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関ヶ原古戦場[せきがはらこせんじょう] 附徳川家康最初陣地 徳川家康最後陣地 石田三成陣地 岡山烽火場 大谷吉隆墓 東首塚 西首塚
関ヶ原古戦場[せきがはらこせんじょう] 附徳川家康最初陣地 徳川家康最後陣地 石田三成陣地 岡山烽火場 大谷吉隆墓 東首塚 西首塚
分類 | 史跡 |
---|---|
指定別 | 国 |
所在地 | 不破郡関ケ原町関ケ原、野上、藤下 |
所有者 | 関ケ原町 他 |
指定年月日 |
昭和6年3月30日 |
関ヶ原古戦場は、慶長5年(1600)9月15日、石田三成の率いる約8万5千の西軍と、徳川家康の率いる約7万5千の東軍が、天下分け目の合戦をおこなった地である。
指定地は、開戦地および決戦地、徳川家康最初陣地、徳川家康最後陣地、石田三成陣地、岡山烽火場、大谷吉隆墓、東首塚、西首塚の9カ所で、総面積は約245,889平方メートルである。
開戦地は天満山の東麓に位置する。当日午前8時頃、東軍の井伊直政が西軍の島津隊に突入したことで戦端が開かれたとされる。
決戦地は、旧関ケ原小学校の南に位置する。午後2時頃、この付近で石田隊が破れ、ついに戦闘の決着がついたと伝わる。
徳川家康最初陣地は、現関ケ原町東端の桃配山に位置し、合戦当日の午前10時頃まで指揮した場所である。
徳川家康最後陣地は陣場野にあり、家康が午前10時頃に東軍やや不利とみて、最前線に近いこの地で指揮をとった所である。
石田三成陣地は小高い笹尾山にあり、ここからは東軍の本陣などが一望できたと考えられる。
岡山烽火場は丸山に位置し、東軍の戦闘開始の狼煙をあげた場所である。
大谷吉隆墓は、藤古川西の山中に位置する。西軍の参謀であった大谷は、奮戦むなしく割腹して果てたと伝わる。
東首塚は、陣場野本陣、井伊直政および松平忠告の陣跡に所在する。西首塚は、梨子木川の西、現国道21号線北側に位置する。首塚は領主竹中氏が造ったもので、戦死者の首級を埋めた場所である。

