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災害体験談8

9月12日豪雨災害(1976年/昭和51年)

北方町在住63歳男性(当時北方町消防団団長)、北方町在住57歳男性(当時北方町消防団団員)

北方には水防団がなく、災害時は消防団がすべてを行った。団員は50人。長良川が増水すると糸貫川、天王川が増水し、特にゲートが閉まると一気に増える。

9月10日に役場の西に長谷川があり、あふれ出した。町長が命令し、招集した。役場に集合したが、長谷川ではあふれていたので、両岸で土砂の取り合い、左岸を積めば右岸があふれ、右岸を積めば左岸があふれと言う形であったのでしばらく待機と言うことになった。

待機中、糸貫川と長谷川の合流点でもあふれており、自分の地元であったので、土嚢袋(当時は南京袋)を持って、業者に土砂を持ってこさせ、自治会長に話をし、左岸に土嚢を積んだ。右岸は何もなかったのであふれても大丈夫であった。

9月11日に高屋の地域の消防団班長が町営住宅の住人40〜50人が(株)シンガポールの女子寮に避難している。ということで見に行った。すでに腰まで水がきていた。何とかしなあかんと言うことで消防団長に言ったが、町から指示がないのでそのままの状態。「やるせがない」と感じた。高屋に木造の舟があり、何十年前に使った舟で屋根裏につってあるものやということで、穴が空いていた。浸水のため道路も水路もわからない状態であり、そうこうしていたら夕方、団長から町民センターへ避難させよという指示がきた。借りた舟には水が入り使い物にならんと言うことであったが、ビニールのシートで包めということで、舟を包み、人を乗せ、ただ、舟を漕ぐことができなかったので引いていった。引いたり、押したりしてきて縦貫道まで来た。そこから町のバスで町民センターまで行った。

町の中も側溝があふれ側溝蓋を立てて住民は家への浸水を防いでいた。

また自動車が行き来すると波ができて家が壊れてしまうということで、明くる日には高屋の北の方で道路通行止めをかけ、真正町へ廻ってくれと言うよう車を誘導した。

結局それほどやることもなかったので団員も自分の地域へ戻って活動していた。

避難は丸の内の町営住宅の住人だけであり、他の者は自宅にいた。

高屋はもともと糸貫川が切れたこともあり、屋敷が高く作ってある。だから水が家まではつかない。高屋の東の地域は米を2階へ上げていたと言う。

消防団員の中には、自分の家に水がつきかけているというのに消防団の仕事をしていたものもいた。

巣南から応援要請もあった。しかし、行ったら帰ってこれんぞということで結局は行かなかった。また、町長から応援要請があったわけではないから待機していた。