書き) | 3-5-15-8 | |
昭和54年3月1日 | 一銭貯金の終末記(追記) | 3-5-15-9 | |
年月日未詳 | 一銭貯金坐折の顛末素稿 | 3-5-15-10 | |
年月日未詳 | 一銭貯金とその顛末記録 | 3-5-15-11 | |
昭和55年3月3日 | 全国一周旅行計画の違約(原稿複製本) | 3-5-15-12 | |
昭和55年1月25日〜昭和55年3月3日 | 全国一周旅行計画の違約(原稿複製本の原本)(背表紙には「日本一周旅行計画の違約」とある) | 1 | 3-5-16-0 |
年月日未詳 | 日本一周計画の挫折記 | 3-5-16-1 | |
年月日未詳 | タイトル案 | 3-5-16-2 | |
昭和55年1月25日 | 初めに | 3-5-16-3 | |
年月日未詳 | 一銭貯金中絶責任の一部始終記 | 3-5-16-4 | |
昭和55年3月3日 | 日本一周旅行計画失敗の記(稿本複製本) | 1 | 3-5-17-0 |
年月日未詳 | 一銭貯金中絶責任の一部始終記 | 3-5-17-1 | |
昭和55年3月3日 | 一銭貯金中絶責任の弁(コピー)(三宅武夫手製本)(見返しには「日本一周旅行計画失敗記」とある) | 1 | 3-5-18-0 |
昭和55年3月3日 | 全国一周旅行計画の違約(原稿複製本)(見返しには「日本一周計画-一銭貯金中絶の責任の解明」とある) | 1 | 3-5-19-0 |
昭和54年 | 草土文化原稿断片等綴1 | 1 | 3-5-20-0 |
昭和54年2月2日 | 恵那山 | 3-5-20-1 | |
年月日未詳 | 恵那雑巾 | 3-5-20-2 | |
年月日未詳 | イナエニ圭目カ | 3-5-20-3 | |
年月日未詳 | 佐々の共育 | 3-5-20-4 | |
年月日未詳 | 「イナエニ土土」佐々圭助 | 3-5-20-5 | |
年月日未詳 | コンビーフすき | 3-5-20-6 | |
年月日未詳 | 靖の清書とおかしらつき祝膳 | 3-5-20-7 | |
昭和54年 | 草土文化原稿断片等綴2 | 1 | 3-5-21-0 |
年月日未詳 | 目ろく | 3-5-21-1 | |
年月日未詳 | ぶらんこ | 3-5-21-2 | |
年月日未詳 | 恵那山と石槌山 | 3-5-21-3 | |
年月日未詳 | 雪の巾が分らん | 3-5-21-4 | |
昭和54年2月26日 | 恵那の教育と公立私学校のはなし | 3-5-21-5 | |
年月日未詳 | 愛媛師範 | 3-5-21-6 | |
昭和54年2月21日 | あいさつ | 3-5-21-7 | |
年月日未詳 | 恵那山 | 3-5-21-8 | |
年月日未詳 | 貧窮の中の子供 | 3-5-21-9 | |
年月日未詳 | (丸山石田高橋先生を通して梅津氏との話合に付覚) | 3-5-21-10 | |
年月日未詳 | (目次案) | 3-5-21-11 | |
年月日未詳 | 草土文化への(原)稿案 | 3-5-21-12 | |
昭和54年2月23日 | あとがき | 3-5-21-13 | |
年月日未詳 | 一番困るもの | 3-5-21-14 | |
(昭和54年)5月15日 | (元原稿で作業をさせていただきたい、私の方で二十四、五日ごろまでに原稿を整理に付手紙)東京都千代田区五番町草土文化梅津勝恵から三宅武夫宛 | 3-5-21-15 | |
昭和54年 | 草土文化原稿の素稿綴A(見返しには「あんな校長三宅武夫七十五年の共育」とある) | 1 | 3-5-22-0 |
昭和54年6月10日 | (素稿綴の)説明 | 3-5-22-1 | |
昭和54年11月 | (『おらあ先生になる』印行の記) | 3-5-22-2 | |
年月日未詳 | もくじ | 3-5-22-3 | |
昭和54年6月10日 | はじめに | 3-5-22-4 | |
昭和54年3月3日 | ごあいさつ | 3-5-22-5 | |
昭和54年3月3日 | あとがきに寄せて | 3-5-22-6 | |
昭和54年5月27日 | ごあいさつ | 3-5-22-7 | |
年月日未詳 | 恵那地域の教育の諸相 | 3-5-22-8 | |
年月日未詳 | 不憤不啓 不排不発 | 3-5-22-9 | |
年月日未詳 | 傷疲瑕(二〇三高地と恵那雑巾、恵那地域の教育の諸相) | 3-5-22-10 | |
年月日未詳 | あんな校長 | 3-5-22-11 | |
年月日未詳 | あんな校長と標題考 | 3-5-22-12 | |
年月日未詳 | 三宅武夫七十五年の回想記・あんな校長・恵那山麓共育の系譜序説 | 3-5-22-13 | |
昭和54年3月3日 | 「あんな校長」 | 3-5-22-14 | |
昭和54年3月31日 | あんな校長-反省と御礼のことば- | 3-5-22-15 | |
昭和54年 | 草土文化原稿の素稿綴B1 | 1 | 3-5-23-0 |
昭和54年6月21日 | 初めに | 3-5-23-1 | |
昭和54年5月30日 | はじめに-資料記録の重要性- | 3-5-23-2 | |
(昭和54年)6月2 | はじめに-資料・記録のこと- | 3-5-23-3 | |
昭和54年6月7日 | はじめに-資料・記録- | 3-5-23-4 | |
昭和54年6月4日 | はじめに | 3-5-23-5 | |
(昭和54年)6月8 | はじめに | 3-5-23-6 | |
昭和54年 | 草土文化原稿の素稿綴B2 | 1 | 3-5-24-0 |
昭和54年6月10日 | はじめに | 3-5-24-1 | |
昭和54年3月17日 | 恵那雑巾の根っ子(複製) | 3-5-24-2 | |
年月日未詳 | 「恵那山」(複製) | 3-5-24-3 | |
昭和54年4月5日 | はだらの山肌(複製) | 3-5-24-4 | |
昭和54年3月3日 | ごあいさつ(複製・反故) | 3-5-24-5 | |
昭和54年3月3日 | あとがき(複製・反故) | 3-5-24-6 | |
昭和54年 | 草土文化原稿の素稿綴B3 | 1 | 3-5-25-0 |
(昭和54年) | (刊行のいきさつ) | 3-5-25-1 | |
(昭和54年6月) | 草土文化との交流(日記) | 3-5-25-2 | |
(昭和54年5月28日) | (来訪延期通知葉書)東京都千代田区五番町草土文化出版部梅津勝恵から三宅武夫宛 | 3-5-25-3 | |
(昭和54年6月22日) | 梅津・石田・丸山来訪、原稿のことについて談合(覚) | 3-5-25-4 | |
年月日未詳 | これから書いていく為に | 3-5-25-5 | |
年月日未詳 | (あんな校長題字揮毫試筆) | 3-5-25-6 | |
年月日未詳 | 三宅武夫略歴 | 3-5-25-7 | |
年月日未詳 | もくじ | 3-5-25-8 | |
昭和54年5月27日 | あんな奴校長にしても大丈夫か | 3-5-25-9 | |
年月日未詳 | あんな男、こんな校長 | 3-5-25-10 | |
昭和54年3月31日 | あとがき | 3-5-25-11 | |
昭和54年1月20日 | 恵那雑巾の話(複製) | 3-5-25-12 | |
昭和9年1月24日〜昭和40年10月25日 | 周辺の人々 | 1 | 3-5-26-0 |
(昭和37年10月22日) | 猫山常蔵先生(初稿36年12月12日) | 3-5-26-1 | |
(昭和37年10月31日) | 雨宮新七校長 | 3-5-26-2 | |
(昭和37年8月17日) | 親友山本恭平夫妻のこと | 3-5-26-3 | |
(昭和9年)1月24日 | (松山での御高配への礼状)新京森信三から岐阜県師範学校三宅武夫宛 | 3-5-26-4 | |
年月日未詳 | 咲子に付手紙案(森宛) | 3-5-26-5 | |
昭和34年6月3日 | 岸武雄『或る教師の生活探求』について読後感(これに34年6月2日消印岸武雄から三宅武夫宛礼状返事葉書が貼付してあった) | 3-5-26-6 | |
年月日未詳 | 成木先生弔辞 | 3-5-26-7 | |
昭和40年10月25日 | 秘(三宅武夫夫)人にたゝかれる | 3-5-26-8 | |
昭和36年2月15日 | (校内研究会来観御礼手紙)中津川市二中三宅武夫から大野主事宛 | 3-5-26-9 | |
年月日未詳 | 三宅先生を送る会テーブルスピーチ原稿 中川克有(写) | 3-5-26-10 | |
昭和36年4月9日 | 近藤功・三宅校長先生を送る会挨拶(文) | 3-5-26-11 | |
(昭和36年4月9日) | (三宅武夫の思い出話) | 3-5-26-12 | |
年月日未詳 | 宮原誠一氏日本現代史大系『教育史』はしがき抜 | 3-5-26-13 | |
昭和32年 | 西尾彦朗教育長を迎える言葉 | 3-5-26-14 | |
年月日未詳 | 鈴木六二先生顕彰会寄稿原稿 | 3-5-26-15 | |
(昭和35年3月11日) | 35年3月11日東濃地区主事会議(挨拶文) | 3-5-26-16 | |
昭和35年4月20日 | 松本(猶堂)先生講演(関西旅行の栞について)(構想と原稿) | 3-5-26-17 | |
昭和36年7月10日 | つかませられた話(和牛を飼う) | 3-5-26-18 | |
年月日未詳 | うんのついた(二五枚の千円札の)話(下書) | 3-5-26-19 | |
年月日未詳 | 三宅武夫 うんのついた話(校正稿) | 3-5-26-20 | |
昭和34年5月1日 | 母の教示について | 3-5-26-21 | |
昭和35年4月25日 | 三たび糞の話によせて(間四郎、西尾彦朗、私の三人の談) | 3-5-26-22 | |
(昭和32年)5月17日 | (西村君一中退職に付手紙案)三宅武夫から森島宛 | 3-5-26-23 | |
昭和32年5月20日 | (玉置教育長追悼文)(下書)中津川市小中学校教職員代表三宅武夫 | 3-5-26-24 | |
(昭和32年5月20日) | (玉置教育長)弔辞(案)中津川市連合育友会長大嶋順治 | 3-5-26-25 | |
昭和33年5月18日 | (御芳志・追悼録に付御礼手紙案)玉置恵子 | 3-5-26-26 | |
(昭和33年5月) | (弔慰金・追悼録に付御報告手紙案)代表三宅武夫 | 3-5-26-27 | |
年月日未詳 | 周辺の人々 周辺の事々素稿1 | 1 | 3-5-27-0 |
年月日未詳 | 総案点検 | 3-5-27-1 | |
年月日未詳 | 草木(土曜日)文化社要請「文」素稿(目次) | 3-5-27-2 | |
年月日未詳 | 恵那雑巾 | 3-5-27-3 | |
年月日未詳 | 私の周辺(おばあちゃん)鬼の鬼 | 3-5-27-4 | |
年月日未詳 | 周辺の人々・清書の丸(自来也と滝夜叉姫) | 3-5-27-5 | |
年月日未詳 | 周辺の人々・扇面(三本の葉書・母の教示) | 3-5-27-6 | |
年月日未詳 | 私の周辺・石田先生の行動教育(おにぎり・直進直行) | 3-5-27-7 | |
年月日未詳 | 周辺の人々 二銭銅貨の話 | 3-5-27-8 | |
年月日未詳 | 私の周辺(雨宮校長)あの時の娘(船頭は着物はすてゝも船員はすてぬ) | 3-5-27-9 | |
年月日未詳 | 私の周辺の人々・蝌蚪即蛙児(寮監・長井章) | 3-5-27-10 | |
昭和54年1月3日〜昭和54年1月30日 | 周辺の人々 周辺の事々素稿2 | 1 | 3-5-28-0 |
年月日未詳 | 私の周辺(宮沢校長)知事を呼べ 校庭の樹木は博物教師の私物ではない | 3-5-28-1 | |
年月日未詳 | わたしの「公立私学校」前置 | 3-5-28-2 | |
年月日未詳 | 公立私学校 | 3-5-28-3 | |
年月日未詳 | (公立私学校経営の仕事の第一) | 3-5-28-4 | |
年月日未詳 | 公立私学校の年次別行動記録並びに語録抜粋(年表) | 3-5-28-5 | |
年月日未詳 | わたしの履歴書・公立私学校ニおける諸語録 | 3-5-28-6 | |
昭和54年1月3日 | (周辺の人ニ・・・公立私学校証言抜) | 3-5-28-7 | |
年月日未詳 | 公立私学校ニおける諸語録 | 3-5-28-8 | |
昭和54年1月30日 | (あとがき)元二中校長三宅武夫 | 3-5-28-9 | |
(丑)(昭和48年) | 雑談・私の周辺の人々2 | 1 | 3-5-29-0 |
年月日未詳 | 周辺にいて私を指導した人々 | 3-5-29-1 | |
年月日未詳 | 泣く奴あへぼい話 | 3-5-29-2 | |
年月日未詳 | 渾名物語 | 3-5-29-3 | |
年月日未詳 | 十牛図 | 3-5-29-4 | |
昭和53年10月11日〜昭和53年11月5日 | 周辺の人々稿3・周辺の人々稿4(綴) | 1 | 3-5-30-0 |
昭和53年10月11日 | (3の内容)初めの言葉 | 3-5-30-1 | |
年月日未詳 | 周辺の人々(の回想) | 3-5-30-2 | |
昭和46年12月12日 | 石田校長と小県校医(昭和50年10月9日改稿) | 3-5-30-3 | |
年月日未詳 | 猫山先生(冒頭に「挨拶」昭和53年11月5日がある) | 3-5-30-4 | |
年月日未詳 | 岐阜師範卒・文部省検定 | 3-5-30-5 | |
年月日未詳 | 松山の人々 | 3-5-30-6 | |
昭和53年11月5日 | (4の内容)-挨拶- | 3-5-30-7 | |
年月日未詳 | 岐阜師範での出合(阿部先生と猫山先生) | 3-5-30-8 | |
年月日未詳 | 岐阜師範の雨宮校長と松中の雨宮校長-宮沢校長 | 3-5-30-9 | |
年月日未詳 | 松山の六年 | 3-5-30-10 | |
年月日未詳 | 岐阜へ戻って | 3-5-30-11 | |
年月日未詳 | 種田山頭火と間四郎 | 3-5-30-12 | |
昭和17年1月12日〜昭和53年11月14日 | 周辺の人々稿5 | 1 | 3-5-31-0 |
年月日未詳 | 周辺の人々(目次) | 3-5-31-1 | |
年月日未詳 | 周辺の人々(序文) | 3-5-31-2 | |
年月日未詳 | 私を育てた人々(序文) | 3-5-31-3 | |
年月日未詳 | 何故か愛されて(序文) | 3-5-31-4 | |
年月日未詳 | 私を育てた人々への回想(構想) | 3-5-31-5 | |
昭和53年3月 | 第一研修部長楠橋猪之助「『考える生活』の充実をめざす読書学習とその指導実践」『愛媛県教育センター教育研究紀要』第39集抜刷 | 3-5-31-6 | |
昭和53年10月13日 | (栗きんとん御礼・越智郡大西町の読書グループでの話題近況報告長文手紙)愛媛県松山市道後今市楠橋猪之助・蔦子から三宅武夫・御令室宛 | 3-5-31-7 | |
(昭和53年8月30日) | (越智郡大西町の読書グループでの話の際の資料)(楠橋猪之助) | 3-5-31-8 | |
(昭和53年10月6日) | (松山郵政研修所の資料)(楠橋猪之助) | 3-5-31-9 | |
(戦前) | (わらび送付・中津の母に付葉書)(小栗登世子)から名古屋市西区下園町長谷川りつ宛(小栗についての思い出話をメモしてある) | 3-5-31-10 | |
(昭和53年10月12日) | (先日お話を伺うことができ御礼手紙)名古屋市千種区不老町名古屋大学教育学部森田道雄から三宅武夫宛 | 3-5-31-11 | |
年月日未詳 | 雨宮、宮沢校長の指導 | 3-5-31-12 | |
昭和53年11月11日 | 反逆生徒 | 3-5-31-13 | |
(昭和53年10月17日) | (昭和十三年)教育行事手帳(切抜写)(三宅の感想メモあり) | 3-5-31-14 | |
年月日未詳 | (昭和十三年)寮生名簿稿 | 3-5-31-15 | |
昭和53年10月16日 | 中津川市教育市民会議々長退任挨拶(原稿) | 3-5-31-16 | |
年月日未詳 | (中津川教育文化展覧会の本腰巻)(太田尭・西尾彦朗) | 3-5-31-17 | |
昭和53年10月16日 | 中津川市教育市民会議々長退任挨拶(挨拶原稿) | 3-5-31-18 | |
年月日未詳 | 話合い | 3-5-31-19 | |
年月日未詳 | (原軍次の)三宅との係りについて | 3-5-31-20 | |
昭和53年11月14日 | (長瀬兼作)弔辞 | 3-5-31-21 | |
年月日未詳 | (食心望開店記念広告か切抜) | 3-5-31-22 | |
年月日未詳 | (明治二十九年以降昭和五十年迄)経済海循環航路一覧表 | 3-5-31-23 | |
年月日未詳 | 新旧時刻対照表 民芸喫茶三尾の店発行 | 3-5-31-24 | |
(昭和45年)1月23日 | (拙著お眼にとまりまして幸せに存じますに付御挨拶手紙)東京都三鷹市大沢辻光之助から三宅武夫宛 | 3-5-31-25 | |
(昭和53年10月)27 | (結構なお品有難く存じ上げますに付手紙)名古屋市守山区小幡北山三宅千代から三宅武夫宛 | 3-5-31-26 | |
(昭和53年11月2日) | (病気のお見舞御礼葉書)中津川市苗木西尾岩夫から三宅武夫宛 | 3-5-31-27 | |
昭和46年1月21日 | 第一回中津川市教育委員会の開催について(通知葉書)中津川市教育委員会委員長三宅武夫から三宅武夫宛 | 3-5-31-28 | |
(昭和53年9月) | 中津川市西尾市政下教育の活動について(の感想) | 3-5-31-29 | |
(昭和53年9月20日) | (おききしたい内容・26日面会に付葉書)岐阜市鷺山森田道雄から三宅武夫宛 | 3-5-31-30 | |
(昭和53年9月) | 森田氏に応じる為に(中津川市西尾市政下教委について) | 3-5-31-31 | |
昭和19年8月10日 | 一八会報第三(未完成・反故)(昭和53年10月15日日付メモあり) | 3-5-31-32 | |
(戦前) | 草書の練習(草稿用メモ) | 3-5-31-33 | |
昭和17年1月12日 | 不破郡において学級経営上学級訓を如何すべきやと問われて答えたものゝ記録四誓願(・反省五則) | 3-5-31-34 | |
昭和53年11月6日 | (中津川市教育市民会議の皆様への)さよならの言葉 | 3-5-31-35 | |
(昭和53年) | (中津川市教育市民会議議長退任挨拶案) | 3-5-31-36 | |
昭和53年11月5日 | (中津川市立)二中三十周年記念行事ニ参列して | 3-5-31-37 | |
(昭和53年)10月13日 | (栗きんとんは沢地久枝さんといただきましたに付手紙)鎌倉市稲村ヶ崎甘糟幸子から三宅武夫宛 | 3-5-31-38 | |
(昭和53年10月11日) | 昭和五十三年秋栗金頓送付先覚 | 3-5-31-39 | |
(昭和53年10月12日) | (キントン御礼手紙)静岡県伊豆河津町平方久直から三宅武夫宛 | 3-5-31-40 | |
(昭和53年10月12日) | (好物御礼・九月二十三、四日高山見物に付葉書)東京都千代田区外神田土屋鴻から三宅武夫宛 | 3-5-31-41 | |
(昭和53年)10月12日 | (秋の味覚御礼葉書)松山市太山寺町篠木重徳から三宅武夫宛 | 3-5-31-42 | |
(昭和53年)10月16日 | (姉へのお心づかい御礼葉書)松山市本町宮下常子から三宅武夫宛 | 3-5-31-43 | |
昭和53年10月20日 | (中津川のきくごぼうを御恵贈御礼葉書)岐阜市六条野村芳兵衛から三宅武夫宛 | 3-5-31-44 | |
昭和45年4月 | (六たび京都府知事に就任ごあいさつ手紙)京都府知事蜷川虎三から三宅武夫宛 | 3-5-31-45 | |
昭和50年2月10日〜(昭和54年夏) | 惜而不捨幼ない稿本類 | 1 | 3-5-32-0 |
昭和49年8月20日 | 初めに | 3-5-32-1 | |
昭和49年8月20日 | 六地蔵様(本文には「笠地蔵」とあり) | 3-5-32-2 | |
昭和50年2月10日 | 中津川市立南幼稚園保母佐藤いなみ君ニ応える「構える教育について」 | 3-5-32-3 | |
年月日未詳 | (教育に)真剣が足らん話 | 3-5-32-4 | |
(昭和54年夏) | (原稿「ウナギはにげた」をコボたちに掲載するに付手紙)コボたち編集室玉田トシ子から三宅宛 | 3-5-32-5 | |
年月日未詳 | (先生とっておきの話)鰻は逃げた 中津川三宅武夫 | 3-5-32-6 | |
年月日未詳 | 医者の不養生(父母と教師) | 3-5-32-7 | |
昭和53年7月7日 | おにぎり 何故先生になったか | 3-5-32-8 | |
(昭和52年) | 「遊び」の調査について | 3-5-32-9 |