ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

青木久太郎家文書目録2発行

『青木久太郎家文書目録(2)』を刊行

▲平成24年12月に、岐阜県所在史料目録第59集『青木久太郎家文書目録(2)』を刊行しました。同家文書については、昭和57年3月に岐阜県所在史料目録第10集『厚見郡佐波村青木久太郎家文書目録』として刊行しており、今回はそれに続くものです。

今回発刊した『青木久太郎家文書目録(2)』下佐波村内検地水帳青木久衛肖像
発刊した『青木久太郎家文書目録(2)』宝暦四年加納領美濃国下佐波村内検地水帳青木久衛肖像

▲青木家は、元文5年(1740)5月25日に源兵衛が厚見郡下佐波村(現岐阜市柳津町下佐波)の庄屋に任命されて以来、庄屋を務めてきました。ただし、この源兵衛家は久太郎家の本家筋に当たる家と思われ、久太郎家が庄屋を務めるようになったのは天保5(1834)年3月からのことです。以後、幕末まで庄屋を務め、明治になってからは戸長を務めています。また、大正から昭和初期に活躍した実業家の原三渓(青木富太郎)は青木家当主であった青木久衛の長男です。

▲今回の史料の特徴は、下佐波村の石高や年貢、人口、村政の様子などを記す基本的な史料が多年にわたって残っていることです。「物成割付」は元文4年(1739)11月から明治15年(1882)3月までの間の71年分、「宗門改人別帳・総人数目録」は明和4年(1767)3月から慶応4(1868)年3月までの間の46年分、「宗門改帳」は文化4年(1807)3月から慶応3年(1867)3月までの間の44年分といった具合で、「物成勘定帳」や「田畑高揃帳」なども20年以上にわたって残っています。さらに、「宗門送り手形」などは、享保19(1734)年2月6日以降307通も残っていて、婚姻を中心とした下佐波村の人の動きを知ることができます。

▲また、領主であった加納藩主が領内を巡回した時の様子や、下佐波村の頭分制の様子、桟留縞の生産や販売の様子、飢饉時における困窮者の救助の様子、明治初期の日雇や職人の賃銀の様子などを記録した史料も残っていて、江戸から明治に至る時代の下佐波村の動きを知ることもできます。

▲なかでも、江戸時代末から明治時代にかけて青木家の当主であった久兵衛・久衛父子が遺した日記は貴重で、慶応3(1867)年8月15日から明治30(1897)年12月31日までの30年間にわたる日々の記録が残されています。当時の青木家の様子や村の様子、社会の大きな動きなどを知る上で極めて貴重な史料です。

 今回刊行した本目録は、主な公共図書館・資料館等でご覧いただけます。また、岐阜県歴史資料館ホームページの「資料目録」及び「資料検索」でもご覧いただくことができます。みなさま方の積極的なご活用を願っております。

戻る