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恵那文楽[えなぶんらく]

分類 重要無形民俗文化財
指定別
所在地 中津川市中津川川上
技芸団体 恵那文楽保存会
指定年月日 平成元年7月7日

恵那文楽

 恵那文楽の人形頭23個は、昭和33年(1958)県指定となり、特に婆・お福・丁稚の3体は、古拙な深い味わいのある逸品である。元来、この大坂系の頭は、阿波系ほどに塗りが克明でないので、顔面に陰影があり、舞台での動きにつれて生気が生まれてくる。ここにある頭、その大坂系のかなり古い時代のもので、古典的逸品である。
恵那文楽の由来については、地元では元禄年間(1688〜1704)淡路のくぐつ師(人形つかい)が美濃を巡業し、川上[かおれ]地区の人々に伝授したのが始めというが確証はない。その後の経過については、三宅武夫氏の「川上文楽頭考」には、宝暦年間(1751〜64)川上地区の名主市岡銀蔵により基礎を樹立、ついで天明年間(1781〜89)中村伝十郎が人形の操り方を伝授し、原又四郎の弟権三が「三番」の頭を入手、さらに寛政年間(1789〜1801)安藤勝蔵が操りの技法を修得して、同志の指導に当たったと記してある。さらに、大井金蔵が尾太夫について修業し、原秋蔵が大坂から太夫を招いて三味線を修得するなど、中津川宿の「操り人形」として近郊にもてはやされた。幕末に黄金期を迎えた恵那文楽は、明治に入り歌舞伎芝居がもてはやされ影が薄くなった。しかし、明治35年(1902)、小木曽滝蔵・今井源二郎・佐藤友二郎らが、大坂文楽の名人を招いてその技を伝授されて命脈を保ち、大正の頃には青年団の関心が高まった。昭和となり、中川とも・義太夫の鈴木迂一・三味線の芸者のかよの3人により、大いに盛んとなった。
恵那神社祭礼奉納は、昭和10年代より9月29日、川上地区内の神社境内にある独立した小屋(舞台)で「三番叟」が上演されている。

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