ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

彫刻・工芸品用語

印相
(いんぞう)
印契(いんけい)ともいい手印と契印の2種がある。如来は手と指の位置と形によってさとりを表す。これが手印(しゅいん)である。例えば釈迦には説法印・禅定印・転法印があり、阿弥陀如来には9品の印がある。普通よくみる上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)は、人差指を曲げて垂直に揃(そろ)え親指先をつけて膝の中央におく。また、弥陀の定印(みだのじょういん)といい入定の相であるという。なお、大日如来には金剛界の智拳印(ちけんいん)と胎蔵界(たいぞうかい)の法界定印がある。薬師如来は右手は施無畏印(せむいいん)をつくるが左手には薬壺を載せているのが多い。諸菩薩や、明王、天部ら諸尊はそれぞれ器物を持って標幟にしてるこれが契印(けいいん)である。
暈繝彩色
(うんげんさいしき)
繧繝とも書く。胡粉(ごふん)、緑青、群青、朱及び墨などをもって段層的にぼかして描く彩色法。
乾漆像
(かんしつぞう)
漆で造る像。木心乾漆と脱乾漆との二種があり、奈良平安時代に多く作られた。脱乾漆(だっかんしつ)は脱活乾漆ともいう。まず大体の形を塑像でつくりこの上に漆をひたした麻布を何枚も重ね、細部は漆に粉状の木屑をまぜた木屑漆(こくそううるし)で仕上げる。あとは内部の塑土をぬき去り木の枠で支える。木心乾漆(もくしんかんしつ)とは、木彫りで大体の形を整えておいて、この上に木屑漆を盛って仕上げるものでともに最後は彩色を以て飾られた。
玉眼
(ぎょくがん)
水晶をはめこんだ眼。平安末期とくに鎌倉時代になってから眼を刳り抜き、内側から水晶で作った眼がたを当てることがはやった。これに対し眼を彫っただけのものは彫眼(ちょうがん)という。
截金文
(きりがねもん)
切金文とも書き、細かく切った金銀箔をもちりばめた文様。
化仏
(けぶつ)
如来が衆生を救うためにいろいろ形を変えて現れる、これが化仏である。菩薩像の上につける阿弥陀像や光背(こうはい)につける如来像などがそれである。
光背
(こうはい)
仏像の背後に当てがい、仏の御光を表すもので如来像や菩薩像には光背をつけるのが原則である。頭部に当てる頭光と身部に当てる身光とからなる二重円光(にじゅうえんこう)が普通で、この周縁の形や飾り或いは構造から舟形光、飛天光、板光背などに分ける。また、頭光だけのものでは輪光や宝珠光があり、特殊なものには不動明王の火焔光(えん)などがある。
金銅仏
(こんどうぶつ)
鋳銅の仏像に鍍金したもの。飛鳥、白鳳、奈良時代に特に多く造られた。平安時代は木彫仏におされて振るわず、鎌倉時代にはやや盛んとなり、とくに善光寺式三尊像が多く鋳造されている。また、他に鉄仏も鋳られた。
結跏跌座
(けっかふざ)
右足先を左の股(もも)にのせ左足先を右の股にのせる安坐法。右足を先に曲げれば降魔坐、左足を先にすれば吉祥坐となる。なお一方を曲げ他は垂れたのは半跏跌坐(はんかふざ)という。
水墨画
(すいぼくが)
墨の濃淡によって直観的に描く絵、脱俗的で筆力の強いのが特色。中国で栄えわが国では、雪舟をはじめ主として禅僧によって描かれた。
清凉寺式釈迦如来
(せいりょうじしきしゃかにょらい)
このもとは※ちょう然(ちょうねん)が宋より請来した京都市嵯峨の清凉寺にある釈迦像である。その特色は、比較的大きな頭部と縄状になった髪、耳孔に水晶の珠をはめこんだ長い耳たぶ、頸もとまで覆う衲衣(のうえ)と規則的に波うつ細かな衣褶などで鎌倉時代から室町初期にかけて全国的に模作された。
(※漢字「ちょう」=「大かんむりに周」)
摺箔
(すりはく)
布地に糊や漆などをつけ金銀の箔を摺りつけ絵模様などを表したもの。能装束とくに女役が着る衣装に多くみられる。民間の小袖などにも元禄時代頃まではよく用いられたが禁令によりその後はみられなくなった。
塑像
(そぞう)
粘土で作った像。わが国の塑像は仏教の東流によって中央アジアから伝わり、奈良時代に最も多く造られている。先ず木を骨組とし縄などを巻きつけ粘土で肉付けをし白土を塗り、彩色をして仕上げるのもである。
台座
(だいざ)
像を安置する台。仰蓮と反花からなる蓮華座(れんげざ)が多い。奈良時代の蓮弁は交互に鱗状に並び下は小さいが上は大きい。しかし、上部は少しすぼもっている。平安時代の蓮弁は各列のあいだがあき葺き寄せ式に並び上になるほど弁が大きくのびやかになる。鎌倉時代以降はまた鱗状に並ぶが中段の弁が大きく賑やかになるのが多くなった。また、須弥座または宣字座(せんじざ)とよばれる方形の座も広く用いられる。特殊なものとしては、鳥獣の背による鳥獣座、鬼などをふんだ生霊座(しょうりょうざ)、専ら不動明王にみる岩座や瑟瑟座(しつしつざ)などがある。
沈金
(ちんきん)
漆面に文様を毛彫りにし、これに金箔をはめこんだもの。
天衣
(てんね)
菩薩像に多くみる両肩から腕或いは膝あたりまでかかる薄い帯状のきれ。
天部像
(てんぶぞう)
仏法を守護するインドの神々を、主として貴人貴女の姿で表したもので次のようなものがある。国土四方を守護する神として持国(じこく)増長(ぞうちょう)広目(こうもく)多聞(たもん、または毘沙門ともいう)は四天王(してんのう)といい邪鬼をふみつけた動的な像である。梵天(ぼんてん)帝釈天(たいしゃくてん)も仏法を守る神であるが温容な姿をしている。吉祥天(きっしょうてん)は宝珠をささげた女神像で福徳の神として尊ばれる。弁財天(べんざいてん)も福徳、とくに音楽の女神で主に琵琶をもち島などに祀られる。大黒天も福徳神としてとくに信仰される。その他、韋駄天(いだてん)は魔王を追って仏舎利をとり戻したというので足の速い神として知られている。俗に仁王とよばれる金剛・力士も天部に属する神で口を開いて方を金剛力士(こんごうりきし)、閉じている方を密迹力士(みっしゃくりきし)ということもある。また薬師如来の眷属として知られる十二神将は、宮毘羅(くびら)伐折羅(ばさら)迷企羅(めきら)安底羅(あんてら)※あに羅(あにら)珊底羅(さんてら)因陀羅(いんだら)波夷羅(はいら)摩虎羅(まこら)真達羅(しんだら)招杜羅(しょうとら)毘羯羅(びから)で、平安時代以降はこれを十二支のなぞらえその頭上に十二支の動物をおくようになった。
(※漢字:「あに羅」の「あ」=安へんに頁、「に」=人べんに爾)
南画
(なんが)
南宗画(なんしゅうが)ともいい、中国の画院の北宗画に対し、在野の文人によって描かれたので文人画(ぶんじんが)ともいうようになった。従ってその特色は淡彩で筆致の軽い山水画にみられる。わが国では江戸時代に栄え、京都では池大雅、江戸では谷文晁、渡辺崋山らが輩出した。
根来塗
(ねごろぬり)
和歌山県根来寺の僧によって鎌倉、室町の頃作りだされた朱漆塗の食器類、中塗を黒とし上塗りを朱で仕上げてある。往々手ずれのため朱に黒がうき出て独特の美しさがある。
如来像
(にょらいぞう)
仏・仏陀(ぶつだ)或いは世尊。つまり、最高の境地に達した覚者を如来という。釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来の像がある。その相貌は、きわめて円満で、身体にはただ衲衣だけをまとい飾りは一切つけていない。そのすがたは、常人とちがう三十二相、八十種好などがある。頭の頂は、盛り上がって肉髻となり頭髪は一筋一筋巻いて螺髪(らほつ)となる。その他眉間の白毫(びゃくごう)首の三道(さんどう)全身が金色にかがやくという金色相、両足裏の二輪相などそのおもなものである。ただし大日如来だけは菩薩形である。
衲衣
(のうえ)
肩から身体まで巻いた布、法衣とも大衣ともいう。両肩までおおうものと左肩からかけた端が少し右肩にもかかっているものとがある。
蛭巻き
(ひるまき)
薙刀、斧などの柄や刀の鞘などを籐や皮、板金などで斜めに巻くこと。
仏画
(ぶつが)
装飾用としての荘厳画と礼拝用としての絵像とがある。木造の厨子、光背、台座、板扉、板壁、天井などに描かれているものは前者の例である。後者は天台、真言両宗が信仰の対象として盛んに使った両界曼荼羅や五大明王図のような密教画(みっきょうが)や浄土教の興隆とともに描かれた弥陀来迎図や阿弥陀仏その他諸尊の像である。これらの画はみな一様な細線で描かれているが鎌倉以降、水墨画の流行とともに筆法も抑揚肥瘠を生じ室町以降のものはその多くが鑑賞画になってしまった。
仏像
(ぶつぞう)
正しくは仏の像。つまり仏陀の像であるが、一般的にも仏教の諸尊像を含めた彫刻を仏像といい、如来像・菩薩像・明王像・天部像の四部に大別されるが祖師像のようなこれ以外のものも含まれている。
宝髻
(ほうけい)
菩薩・天部などの髪。結んだ髪の形から単髻・双髻・焔髪とか、結ばないで垂れた垂髪などがある。
菩薩
(ぼさつ)
やがては仏陀となる前の段階にある諸尊でその姿はインドの王侯、貴族にもとづくものである。釈迦如来の脇待、日光菩薩、月光菩薩などが主なものである。独尊としても崇められる観音像は、さらに聖(しょう)如意輪(にょいりん)不空羂索(ふくうけんじゃく)千手(せんじゅ)十一面、馬頭などがある。この他、弥勒菩薩(みろくぼさつ)・地蔵菩薩・虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)なども知られている。これらの諸尊は多く天衣、条帛をまとい裳をつけ、髪は結び、宝冠や瓔珞(ようらく)釧(くしろ)などをつけて身を飾っている。
飜波式衣文
(ほんぱしきえもん)
衣のひだの断面が丁度、波の飜っているように丸みをもった大波とややとがった小波とが交互になっている様子で平安時代初期の一木造に多く見られる。
梵鐘
(ぼんしょう)
寺の鐘で一般的に釣鐘という。和鐘、朝鮮鐘、南蛮鐘などがあるがここでは和鐘についてその特色を述べてみる。上端の竜頭(りゅうず)これは竜の一種で蒲牢という獣が左右に口を下に開けている図様を釣手にしたものである。これが完全に左右対称になるのは平安中期からである。その方向も前の撞座(つきざ)をつなぐ直線と直角になっているが平安末期からは同じ方向に変わった。その下を笠形(かさがた)という。鎌倉時代以降の笠形は起(むくり)が大きいのを特色とする。その下の紐以下を鐘身(しょうしん)という。鐘身の上部、乳のような突起の多くある所を乳の間(ちのま)という。乳(ち)は装飾を兼ね音響効果を大きくする働きをする。その数と配列は鎌倉時代からはほぼ定型化し64個44列のものが最も多く室町時代まで続くが江戸時代には形状も複雑となり、百八煩悩に擬えた108個のものが普及した。池の間には銘分を刻む。撞座(つきざ)は普通前後にある。
曼荼羅
(まんだら)
中心・輪円または集団を意味する梵語。これから転じて輪円状に多くの像を図式化した絵を曼荼羅という。真言密教では金剛頂経と大日経にもとづいて大日如来を中心にその眷属を四周に並べた金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の両界曼荼羅がよく描かれる。
明王
(みょうおう)
天台、真言などの密教では如来が衆生を済度する際に、或いはやさしい菩薩のすがたで表われ、或いは猛々しい忿怒の相で表れると説く。五大明王は不動明王を中心に降三世(ごうざんぜ)、軍荼利(ぐんだり)、大威徳(だいいとく)、金剛夜叉(こんごうやしゃ)の四明王を東南西北におくものである。この他愛染明王(あいぜんみょうおう)なども有名である。
木像
(もくぞう)
飛鳥、白鳳時代は樟、奈良時代以降は檜を似て主要部は一木(いちぼく)で彫られた。平安時代定朝(じょうちょう)によって寄木造(よせぎづくり)が考案されてから、少なくとも頭と胴とは別の木で造るようになった。また、仕事も分業により能率的になり、複雑な表現でも安易に表せるようになった。さらに、内部をきちんと刳り抜くことによって従来のひび割れの憂いを防ぐことができるようになった。しかし、一方では形式化され個性の乏しいものとなってしまった。この傾向は室町、江戸となるとますますひどく全く魅力のないものになってしまった。そこで江戸の初期の円空や明治の高村光雲らは再び一木によって独自の境地をひらくにいたるのである。また、白壇、せん壇などの香りのある堅い木で彫る壇像(だんぞう)も平安朝頃からみられるが念持仏のような小像を主にしている。
大和絵
(やまとえ)
昔は倭絵とも書いた。唐絵に対してわが国特有の絵をいう。平安中期から鎌倉にかけた絵巻物はほとんどこれで、この中心となったのは土佐派である。題材は年中行事や風景・風俗画などを主にしたのが多く、濃彩を用い松は傘蓋(さんがい)、顔は引目鉤鼻(かぎ)、建物は吹抜屋台とし、不用の部分をかくしたり画面の転換には霞(かすみ)をつかうなどがその特色である。
螺髪
(らほつ)
一筋、一筋巻いた髪の毛、仏の頭部にみられる。三十二相の一つ。
臘色塗
(ろいろぬり)
漆工芸の塗りの技法の一つ。油分を含まない臘色漆を塗り、木炭でみがき、種油と角粉をつけてみがき光沢を出す。
和鏡
(わきょう)
鏡は照像の具から転じ御神体・副葬品・経塚理蔵などにも多くみられ、上古の漢鏡と奈良時代の唐式鏡、平安朝以降の和鏡に分ける。漢鏡は円鏡を主とし、唐式鏡は円鏡、八弁鏡を主とし共に金工として手のこんだものが多い。もっとも、わが国でも上代から漢鏡や和鏡にまねた鏡も作られており、中には鈴鏡のようなわが国独得のものも見られる。和鏡は、ほとんど簡単な鋳出しを主とし、まれに毛彫りのものもある。形からいえば円鏡を主とし八稜・八花などの八弁鏡や方鏡もみられる。室町末期からは一般に柄鏡が普及する。鏡の姿を写す面は、鏡面というが、その裏つまり鏡背にもいろいろの文様があり、これは時代によって大きな異同がある。鏡背の中央紐(ひも)を通すところを紐(ちゅう)といいその周辺を紐座、これをかこむ部分を内区、さらにその周辺が外区と縁になる。和鏡の紐座は時代判定に最も重要である。奈良から平安時代にかけた紐座には蓮華座が多い。平安時代から室町時代にかけては菊座が多く後になるほど繊細となる。なお平安初期の菊には捩り(ねじ)形のものもみられる。鎌倉時代には亀甲座(きっこう)が現われ、室町となるとこの甲に草花を毛塗りするようになり、江戸時代には、のこ亀座(かめ)にさらに鶴(つる)をそなえるようになった。平安朝の和鏡は、一般に薄手となり、文様においては優雅な純日本風式花鳥文を表したものが多くなった。鎌倉時代は、その極盛期といえる。室町時代には、同心円状の帯圏(けん)を多くしたり、歌絵を描いたものもあらわれた。桃山から江戸となると文様は写実的でも余情の乏しい卑俗なものとなり、ときに天下一の銘をつけたり、家紋を表したものも造られた。
鰐口
(わにぐち)
金鼓・打金などともいうが一般に耳まで口が裂けた形から鰐口という。寺社の軒先にかけ緒(お)で打って鳴らすもので、青銅製を主とし鉄製もある。鎌倉より室町初期までのものは偏平であるが、その後のものは次第に膨らみをもってくる。特に元禄以降のものは甚だしい。上部には2個の釣手(つりて)があり鎖やひもで釣ってある。両側面にある突起を耳または目という。鎌倉時代までのものは目立たないほど小さいが室町以降次第に大きく突出してくる。耳より下、両面は空いており口がある。中央に撞座がある。布縄をなった緒でたたく部分で多くは連弁の文様が陽刻されている。これを中心に同心円状になった紐帯(ちゅうたい)によって順次縁にむかって内区・外区・銘帯などに分ける。銘帯にはよく銘文が刻まれるがこの銘文は偽銘が多いので注意を要する。例えば鎌倉時代は公式的なものには源朝臣とか藤原といったような氏は書いたが苗字つまり新田とか曽我とかいうようなものは使わなかった。年月を記す場合、室町以前と元禄以後のものには年号と年次の後に干支を記すのが例であったが慶長以後元禄までのものは干支を中に挟むのが通例となっていた。もっとも、これは金石文に限らず古文書などの場合でも同様である。
<外部リンク>