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災害体験談4

9月12日豪雨災害(1976年/昭和51年)

羽島市在住74歳男性(当時羽島市水防団竹鼻分団長)

川の水の際に来て顔を水面近くにして見ると、川の真ん中が「ぼこー」と高く、向こうの堤防が見えないときは1mや1m50位まで水が出るということを覚えとけと言われていた。また、堤防のガマが吹くものは、どういう色をしているか確認する。濁っている水は危ない。

長良川より木曽川が低いときがある。しかし、木曽川は奥が深いから少し経つと川の水も増える。もし木曽川が切れたら、長良、揖斐がダメになり、養老にぶつける事になる。
だから木曽川をやしんだらあかんぞと言われた。

当時はヒラを卒業して分団長になって、5、6年たっていた。分団長の中で真ん中へんくらいやった。4日前から雨がたくさん降って、分団長以上は市役所から連絡があり、堤防へ行き、30分くらいに1回川を見た。

団長として「おまえら3人で行け」、「4人で行け」、「長良へ行け」と言って、帰ってきたら、また、他の者に「おまえら行け」、と絶えず指示した。一宮線は30cm位水深があり、市役所へ行って、4日帰れんかった。大須の駅まで廻ったとき住人に「上から水が流れとるで警戒せなあかん、準備せなあかん」と言ったら、「とれくせえこといっとるな」と言われて、その後30分位したら、床上やった。おそろしかった。

境川であふれた時、道路の肩から5cmまで水がきた。200m土嚢を積まにゃいかん、大変なこと。「土建屋のダンプをすぐ出動や」といって役所から頼んでもらった。袋2000俵もって来いって言われ、あっちこっち寄せてライトバンにいっぱい乗せた。地域総出と団員全員で見事に早く作った。見事やった。上手やった。

新幹線の橋のところで水面が桁まで1mしかなかった。汽車(新幹線)が通ると堤防が揺れたことを市役所も警察も知らなかった。堤防が切れたら、大変やということで東京に電話した。「新幹線を止めや」と言ったら、「そんな馬鹿な」と言ったので、「新幹線がぶちおってまうぞ」と言って止めてもらった。おかげで堤防が収まった。水圧がかかると堤防は弱い。あれで良かったんや。羽島も福寿の堤防が50mずった。杭を打って土嚢を積んだ。まけめえと思った。羽島市は303人各分団30人、地域で前水防やった人や経験者がいて総出で作業をした。その数時間後に安八は切れた。

災害の時は泥棒が多い。すぐ泥棒が増える。みんな堤防へ逃げるから家に誰もいない。お手伝いの格好して泥棒に入るんや、災害には付き物や、そういうこともおぼえとかなあかん。

南の排水機を絶えずまわし続けており、見に行ったときは係の人には絶対しゃべるなと言われた。顔を見ても「ごくろうさん」とも言うなと言われた。真剣屋で。日本人は必死、率先してやる。それが日本人や。

水防には10の工法がある。土嚢を積んだり、屏風返しをしたり。1年に1つずつ、毎年稽古をする。団長、分団長はきてくれといわれた。各分団をまわって講習をしとった。

覚えようとする人間には教えて、30数年やっとる人はおらへん。

ヒラ10年、分団長10年、副団長10年、団長8年やって、もう一年やったら退職金がもらえた。でもわしは国のため、郷土のためやと教えてもらって、努めたけど、東京まで行って表彰もらったでいいけど。

今は後任ができん、いろいろ相談にくるで話をしてあげたりしとる。
羽島はなんじゃといわれんようにしなあかん。みんな協力してやらなあかん。笑ってすすまなあかん。いいことは誉め、あかんことはあかんて言わなあかん。手にとっておしえなあかん。