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土岐成頼墓[ときなりよりのはか]

■分類 史跡
■指定別
■所在地 岐阜市寺町
■所有者 瑞龍寺
■指定年月日 昭和47年3月17日
土岐成頼墓
 土岐成頼の墓は、瑞龍寺本堂の西側山麓にある。家臣であった斎藤妙椿の墓と並んでいる。墓は2.7m四方、高さ1.1mの石垣で囲まれ、墓石はなくわずかに60cmの土盛りがある。
土岐成頼は、康正2年(1456)15才で家督を相続し、左京大夫美濃守に叙せられた。
応仁元年(1467)山名・細川両党が争い、京都の治安が乱れると、成頼は西軍山名宗全に従い9月に兵8千余を率いて上洛した。この応仁の乱において、成頼は西軍の重臣として活躍した。
文明5年(1473)山名宗全と細川勝元が死去し、文明9年(1477)に応仁の乱が終息すると、成頼も帰国した。その後明応4年(1495)土岐氏も継嗣問題から、船田合戦が起こり、成頼は守護代斎藤妙純らに敗れ、剃髪して宗安と称し、方県郡城田館に隠居した。翌年4月3日、56才で没し、瑞龍寺に葬られた。法名は瑞龍寺殿国文宗安である。