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飛越地震(安政5年)

記事ID:0005979 2021年3月31日更新 防災課 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

(注)本データは、「特集と年表でつづるひだみのの災害岐阜県災害史(平成10年3月)」から抜粋したもので、岐阜新聞社出版局のご協力により原文のまま掲載したものです。文中にわかりにくいと感じる表現などがあるかもしれませんが、当時の新聞記事の表現を尊重しておりますのでご了承願います。

江戸時代末期に連続して発生した大地震

安政年間(1854〜1860)は、全国的に地震の多い年であった。しかも、マグニチュード6から8クラスの大地震が毎年のように起こった。

美濃・飛騨にかけて起こった特筆すべき地震だけでも前後数回に及んでいる。

高山の町人森宗弘が著したものに「諸国地震変異録」というのがある。これは、嘉永七年(改元の安政元年)から安政5年までの著名な地震を記録したものである。商人として各地に人脈を持っていた宗弘は、当時諸方面から通知された震災の模様を書き留め、一冊の記録として後世に残している。

この「諸国地震変異録」の記録をもとに、「岐阜県災異誌」と「理科年表」による震度の大きさや郷土の被害状況を加えて、安政年間の主な地震を列記すると、次のようになる。

安政元年(1854)6月13日〜15日にかけて美濃や近畿地方を襲った大地震

マグニチュード6.9。美濃は14日が特に強く、余震もかなり続いたという。可児、土岐、本巣の各郡では避難小屋を建て、一週間ほど避難をした。翌15日は伊賀、伊勢、大和方面でかなりの被害を出した。

安政元年11月4日の東海道沖地震及び5日の南海道沖地震

マグニチュード8.4。被害は関東から近畿に及び、特に沼津から伊勢湾にかけての海岸がひどかった。美濃では高須、大垣、加納、不破郡、土岐郡、恵那郡において家屋倒壊などの被害が多かった。また余震が一ヶ月も続き、人々は雪の中に小屋を建てて避難生活を送ったという。特に被害の大きかった高須藩と大垣藩には、幕府から震災復興費が貸し与えられた。高山では4日、近頃にない振動に人々は驚いて戸外へ飛び出したようであるが被害は伝えられていない。余震も7日まで記録されている。

安政2年2月1日に飛騨白川を襲った大地震

マグニチュード6.75。白川郷では保木脇、野谷、大牧、また金沢などにも被害が及んだ。天正13年に起きた大地震同様、保木脇村ではまた山抜けのために民家がつぶれ、死者が出た。

安政2年10月2日に起きた江戸地震

マグニチュード6.9。下町での被害が特に大きかった。地震後30余箇所から出火し、江戸町方の被害は、つぶれたり焼失した家屋1万4000余、死者は4000余に上った。

安政5年2月26日に起きた飛越(ひえつ)地震(角川地震)

マグニチュード7.0〜7.1。飛騨北部・越中での被害が大きく、飛騨ではこわれた家709軒、死者203人に及んだ。山崩れが各地で起き、越中西街道が不通となり米、魚、塩など運送要路が断たれた。富山では常願寺川の上流がせき止められ、後に決壊した。

飛越地震

発生時刻

飛越地方を襲った地震の発生時刻について、高山の「町年寄日記」にはこう記されている。「昨夜九ツ半時ごろより大地震いたし、今朝まで度々地震いたし候事」

夜九ツ半時というのは、現在の時刻にすると午前1時頃のことである。また、余震が朝まで続き、一説には夜明け頃までに40余回にわたって大震、小震を繰り返したという。

被害状況

越中側では、常願寺川の上流、立山の大鳶山(おおとんびやま)、小鳶山(ことんびやま)が崩れて湯川・真川をせき止めた。その後3月と4月の2度にわたって決壊し、下流の村々に洪水を起こして140人の溺死者を出した。

越中の被害も大きかったが、飛騨では吉城郡、大野郡の2郡70カ所の村々に大きな被害が出た。

 以下の史料は、当時の飛騨郡代福王三郎兵衛が、幕府勘定書へ報告した被害調査書の一部である。

飛騨国村々地震災害一村限帳寄(抜粋)

 飛州大野・吉城郡70ケ村

  • 高三千四百九十三石五升
  • 総家数千二百二十七軒
  • 総人数八千四百五十六人
  • 右之内潰家七百九軒
  • 皆潰三百二十三軒
  • 内寺八ケ寺
  • 道場一軒
  • 十三軒山崩土中埋相知レ不申分
  • 半潰三百七十七軒
  • 内寺六ケ寺
  • 道場1軒
  • 流出四軒
  • 焼失五軒
  • 即死二百三人
  • 怪我四十五人

(「大野郡史」より一部略して引用)
注 地震による被害件数は文献により数字に多少の相違がある。

特に吉城郡の北部、小嶋(こじま)郷、小鷹利(こたかり)郷、下高原郷と大野郡の白川村の被害がひどかった。家屋倒壊のほか、山崩れなどによって道路、橋、用水路も各所で決壊し、越中街道も不通となった。

跡津川断層と角川(つのがわ)地震

各村ごとの詳細な被害状況を地図にプロットさせると、この地震による家屋の倒壊率が50パーセントを越えた村は、ほぼこの地域をはしる跡津川断層に沿っていることが分かる。河合村(現飛騨市)中沢上(なかそうれ)や宮川村(現飛騨市)森安にいたっては倒壊率が100パーセントにも達している。

跡津川断層は、富山県薬師岳の西麓にある有峰付近から南西方向へ、岐阜県吉城郡河合村(現飛騨市)天生にかけて伸びる長さ約70キロに及ぶ大断層である。

被害はこの断層沿いに集中したため、安政5年の飛越地震は、内陸性断層による典型的な直下型の地震であったとされる。

特に人家の密集していた河合村(現飛騨市)角川地区では全戸数98戸のうち77戸までが全壊または半壊した。そのため、飛騨ではこの安政5年の地震のことを、のちに「角川(つのがわ)地震」と呼ぶようになった。

山崩れによる被害が最も著しかったのが同じく河合村(現飛騨市)元田の荒町である。小鳥川の北岸断層崖の上部が崩壊、土砂は対岸に流れ下り荒町の5戸を埋め、跳ね返って立石というところにあった4戸も埋め、一瞬にして9戸、53人の生命を奪った。

現在、この地にはその慰霊碑が建てられており、荒町の惨状を伝える文面が刻まれている。

(飛越地震の原因となった「跡津川断層帯」の概略図(地震調査研究推進本部HPより))

「跡津川断層帯」の概略図

高山町の様子

一方、高山町ではさほど被害はなく、屋根の押石が落下したり、東山寺院の山林墓所・石塔などが破損した程度ですんだ。

地震による地変

この地震により宮川村(現飛騨市)一ノ瀬の仰天網(てんとうあみ)が壊滅した。

現在の宮川村(現飛騨市)杉原付近に、幅29間、高さ2間半の大滝があった。そこはマスが遡上してくることで有名で、仕掛けられた漁法の仰天網は「一ノ瀬の仰天網」として宮川一の奇観とたたえられ、名所となっていた。しかし、地震によって川岸の山が崩れ、背後の滝谷川のはんらんにあって壊滅し、有名だった「杉原鱒」の名も永久に聞かれなくなった。

災害の復旧

2月26日の震災によって被災した人々に対し、高山御役所は早速手附・手代・地役人を手配して、郷蔵の備蓄お供物を救米として出した。取りあえず一人につき1日2合5勺ずつの手当米を、27日から翌月1日までの5日分を支給した。

その後も手附・手代・地役人を被災地へ視察に派遣し、見分の上で手当米・手当金などの支給を行った。

また、取り締まりの場所として重要な口留番所は、すぐに雑木でもって仮木戸を建て、大破したところは仮修繕を行った。もっとも、全壊のところは小屋掛けしたり、最寄りの農民の家を仮番所とした。

道路や用水路の復旧は、村中総出で応急の修理を加えた。

ほとんど被害の出なかった高山町では、有力町人などから金銭のほか、米・みそ・塩・漬け菜などが救援物資として差し出され、役所を通じて被災地へ送られた。そのほか古川、国府各所からも郷蔵の穀物や救援金などが送られた。

破損した用水路、往還道路の復旧工事には高山、古川、船津以外に、富山の人々も工事の請負にあたった。特に、越中街道の復旧は急務であったので、早急に取りかかった。また、震災復旧工費は幕府からも借り受けた。

震災史料余話

史料の中にはさまざまなエピソードが含まれている。ここでは、役人に関する話を2つほど紹介しておく。

役人の泣き言

越中往還御番所(口留番所)の一つ中山口御番所の役人土屋勘左衛門は、「高山御役所宛状況報告書」の中で、「番所はつぶれてしまい、とりあえず仮小屋を建てて、村人や番所の水夫たちと野宿同様に同居している。越中への通行路は、普請を仰せつけられても二ヶ月三ヶ月では通行はできないように見受けられる。ひとまず、ちょっと帰宅させてもらいたい。それがかなわないなら一日も早く交代したい」といった旨の泣き言を述べている。

視察場所をくじで決める

被災地への取調出役には、下高原筋を富田礼彦らが、小鷹利筋を奥田大蔵らがあたることとなった。富田の日記によると、はじめ奥田は船津方面(下高原筋)へいくはずであったが、49歳にて丑寅の方角は良くないので変更を申し入れ、そのため視察場所を玉くじで取り決めたとある。

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