ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

建造物用語

板唐戸
(いたからと)
普通2・3枚の板並べ上下に端喰(はしばみ)をあててある。大きな戸には裏に桟(さん)をうったもの、両面板張りの中は框(かまち)の枠入りというものがある。平安時代には定規縁(じょうぎぶち)ができ扉の合わせ目が体裁よくなった。扉金具には饅頭型(まんじゅうがた)や、出八双が早くから用いられているが鎌倉時代から入八双(いりはっそう)や隅に使う散八双(ちらしはっそう)が多くなる。
蟇股
(かえるまた)
虹梁(こうりょう)の上や組物の間におき、上の材を支えるとともに装飾をも兼ねるもの。多くは上に斗(ます)をのせ蟇(かえる)の股(また)に似ているのでこの名がある。奈良時代のものは低くて厚い板蟇股であるが、平安時代には背がのび薄くなる。肩は上って巻き込みができ斗との間に目が出きてくる。鎌倉、室町となると円鏡寺楼門にみられるような肩の曲線が複雑なものや、蛾(が)のひげのような耳もでき脚の先には次第に鍬型(くわがた)が発達し、(高山国分寺本堂)これが後にはますます複雑化してくる。平安末期から繰抜式蟇股(くりぬき)もできてくる。これは蟇股が装飾だけのものになったことを示す。この場合内側上部にある花頭型の刳り曲線は日竜峯寺多宝塔のようなゆったりしたものが次第に複雑になり、桃山期では肩の方が上がったものがある。脚内の彫刻は側面に刳り形ができ、やがて鎌倉期には蔓(つる)や若葉が相称的にでき中央に宝珠などを刳りだしてくるが(荒城神社)後になると相称がくずれ絵画的自由なものになった。(新長谷寺三重塔)。桃山時代には丸彫となり表裏異なる両面彫刻が多くなり、ついに輪郭外にはみ出すようになった(新長谷寺本堂向拝)。江戸時代にもなるとこの傾向はますます著しく。中には輪郭がなくなり中の彫刻だけのものもあらわれるようになった。
花頭窓
(かとうまど)
上部の輪郭が花頭曲線(玉葱形(たまねぎ))になった窓では鎌倉時代から唐様建築にみられ、桃山頃からは住宅建築にも用いられるようになった。火灯窓とも書く。鎌倉時代の花頭曲線は緩勾配で脚部は垂直になっているけれど室町になると、なで肩になり脚部はわずかに開きとてもいい形をしているが(明鏡寺観音堂)、桃山になるとぐっと尖ってきて脚部も開いてくる。
合掌造り
(がっしょうづくり)
脚部を尖らせた叉首(さす)(合掌)を上屋梁(じょうやばり、サスフマセともいう)の両端にえぐられた柄穴(ほぞ)に突っこみ、これを合掌に組み、その交差点上には棟木(むなぎ)を、途中にはモヤゲタや三階梁、四階梁となるカイナギなどがそれぞれ結びつけられ、さらにモヤゲタには垂木が、サスフマセやカイナギ上には根太を並べ簀(す)の子を敷いて二層、三層、四層とした。それで二階以上には柱や束はいらないわけである。また叉首は更に斜めに走る筋違い(すじかい)によってかたくしばられているので前後は勿論、左右にぶれることもない。なおこれらの結合には従来のネソという粘り気の強い木や、シナの木の皮をよった縄を使い、釘、かすがいなどは使わなかった。平地に乏しい雪国であり、養蚕のためにできるだけ蚕室を広く設けたいという要求がこういう素晴らしい構造を生んだものであろう。
丸桁
(がぎょう・がんぎょう)
組物の最後の手先の上にあって、垂木をうけ屋根の軒(のき)を支える横材。古くは断面が丸かったが、後のものは角材が多い。
基壇
(きだん)
建物の基礎を高くした壇、古くは切石で造ったが後には簡略にし、石垣積(いしがきづみ)となりさらにただ自然石をつみあげた乱石積が普通になった。土台が高く回りの縁束の位置が低い場合、内部の基壇を白漆喰(しつくい)でかため饅頭形に盛り上げたのは亀腹(かめばら)という、多宝塔では下層屋根の上に上層をうけている同形のものがある。
木鼻
(きばな)
頭貫(かしらぬき)や虹梁が柱から突き出た部分に繰り形をつけたもの。鎌倉以降唐様(からよう)や天竺様の普及とともに和様にも用いられるようになった。唐様では一般に渦巻文を繰ったものが多く、これを拳鼻(こぶしばな)ともいう、この繰り形は鎌倉期のものは簡単だが室町になると完全な渦巻となり、或いは若葉を巻いたもの、その他絵様彫刻が多くなってくる。天竺様では下端をぐっと出し上に繰り形をつけた簡単なものから次第に深い刳りこみをもつようになり、桃山時代になると丸彫りの動植物にまで発展し、江戸時代にはさらに精巧な籠彫(かごぼり)になった。
切目縁
(きりめえん)
すべて板の木口(こぐち)がみえるように張った縁、木口縁ともいう。これに対し建物と平行にはるものを榑縁(くれえん)という。
組物
(くみもの)
また斗(ときょう)斗組(ますぐみ)ともいう、柱の上にあって軒などを支えるもので斗(ます)と肘木(ひじき)よりなる。肘木だけおいたのを船肘木(ふなひじき)といい、和様にみられる。一つの大きな斗と、一つの肘木よりなるのを舟肘木よりなるのを大斗肘木(たいとひじき)大斗肘木の上に小さな斗(巻斗)を三つ並べたのを三斗(みつと)、大斗の上の肘木(秤肘木(はかりひじき))と直交する肘木(枠肘木(わくひじき))を前に出しこれに斗をのせたのを出三斗(でみつと)これから更に一組の三斗を出して丸桁をうけたものを出組(でぐみ)(一手先)それから更に一組の三斗がでておれば二手先(ふたてさき)また出れば三手先(みてさき)となる。和様の肘木は下端がゆるやかな弧となり、その端、木口は垂直となる。唐様は端が円弧をなし上の斗に移る。和様の組物は柱の上にだけ組んだ亜麻組(あまぐみ)とするが、唐様では柱の上の他に柱間にも設けられる、これを詰組(つめぐみ)という。天竺様では柱に肘木を挿し、斗をのせ、またその上により長い挿肘木(さしひじき)に斗をのせ前へ前へと上方に拡がって和様や唐様のように三方に拡がることがない。これでは横にぶれることになるので通肘木(とおりひじき)をもって繁ぐ。組物から前方斜下へ突出している木を尾垂木(おたるき)という、和様のは古くはまっすぐにのびているが、奈良後期のものには反ったものもある。唐様尾垂木は上側に鎬(しのぎ)をつけた曲線状にしてその鼻(先端)は内側に向って斜めに切ってある。
間斗束
(けんとつか)
斗をのせた束(つか)を組物の間に中備えとしたもので和様では一般的なやり方、斗の丈は後になるほど低くなる。平安後期からは蟇股がこれにとって代わる例が多くなる。鎌倉時代になると束の裾(すそ)が広くなりだし、この末期頃から束の上部に簑(みの)をつけたような形のものができた、これを簑束(みのつか)という。また束の裾への開きは桃山頃からはカーブをなし溌形(ばち)になったものもある。
懸魚
(げぎょ)
破風(はふ)の拝みなどにつるす飾り。上部中央には六葉(ろくよう)を飾る。下部にハート形の目を繰り抜いたのは猪目懸魚(いのめげぎょ)といい鎌倉時代のものはこればかりである。鎌倉末期のものには両翼に飾り、つまり鰭(ひれ)をつけたものもある。室町時代になるとこのほかに下の方にかぶらを思わせるような筋を刻み猪の目をはぶいたかぶら懸魚や猪目やかぶらを三方につけた三花懸魚(みつはなげぎょ)ができた。桃山時代にはかぶら懸魚や三花懸魚が多く使われ江戸時代に及んだ。江戸時代に末期のものには上部をぐっと広くしたり雲形にしたものなどがある。その他門などには簡単な切懸魚、梅鉢懸魚などもある。
下屋
(げや)
母屋にさしかけてつくった小屋根。また、その下の部分。
古社寺建築の様式
(こしゃじけんちくのようしき)
奈良、平安時代にわたる建築様式の和様(わよう)という。鎌倉時代禅宗の伝来とともにつたえられた建築様式を唐様(からよう)、または禅宗様という。なお鎌倉初期東大寺大仏殿が再建された。この様式を前二者と区別するために天竺様(てんじくよう)または大仏様という。しかし後にはこれら三様式の細部があちこち併用され何様とも呼びにくい折衷様(せっちゅうよう)もできた。しかし桃山以降はとくに和様と唐様とは全く混用されるようになった。なお江戸時代には黄檗様(おうばくよう)も伝来されたが影響は少ない。概していえば和様は他に比べ曲線の利用が少ないといえるが細部ではかなりの相違がある。例えば組物は詰組になってるかどうか、肘木の形や手法はどうちがうか、斗には特殊な皿斗がついてるかどうか。なお柱の形や粽(ちまき)の有無。基盤の有無。虹梁・束の形やアクセサリー。蟇股の有無。繁垂木か扇垂木か隅扇垂木か。支輪や天井の様式はどうか、床は石か板かそれとも瓦の四半敷か。窓は連子か花頭か円形か。板扉は板唐戸か桟唐戸かその他欄間(らんま)の様式から各部の繰り形の手法などである。
勾欄
(こうらん)
高欄とも書く、また欄干ともいう。古くは刎高欄(はねこうらん、また組勾欄ともいう)だけだったが平安末期には擬宝珠勾欄(ぎぼしゅこうらん)も現われた。その擬宝珠は背が低く頸(くび)が太くて胴の張っているのは古い、唐様では擬宝珠の代りに蓮を逆さにした形の逆蓮柱を使い、束頭を握り蓮とするなど様式がちがってくる。
虹梁
(こうりょう)
柱と柱との間にかけ渡した虹のように反った梁。古いものほど自然に反っているが平安時代からは両端の肩に丸みができはじめ材の中央部はほぼ水平、断面はふくらみをもった逆台形になった。鎌倉時代の唐様式では両端を斜めに繰って袖切(そできり)をつけ下側の側面を繰って眉(まゆ)とし下側中央線に沿って長い錫杖彫(しゃくじょうぼり)をつけた。この袖切や眉の簡単なものは和様の虹梁にもつくられるようになった。そして室町時代につづく。桃山時代には両肩の鯖尻(さばじり)が円弧になり眉は広く大きく、袖切は若葉の彫刻に変ってきた。これらのアクセサリーは江戸時代にはますます甚しくなる。虹梁のうち柱間二つにわたってかけたのを大虹梁、側柱などと結んだものを繋虹梁(つなぎこうりょう)という。唐様ではこのつなぎ梁がぐっと曲がっており、これを海老虹梁(えびこうりょう)という。
格狭間
(ごうざま)
台座や桟唐戸などにみられる花頭曲線の輪郭をもった装飾。
向拝
(ごはい・こうはい)
本堂や拝殿などの正面にはり出し、階段を覆っている部分。
酒屋ばやし
(さかやばやし)
酒屋の軒につるした杉葉のたば。新しい酒ができましたからどうぞよろしくという代わりに新しい杉葉を挿し加えることになっていた。東濃では酒玉ともいう。
桟唐戸
(さんからと)
唐様や天竺様に使う板扉。框にいくつかの桟をいれた板扉で上の間は連子や花狭間(はなざま)とし中の間や下の間には入子板(いれこ)をはめこんだものが多い。この軸は藁座(わらざ)にはめて開閉する。室町時代には桟を多くしてこれに多くの飾金具をうち下の間には格狭間を入れるようになった。桃山時代以降は和様にも用いられ入子板は彫刻でうめるようになった。(大船神社)
式台
(しきだい)
玄関先に設けた1段低い板敷き。客を送迎して礼をする所。
敷梁
(しきばり)
和小屋の建築で、小屋の梁間が広く建物が長大になる場合に、梁を支えるために、太い材木を使うこと。
下見板張
(したみいたばり)
家の外部をおおう横板張で、各板が少しずつ重なり合うように取り付けたもの。
地棟
(じむね)
合掌などを支えるため、棟木の下に平行においた材。
蔀戸
(しとみと)
普通のは半蔀(はじとみ)で柱間に上下二枚の格子戸をはめこんだもの。あける時は上をつり上げ、下は取りはずすようになっている。格子を表と裏に組板を中に張ってある。平安時代寝殿造りの外回りなどによく使われた。近世以降の町家にみる昼は上にあげ、夜おろす板戸(揚げ戸)も俗にしとみ戸という。
支輪
(しりん)
折上格天井の周囲だとか組物の丸桁と内側の通肘木との間にはめた蛇腹、和様建築によくみる。その裏板は支輪板といい、これは唐様にも使う。古いのは前かがみになっているが、時代が新しいほど鎌首(かまくび)を高く立てたような形になる。
須弥壇
(しゅみだん・すみだん)
仏像や厨子(ずし)を置く台、唐様の須弥壇は狭い胴部の上下に相対的な繰り形を突き出し、下端四隅には渦巻形の脚をつけ、縁回りには唐様の勾欄をおく。胴部にはおもに唐草(からくさ)・牡丹(ぼたん)などを彫るが永保寺観音堂のように無地のものもある。和様の須弥壇は広い胴部の羽目を格狭間か連子で飾り、和様の勾欄をおく、しかし後には折衷式のものもできてくる。
真壁造
(しんかべ)
和風木造建築において、壁を柱と柱の間に置き、柱が外部に現れるようにする建築様式。
せいがい造り 軒から肘木を出し丸桁をのせ大きな軒の出を支えているもの。いかにもがっちりとしていて体裁もよい。カシキ造りともいい飛騨ではガギョーともいう(丸桁そのもののほかこの構造全部を指す)雪国には多く見られる。
総二階
(そうにかい)
1階と2階の床面がほとんど等しく重なる二階建ての建物。
相輪
(そうりん)
おもに塔の棟につける、露盤(ろばん)、伏鉢(ふくばち)、請花(うけばな)、九輪(くりん)、水煙(すいえん)、竜車(りゅうしゃ)、宝珠(ほうじゅ)からなる。インドのストゥーパが原形でその巨大な伏鉢に仏舎利が埋蔵された。わが国のはガンダーラ式仏塔の流れをくむものであって、その基部を極端に高くしたものといえる。
礎盤
(そばん)
柱と礎石とのあいだにあるそろばん珠形や太鼓形をした木や石、唐様建設にみられる。
手挟
(たばさみ)
向拝柱の大斗と内側垂木の隙間をうめる繰り形、鎌倉時代以降の和様建築にみられ、木鼻や蟇股の手法様式と同じような変遷をたどる。唐様にも持送(もちおくり)のような手挟がある。
垂木
(たるき)
桁の上に渡し屋根を構成する材。使用場所により多くの種類がある。社寺などの軒は垂木を二重にする、これを二軒(ふたのき)という。平安時代頃から上も下も面取りの角材を使い、間隔を狭くした、これを二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)という。住宅風のものはその間隔を広くして疎垂木(まばらたるき)としたり二本ずつ寄せて吹寄垂木(ふきよせたるき)にしたものが多い。唐様では放射状に並べた扇垂木(おおぎたるき)が普通で、天竺様では隅だけを放射状にした隅扇垂木(すみおおぎたるき)を使った。

(ちまき)
唐様では円柱の上下を急に細めて円弧にする、これを粽という。和様の円柱には粽はなく、円筒形か上部を少し細めた程度のものである。天竺様の円柱も上部だけ次第に細めてある。
つし 家の屋根裏の物置場。
土庇
(つちびさし)
和風建築で、入り口や濡れ縁部分を覆うために設ける普通の庇よりも大型のもの。「捨て庇」とも言う。
妻飾り
(つまかざり)

入母屋(いりもや)、切妻屋根(きりづま)の側面を飾る様式。白壁か板張りだけのものから、門などにみられる虹梁の上に大板蟇股をおいた虹梁蟇股式、室町時代以降の和様住宅に多い狐格子式(きつねこうし)、その他次に掲げるものなどの他、桃山時代頃からは彫刻で一杯うめた彫刻充填式も多くなった。

  • 豕叉首式(いのこさすしき):叉首(さす)が左右から束を合掌形に支えているもで、古社寺に多くみる。
  • 二重虹梁蟇股式(にじゅうこうりょうかえるまたしき):大虹梁の上に蟇股を二つ並べ、その上に二重虹梁をかけ、この中央に蟇股をおくもので、妻飾の一般形。
  • 虹梁大瓶束式(こうりょうたいへいつかしき):大虹梁の上に瓶のような形をした大瓶束をたてたもの、唐様に用いられる。虹梁が二重になり大瓶束を立てれば二重虹梁大瓶束式になる。
天井 古くからみられるのは組入天井(くみいれてんじょう)でこれは格子形をした天井である。この格子の間隔をぐっと広くしたものを格天井(ごうてんじょう)といい、この周囲を折上げ支輪としたものを折上格天井(おりあげごうてんじょう)という。この格天井の格間を更に細かい組子で格子も組んである小組格天井(こぐみごうてんじょう)とこれを折上げた折上小組格天井とは鎌倉期のものに多い。しかし唐様では板を水平に張っただけの鏡天井が多く使われた。室町以降住宅では板を張りこれと垂直方向に細かい棹縁を当てた棹縁天井(さおぶちてんじょう)、棹縁の両面を大きくとり猿頬面にした猿頬天井(さるぼうてんじょう)、丈の低い縁の平縁天井(ひらぶちてんじょう)、民家の寝室などにみる根太天井(ねた)、大引天井板(おおびき)ではなく簀の子にした簀の子天井(すのこてんじょう)などいろいろある。また垂木の裏板張のむきだしになったのを化粧屋根裏(けしょうやねうら)という。
流造
(ながれづくり)
神社本殿の形式のひとつ。切妻造平入りの屋根に反りを付し、その前流れを長くして向拝としたもの。
塗籠
(ぬりごめ)
耐火のために外壁を土塗りした構造物。
鼠漆喰
(ねずみしつくい)
漆喰に灰墨を入れてねずみ色に着色したもの。
登梁
(のぼりばり)
屋根裏空間を広くするために、梁を斜めにかけること。
箱棟
(はこむね)
屋根の棟を板で箱形にしたもの、瓦で葺いたのは丸棟という。普通箱棟の両端は鬼瓦とし或いは両脇に鰭(ひれ)をつけ、上には獅子口(ししぐち)をつけたり或いは鳥衾(とりぶすま)をつけたりする。
鉢巻
(はちまき)
土蔵造において、防火を目的として、軒裏を粘土と漆喰で厚く塗り固めた部分。
花狭間
(はなざま)
花模様の透し彫りを斜めに並べたもの、唐様の桟唐戸などに使ってある。永保寺観音堂や開山堂の桟唐戸にその典型的なものをみる。
破風
(はふ)
日本建築で屋根の妻側部分に、山形に取り付けられた板と飾り部分を指す。
浜縁
(はまえん)
神社などの向拝の階段の下の床。浜床。
曳家
(ひきや)
家(建造物)を解体せずに水平移動させ、あらかじめ造っておいた基礎部分に移築する工事。
二軒繁垂木
(ふたのきしげたるき)
垂木を2段で組むもの。隙間を狭く並べたものを繁垂木と呼ぶ。
民家の間取り
(みんかのまどり)
民家の間取りは片側住居の整形間取り(せいけいまどり)が多い、間口の狭い家はミセ、オエ、台所、ザシキが表から裏へ一列に並ぶだけだが広い家になるとこれが二重、三重と横にいくつもの室がつくられれている。濃尾平野の民家は土間をぐっと広く取り、室の間仕切りは田の字形にした整形間取りが多い。美濃山間部から飛騨にかけては整形の一部の仕切りをとり広間にした整形広間形が多くなり、また喰違形(くいちがいがた)や広間形(ひろまがた)ときに古い原形間取(げんけいまどり)などがみられるようになる。飛騨の民家は土間が極めて狭いのが特色である。次に前後の仕切りを喰違わせ、室に広狭の差をつけて使いよくした大戸家についてのべてみよう。大戸を入ればマヤドジ、次で鍵の手に折れて高いくつぬぎを踏んでアガリタテに上る、ここに便所がある。次でまた曲折すればシャシになる。ここはオエやダイドコ或いは二階にも通ずる通路であり、ここから馬の面倒もみられるようになってもいる。オモヤはオエー或いはオイエとも呼ばれるように、家を代表する中心的な室であり、家族団らんの室でもあり、普通お客との対談はここですませるが大戸から入るのは家族か普通のお客だけで来賓はエンノマから直接デイや仏間に上ってもらう。これらの形式はわが国の古い山村によくみるところである。デイは家長の居室であり特別の来賓とはここで接する。デイとは平安時代寝殿造り(しんでんづくり)の一隅を仕切り明るい一室を設けてからできた言葉で、つねにここに出(いで)ているようになったのでイデイとよび、その後デイと呼ぶようになった。チョウダには主婦が寝た、この上に中二階があり、婦女子の寝室であった。なおシャシの上、ウスナガの上にも中二階があり男達の寝室であった。チョウダとは寝室造りではその中央部に絹の帳(とばり)をたれめぐらした帳台(ちょうだい)がおかれていて貴人はここを常居の場としベッドとした。寝室をチョウダイというのはこれからきており、白川村ではチョウダと言う。ここは板壁板戸で囲まれ用心もよく、物置にも適しているので物置をチョウダと言うことがあり清見村や上宝村にはこの例がある。ウスナガには臼がおかれ農作業の行われる室であり、ウスナヤ、ウスナワ、ウスニワ、或いは単にニワとも呼ぶ。ミンジャは水屋つまり炊事場でここだけ下屋となっている。
面取り柱
(めんとりばしら)
方柱につける切面は平安時代はほぼ五分の一、鎌倉七分の一、江戸十四分の一というように時代が新しいほど狭くなるので、その大小は時代判定に重要な目安となる。これは後ほど大材が得難くなったからであろう。
母屋
(もや)
また身舎とも書く、下屋、庇などを除いた建物の中心部。また垂木をうける棟と平行な材も母屋というが、身舎とまぎらわしいので、後者は普通母屋桁といって区別する。
裳階
(もこし)

また裳層とも書く、母屋につけ足した差掛けの部分。

屋根葺きの材料

・こけら葺:従来柿葺とかいたつくりは四画で柿(かき)とは字がちがう、薄く短い板を釘でとめたもの、釘を打ちこむ音からとんとん葺ともいう。長い板で葺いたものは榑葺(くれぶき)といい石でおさえる。

・檜皮葺(ひわだぶき):桧の皮で葺いたもの。

・本瓦葺(ほんかわらぶき):古来社寺に多く使った本格的な瓦屋根で平瓦と丸瓦とよりなる。この軒先におく瓦は文様によって唐草瓦とか巴瓦という。今も関西の民家に多くみる。

・桟瓦葺(さんかわらぶき):断面が波形の瓦で葺いたもの、今日最も広く普及している。

遣戸
(やりど)
引戸ともいう、古くは板戸、格子、或いは板の表に細かい桟を多く並べたまいらどなどのほか、紙では襖(ふすま)もあった。しかし平安朝ではこれを障子と呼んだ。今日のような障子は、室町時代書院造りに腰高明障子(あかりしょうじ)が使われだしてからのものである。
欄間
(らんま)
平安・室町頃までの内外陣の境、長押(なげし)の上などに多くみられるのは菱格子欄間(ひしこうしらんま)か、格子欄間でとくに密教寺院にこの例が多い。また唐様独得のものには波連子(なみれんこ、弓連子ともいう)があり、室町時代の住宅向には筬欄間(おさらんま)もできた。鎌倉末期から板に牡丹、唐草などを透し彫りにしたものも表われる、図様は蟇股のそれと同様左右対称的のものから絵画的なものに移り、ついに桃山期のすばらしい彫刻欄間に移ってゆく。
連子窓
(れんじまど)
法隆寺以来親しまれている窓で四角の連子子を稜が正面になるようにたて並べたもの。鎌倉以後は三角の連子子も多くなる。
藁座
(わらざ)
桟唐戸の軸受で、輪郭に誇り形をつける。上下の貫につけて扉をつけるもの。