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本文

源頼朝文書(三通)[みなもとのよりとももんじょ]

源頼朝文書(三通)[​​​​みなもとのよりとももんじょ​

分類 重要文化財
指定別
所在地 ​本巣市下真桑
所有者 法人
指定年月日

昭和47年5月30日

 伊賀国鞆田庄の伝領に関する古文書で、3通を1巻に収めている。鞆田庄は、造大仏殿料の地として古くから東大寺の支配下にあり、平安時代には玉竜杣出作地3か村の内として発展したが、承徳元年(1097)、備前守平正盛の手によって六条院に寄進され、平家滅亡後は没官領として処分されたところである。
 本古文書は、同庄の領有を主張する東大寺に対し、源頼朝が与えた一連のものである。
 第1通の下文は鞆田庄住人に充て、当時六条院と東大寺が同領の領有をめぐり訴訟中であり、このため勅裁が下るまでの間、紀遠兼の地頭職を停止する旨を伝えた文章で、末に文治5年(1189)4月7日の年紀と頼朝の袖判がある。
 つぎの文治5年7月の書状は、前記下文に添えて東大寺に差し出した書状で、紀遠兼を鞆田庄地頭に任じた経過と同庄の領有は唯勅定にあるべきこと、地頭職は下文をもって停止した旨を伝えたもの。
 第3通は同年7月11日に東大寺に充てたもので、鞆田庄の帰趨は院の裁断にある旨を重ねて伝え、併せて頼朝の立場を弁明している。
 各文章の端裏書には「十」の数字と割花押があり、東大寺の頼朝関係文書として伝来したものと推測される。