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岐阜県の都市公園の沿革

 我が国で初めて公園制度が設けられたのは明治6年(1873年)で、同年1月15日に次のような太政官布告第16号が府県に布達され、公園地選定に関する手続きが命じられました。この布告に基づいて、東京府においては、浅草公園、上野公園等、社寺境内地が公園として指定され都市公園の始まりとなりました。

 本県でも、太政官布告により明治6年、高山市に高山城跡を一体とした城山公園ならびに大垣市に大垣城を中心とした大垣公園がはじめて公園として開園することになりました。つぎに、孝子の伝説で名高い養老の滝を中心とした養老公園が明治13年偕楽社の経営管理により開園しました。明治15年には、多くの歴史を物語る岐阜公園が、明治40年には、飛騨高山城主金森長近(かなもりながちか)の築城した小倉山城の城跡の払い下げをうけ、長岡博士の設計で築園された美濃市の小倉公園が開園しました。

 以上明治年間には5箇所の公園が開園しましたが、これらはすべて、従来から庶民の遊園場所ですでに公園的に利用されていたり、公園として直ちに役立つような社寺の境内、名所、旧跡といったものに公園の名称を与えたに過ぎないものでした。

 その後、大正年間および戦前には、昭和16年の岐阜県総合運動場のほか、岐阜市の7箇所の小公園だけで、見るべき事業は少なかったのです。

 最初から公園として計画し整理するようになったのは戦後で、岐阜・大垣の両市が、市内の大半を消失したため戦災都市復興計画の一環として戦災復興土地区画整理事業の実施によって市街地内に多くの公園が造成されるようになりました。また、市街地の発展に伴って面的整備事業としての土地区画整理事業が各都市で盛んになり、その施工面積の3%以上を公園として確保することにより、公園整備がいっそう促進されました。

 さらに、建設省において、昭和47年度から都市公園整備の最初の長期計画である都市公園等整備五箇年計画が発足し、これによって県下でも昭和50年度までの4箇年で事業費約49億円を投じて137箇所、約170haの都市公園が整備され、昭和46年度末の都市計画区域内人口1人当たりの公園面積は2.52m2から3.45m2へと急速に増加しました。その後、昭和51年から昭和55年度までの第二次、昭和56年度から昭和60年度までの第三次、昭和61年度から平成2年度までの第四次、平成3年から平成7年までの第五次と4回の都市公園等整備五箇年計画では、総事業費1,551億円を投じて660箇所、約635.2haの都市公園が整備され、平成7年度末の都市計画区域内の人口1人当たりの公園面積は、3.45m2から6.24m2へと増加しました。

 平成14年度末の都市計画区域人口1人当たり公園面積(全国)9.5m2を目標に整備を進めてきた平成8年度から平成14年度までの第六次都市公園等整備七箇年計画では、県内の都市計画区域内の人口1人当たりの公園面積は7.85m2となりました。平成15年からは、社会資本整備を重点的、効果的かつ効率的に推進するため従来の事業分野別の五箇年計画を一本化し策定された「社会資本整備重点計画」により、緑地保全地区の指定等民有緑地の保全及び緑化施策などとともに、都市の防災性の向上、地球環境問題等への対応、豊かな地域づくりと少子高齢化社会への対応に重点をおいて、都市公園の整備を進めていきます。

 都市部においては急激な人口増加と産業集中によって、市街地の過密化や郊外の無秩序な開発が進み、都市内の緑とオープンスペースは著しく減少し、また、あらゆる公害や多種多様な都市問題が絡み合って、日増しに都市生活環境が悪化し、私たちの生活に大きな影響を与えるようになっています。

これに対処するために都市公園の使命はますます重要視され、21世紀を目指した新しい時代におけるアメニティあふれる豊かな街づくりを推進するためにも、公園の整備については、今後一層の努力が必要です。