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枡(舛)屋伊兵衛の墓[ますやいへえのはか]

分類 史跡
指定別
所在地 安八郡輪之内町大薮
所有者 円楽寺
指定年月日 昭和46年12月14日

枡(舛)屋伊兵衛の墓

 枡屋伊兵衛については、次のような伝えがある。養老郡多良の生まれで江戸に出て、領主高木内膳貞住(東高木家)の下人となった。薩摩藩の宝暦治水工事が開始され、内膳貞住が幕府方の水奉行として、工事監督にあたる事になったため、伊兵衛もこれに従って帰国した。この治水工事の難関の一つは、大榑川洗堰であったが、大榑川の川床と長良川の川床との差が、2.3m程度あり、この両川が落ち合う地点は、特に水勢が激しく、沿岸の堤防を破壊し、水害がいたる所で発生した。宝暦4年(1754)その地点に、新しく洗堰を築くことになったが、出水のため工事は失敗を繰り返し、担当の薩摩藩士が割腹する事態となった。同年9月22日、内膳の下人として工事現場にきていた伊兵衛は、工事の渋滞を水神の怒りによるものとし、自分が犠牲となって「人柱」に立つことを決意し、濁流に身を投じた。大薮村円楽寺の慈賢和尚は、内膳とともに伊兵衛の霊を手厚くとむらったという。円楽寺境内に残る墓石には、次のように刻まれている。
宝暦五乙亥年
法名釈誓終往生
三月廿九日
とあるが、その死没年は、幕府をはばかって工事竣工のこの日を選んだものかと思われる。

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