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東南海地震(昭和19年)

記事ID:0005981 2021年3月31日更新 防災課 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

(注)本データは、「特集と年表でつづるひだみのの災害岐阜県災害史(平成10年3月)」から抜粋したもので、岐阜新聞社出版局のご協力により原文のまま掲載したものです。文中にわかりにくいと感じる表現などがあるかもしれませんが、当時の新聞記事の表現を尊重しておりますのでご了承願います。

規制された地震の報道

日華事変のぼっ発後、国家総動員法による記事掲載の制限、新聞発行許可制など新聞にも国の統制が加えられるようになった。そして、太平洋戦争がはじまると、言論の統制はいよいよ強化され、紙面には「鬼畜米英」「1億国民総武装」「進め1億火の玉だ」という活字がおどり、戦時色が漂うようになる。その一方、用紙不足から夕刊が廃止(昭和19年3月)され、朝刊も2ページに制限(同年11月)が加えられた。また、食糧事情は悪化の一途をたどり、国民生活は際限なく切り下げられていった。

こうした状況下で発生した地震であっただけに、その被災状況は人心を不安に陥れると極秘扱いにされ、報道も規制された。上に掲げた「岐阜合同新聞」(昭和19年12月9日付)の見出しに「生産は逆に上昇」とか「隣人愛で逞しく復旧」などと記されるように、当時の地震関係記事は人心の安定を図るように配慮された。その他の見出しと記事内容例を挙げると次のようである。

火災全然なし、物言った日ごろの訓練

岐阜県内に火災が全然なかったわけではなかった。しかし、「全然なし」を強調する。そして戦時下の防火訓練と結びつけ、火災が発生しなかったのは日ごろの訓練の成果と報じた。

震禍にも揺るがぬ翼の基地

「我が身より航空機が大切」と揺れる工場内に踏みとどまり、身をていして生産機能を死守した事例を紹介。また震動で自然発火した薬品の上へ身を投げ出して火災を防いだ事例を美談として報じ、震禍にも揺るがぬ国土防衛の自覚と努力を促した。

死より重き責任感

防空壕づくりに携わった勤労学徒が、作業中に地震で倒壊してきたれんがの下敷きとなり殉職した。このとき、最後まで車のかじ棒を握りしめはなさなかったと、学徒の責任感が強調して報じられた。これは「各人の責任感の遂行が戦争の勝敗の鍵」という考えに基づくものであった。

昭和の東南海地震における被害

県外の被害

東南海地震は、九州から関東地方までの全域及び東北や北海道の一部でも人体に感じられるほど大きな地震であった。とくに紀伊半島東部、伊勢湾周辺、熊野灘沿岸では振動が激しく、愛知・静岡・三重県に大きな被害が出た。

しかし、三重県や和歌山県の場合は、地震災害というよりむしろ津波による被害が多かった。「昭和19年12月7日東南海地震の震害と震度分布」(愛知県防災会議編)より各地の被害を図示すると図の通り(下図)である。

東南海地震は、規模の割に死者が少なかった。これは昼間であったことと、振幅が大きくゆるやかであったので、屋外へ逃げ出す余裕があったからだ。

県内の被害

岐阜県内で被害が大きかったのは、木曽川・長良川・揖斐川の三大河川下流域にあたる海津郡・養老郡・羽島郡・安八郡で、いわゆる「西南濃」と呼ばれる地域である。なかでも海津郡西江村(海津町)は全戸数326戸のうち19.9%(住家の全壊42戸、半壊23戸)が全半壊の被害を受け、養老郡笠郷村(養老町)では全戸数736戸のうち19.8%(住家全壊61戸、半壊85戸)が被害を受けた。これに次ぐのが、養老郡広幡村(養老町)・上多度村(養老町)、海津郡石津村(南濃町)・大江村(海津町)などであった。

石津村では陥没による被害が大きく、揖斐川沿岸の田鶴集落では堤防の陥没で家屋の被害を生じたほどである。また羽島郡竹ヶ鼻町(羽島市)では砂まじりの水がふきだしたといわれる。これらはいずれも地盤が軟弱な地域であった。

救援対策

県の震災応急措置

12月8日、県は部課長会議を開き、非常事態に対する措置について協議し、震災復旧対策委員会を組織した。このとき、内政部関係は兵事厚生課、警察部関係は警防課、経済第1部関係は総務課、同第2部関係は調整課を災害復旧主務課とし活動が開始された。

まず具体的復旧方策について協議が重ねられ、被害地へ緊急措置として10日分の味噌・しょう油を配給するほか、木材・くぎ・針金・ガラスなど復旧資材の配給を決定した。

また、被害が大きかった大垣市・海津郡西江村・養老郡笠郷村などには、り災救助基金法を適用し、軽度の町村も法外救助金交付の便法を講ずるようになした。

さらに敵機来襲範囲の拡大が予想される中で、空襲・その他非常災害に備えて作成された「緊急事態応急用食糧・食品配給要領」(昭和18年5月)に、次の事項を追加した。

つまり、災害り災者に炊き出しを行わねばならねような緊急事態に際しては、5日間の主要食糧・副食物を配給することとしたのである。これに基づき配給されたのは、生活必需品の米、麦・小麦粉・乾うどん・乾パンなどの食料や、味噌・しよう油・漬け物・梅干し・ミルクなどの食品で、県民生活の確保と人心の安定措置として講じられた。

復旧の基本方針

各地の震災被害状況調査の取りまとめを完了した12月12日、県は知事や各部長などの出席のもとに震災復旧対策会議を開き、復旧基本方針を決定した。

基本方針

  1. 重要工場・農村・輸送関係方面など生産力増強に影響ある方面には、応急復旧対策を講じて復旧に努め、恒久的なものは漸次復旧させる。但し軍関係工場は軍需管理部と連絡し資材配給、労務確保に万全を期す。
  2. 一般住宅は差し当たり半壊のものに重点を置き、支柱その他の手段で居住に支障なからしめ、全壊家屋は古材の使用、小屋掛けなど最小限度の資材で復旧する。道路、橋りょう、堤防の被害は土木課で作製の復旧策を実施、輸送に支障なからしめる。

この基本方針のもとに震災復旧を推進する本部として、県庁庶務課内に「臨時震災復旧連絡室」を設置し、復旧対策の樹立をしたり指導にあたったりした。

建築資材の配給

震災で倒壊した家屋を復旧させる資材の確保は急務であった。しかし、需要増大で一般にはなかなか手に入らなかった。

そこで県は、町村の被害状況に応じて復旧資材を配給することとし、一括して警察署に割り当て、地方事務所や土木出張所と連携して配給を実施した。

竹箕の配給

決戦体制下では軍需品と食糧増産が最重要点であった。そのため県は、震災被害地農家の食糧増産に支障がないようにと、農業会を通じて竹箕600個を海津・養老・羽島・安八郡内へ配給した。そのほか、農機具も現物を確保次第優先的に配給することにした。

国債・戦時債券の再交付

全国的に震災で国債や戦時債券を紛失した者が少なくなかった。そこで国は、戦時災害の場合と同様に再交付することにした。

これを受けて県は、震災被害者に対して国債は日本銀行代理店、債券は勧業銀行支店へ請求の上、再交付を受けるように通知した。

味噌・しょう油の入荷量確保

岐阜県は味噌・しょう油を愛知県など他県から入荷していた。ところが、この地震で愛知県などの味噌・しょう油の生産地が被害を受けたため入荷量が減少し、県民の間に不安が広がった。県は配給停止の事態を避けるため、愛知県からしょう油、長野県から信州味噌とそれぞれ必要量の移入経路の確保に努めた。

その一方、県内における自給態勢の推進を図るとともに、「できるだけ消費を節約し、現品の手持ちを多くするよう心がけて欲しい」と呼びかけた。

戦地からの震災見舞状

満州国で活躍中の第616部隊の尾関隊に属した若園靖夫氏から不破郡府中村大滝(垂井町)の山口仙介氏宛に、次のような手紙が届いた。

「愈々(いよいよ)年末も間近に迫り、日々御多忙の御事と御察し申上候、小生も御蔭で日々至極壮健にて、時折紙上にて御承知の如く、敵機来襲に備へ日夜健斗致居(いたしおり)候間、乍他事(たじながら)御休心願上候、扨(さ)て一昨日、父からの来状に依れば、去る13日御当地方に稀有(けう)の大地震有之(これあり)候由の事、如何に候也御伺ひ申上候、宅は幸ひ皆々無事との由、安心致し居候、(中略)ではこれにて御無礼仕候、末筆乍ら皆々様よきお年をお迎へあらん事を祈居候」

この絵はがきには年号が記されていないが、戦時中の「年末」に起きた「稀有の大地震」というのは、東南海地震にほかならなかろう。

知事・県議の激励慰問

12月11日、橋本岐阜県知事は、西南濃方面の震災被害情況と復旧作業情況を視察した。翌12日には、羽島郡笠松(笠松町)・上中島(羽島市)・下中島(同)・正木(同)各町村の地震被害状況を視察し、復旧に敢闘するり災者を激励した。

これに対して岐阜県会は、14日に委員長会を開いて、震災対策の協議を行い、資材の許す限り早急に支給するよう県当局に要請することにした。また、羽島・海津・養老・安八郡ならびに大垣市に、正副県会議長、地元議員の慰問班を派遣し、震災地を慰問激励することを決めた。

そして19日、次の2班に分かれて震災被害地の慰問を行った。第1班は柳川内政部長、上野県会議長及び地元県会議員が海津郡今尾町(平田町)ほか7か町村を、第2班は土屋経済第2部長、横山県会副議長及び地元県会議員が羽島郡江吉良村(羽島市)ほか4か町村を慰問した。

震災見舞い

県内2市81か町村のり災者には、県や社会事業協会などから見舞金が贈られた。その他各方面からも温かい同情が寄せられた。

その1 

前線で活躍する本県出身者の有志から60円に次の手紙を添えて送られてきた。「敵機の頻襲、戦力増強に挺身、銃後の県人が震災に遭われたと聞いて同情に堪えない。僅かではあるが復旧等の一端にされたい」

橋本知事は、県会戦時協力会の席上で発表し、前線有志の温かい同郷愛に応え一刻も速やかに復旧に努めることを誓った。

その2

鳥取者の出身者4人が、鳥取大震災の際に本県が寄せた援助に感動して、今回の災害の復旧費にと50円を県にあてて寄付した。

鳥取大震災は、昭和18年9月10日に発生した震度6の烈震で死者1210人、家屋の全半壊1万4000戸の被害を出した。

その3

武儀郡下牧村字片知(美濃市)の野村武雄氏は、被災地の学童への見舞いとして、学童用ノート400冊、クレヨンペーパー100冊及び家庭用障子紙50本を県警防課を通じて被害地に贈った。

倒壊家屋を買い上げ、防空ごうの資材に

当時、本土空襲の可能性が高まり、防空ごうの完備が緊急の課題であった。しかし都市部では、防空ごうをつくる資材が不足し、悩みの種となっていた。そのため名古屋市では、震災で倒壊した家屋を買い上げて防空ごうの資材に転用しようと「災害家屋応急処理要綱」を決定し、全壊・半壊家屋を所有者の希望によって買収することにした。買い上げた木材は全壊家屋分を市公共防空ごうの資材に転用、半壊家屋木材は取り壊し運搬を条件として希望町内会に払い下げた。

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