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安東伊賀守守就戦死の地[あんどういがのかみもりなりせんしのち]

分類 史跡
指定別
所在地 本巣郡北方町北方堤池
所有者 北方町
指定年月日 昭和43年11月11日

安東伊賀守守就戦死の地

 北方城主安東伊賀守守就は土岐、斎藤両家に仕え、稲葉氏、氏家氏と共に西美濃三人衆といわれた武将である。永禄10年(1567)織田信長が美濃に入国するに際して、その傘下に属した。安東伊賀守守就の領した所は、本巣郡を中心に東は方県郡及び岐阜市外河渡付近にまで及んだという。
天正8年(1580)、安東伊賀守守就は甲斐武田に内通したとの嫌疑を信長からうけ、一族は北方を去って、武芸郡谷口村に退去した。故領は稲葉一鉄の領するところとなった。
天正10年(1582)6月、織田信長が京都で明智光秀に殺害されたことを聞いた守就は、一族旧臣に檄をとばして、北方に侵入した。伊賀守守就は、かつての盟友一鉄と交戦し、城の北方千代母ヶ淵において討ち死にした。八十余歳であったという。

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