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災害体験談5

9月12日豪雨災害(1976年/昭和51年)

安八町在住男性(当時安八町消防団員)

Q:体験されたときは何をされていましたか

土嚢積み、杭打ちなど堤防での水防活動に従事。堤防決壊の4日ほど前から長良川、揖斐川の堤防の危険箇所において、水防活動を行っており、堤防決壊時まで三日三晩ほとんど不眠不休で活動していた。9月12日早朝、見張っていた消防団員から堤防小段に40〜50mの亀裂があるとの通報を受け、危険な状況であると判断して、付近の3区の住民等にスコップを持って集合するよう依頼し、堤防強化のための前準備として周辺の草刈り等を行っていた。堤防小段にできた亀裂が拡大し、当初2cmであった亀裂幅が10cm、20cmと大きくなっていった。堤防道路を通行止めにし、杭打ち、土嚢積み等の堤防の補強を始めたところ、当初は固かった杭が簡単に入るようになり、また、まっすぐに杭が入らなくなり、堤防が弱くなってきているのを感じた。堤防が地滑りではなく土が流出し地盤沈下するようになり、植物の根が引っ張られて切れる音がした。初めて聞く音であった。決壊地点の近くには、池があり大型ゴミを捨てる場所になっていた。トタン板で壁をつくってあったが、浸水した為か、トタン板の壁が倒れてしまった。池では浸水のせいか、ごぼごぼと水がわき出しているような状況になっていた。亀裂付近では、浸水のため地盤がやわらかくなり、足が埋もれてしまうほどであった。堤防は大きく横揺れし、地震のような震動を伴って決壊した。5〜6mの高さ、30mほどの幅で堤防が決壊した。決壊時は堤防周辺に120〜130名の消防団員等が水防活動を行っていたが、河川の水量がピーク時より減少しつつあるのを見ていた。堤防の決壊には数名が巻き込まれはしたが、決壊が昼間であったこともあり、1名の犠牲者だけで救助することができた。

Q:災害が発生したとき何をしましたか(災害を受けて取った行動)

堤防決壊は寸前まで予想していなかったため、決壊時はみんな四方八方へ避難した。各自、自宅に戻り家財を二階へあげたり、自家用車で安全な場所へ避難したりした。自分は住民の避難状況を確認したり、堤防決壊、避難等の広報活動を行い、とりあえず自宅に避難した後、農協の方へ避難した。水防活動をしていた住民はすべて避難したが、堤防決壊を十分予測していなかったこともあり、決壊後は応急処置もできず、避難することで精一杯であった。決壊時はサイレンを鳴らして避難を呼びかけたが、住民の中には単に火事かと思った人もいた。当時は無線、携帯電話等もなく、広報車を出して呼びかけたが、十分ではなかった。

Q:災害が発生した時の周りの様子はどうでしたか

乳牛、鶏、豚等の家畜が溺死し、死臭がして大変であったし、汲み取り便所が溢れだし非常に不衛生であった。家畜や犬、猫等は水を避け、高台の方へ逃げていたが、その対応にも苦慮した。材木屋があり、資材が流木化して民家を壊してしまうこともあり、材木をつなぎ止めておく等の対応が必要である。プロパンガスのボンベもあちらこちらから流出し、ガスを放出しつつ流れていくのが何本もあり、非常に危険であった。

Q:災害で最も記憶に残っていることはなんですか

トイレが最も困った。避難民が自宅に取り残されることも多く、バラバラに自宅にいるため、食料等の配給が困難となった。災害の直接的犠牲者は奇跡的に1名であったが、災害による被害(ビニールハウス等の全壊、農機具の故障、工場設備の壊滅的被害等)で心労が重なり、病気になったり、金銭的に困窮する人も多かった。

Q:元の生活にもどるまでにどれくらい期間がかかりましたか

数日で水はひいたが、浸水した畳、家財の処理など後処理が非常に大変で、通常の生活に戻るまでには2〜3年かかった。全国から消防、行政、企業、宗教の関係で様々な人が後処理の協力に来てくれた。今のようにボランティア団体等がしっかりしていない時代であったが、相当数の方が協力してくれて大変感謝している。人も協力以外にも沢山の支援物資が届いた。感謝しているが、生ものも多く、おにぎりのようなものは、ある日は足りないが、ある日は大量に余るなど、調整ができず、また、平等な分配も難しいことであり、支援物資への対応は難しかった。救援物資の盗難もあり、困ったこともあった。

Q:元の生活に戻るまでに苦労したことはありますか

金銭的な蓄えが重要であり、蓄えがない方は大変だったと思う。マスコミも被災地の現状を伝える使命があるのは十分理解しているが、同じような質問を何度もしたり、悲惨な現状を見ても当然何も手伝ったりはできないので、住民の中には憤りを感じる人もいた。住民感情に配慮したマスコミの対応が必要である。

Q:災害を体験されて教訓として残っていることはなんですか

当時はお米を二階へ上げるようなことや、畳を積んで、仏壇をあげるようなことをした家も多かったが、冷静に考えれば、一番高価である電化製品等を二階へ上げるべきであった。緊急時は冷静な判断ができなくなる可能性がある。災害は必ず発生するものと考え、日頃から金銭的な蓄えはもちろん、避難方法や避難場所の確認、防災訓練、自宅の耐震、防災グッズの準備等、災害に対する心構えが重要である。先人からは「百年に一度は必ず水害がある」と言われていたが、まさにそのとおりであり、役所任せでなく自分の身は自分で守る、地域は地域で守るという心構えが必要。地域で協力して助け合うことが重要であり、日頃からのコミュニケーションが大切。大きな河川の流域に住んでいることを自覚し、水害は必ず発生するものと認識し、水防・防災訓練へ参加し、地域での訓練を率先して行い、参加率を向上させていくことが必要。

Q:災害を体験された以降、実践されていること(防災対策でも生き方とかでも可)はありますか

万が一のときも被害を最小限とするべく、日頃からの心構えや教訓を子供達に伝えている。水害にしろ地震にしろ、災害は必ず起こるという認識を持って、台所の火の元の確認や防災資材の準備等をしている。集落ごとに防災訓練を実施している。

Q:昭和の東南海(S19)南海(S21)の記憶はありますか。

東南海地震の記憶はあるが、当時は小さかったので鮮明な記憶はない。

Q:それはどのような記憶ですか。

近所で家屋が倒壊していたことは記憶があるが、沢山の人が亡くなったというような悲惨な記憶はほとんどない。戦時中であり、十分な情報公開がなされていなかったということもあるかもしれない。

Q:最後に災害体験者として、後世に残したいことはなんですか。

「百年に一度は必ず水害がある」ということを心に生活を送ること。河川流域に住む者の宿命として水害や地震を受け入れ、いつ発生しても対応できる心構えを持つべきである。