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H26調査ファイル堅田遺跡・美濃国分尼寺東遺跡発掘調査成果

堅田遺跡、美濃国分尼寺東遺跡の調査成果をお知らせします

遺跡の概要

 堅田(かただ)遺跡と美濃国分尼寺東遺跡は、不破郡垂井町平尾地内に位置します。当遺跡は親ヶ谷(おやがだに)の尾根の南端にある段丘化した標高27m前後の扇状地上に位置し、遺跡の南西には美濃国分尼寺跡が所在します。両遺跡は平尾集落の東側で南北に延びる旧道(赤色の破線)を境に西側を美濃国分尼寺東遺跡、東側を堅田遺跡とされています。
 今回の発掘調査は、平成26年度公共社会資本整備総合交付金事業に伴い、平成26年7月1日から11月28日まで行いました。その結果、堅田遺跡において奈良・平安時代を中心とする時期の遺構や遺物が見つかりました。ここでは、堅田遺跡について紹介します。
遺跡遠景
堅田遺跡、美濃国分尼寺東遺跡遠景(東から)

壁面と底面が焼けた土坑を発見

 堅田遺跡A地点とC地点の両地点東端部(標高25.5m)の最も深い場所から、壁面と底面が被熱した土坑を確認しました。当遺構の埋土中から少量の土師器や炭化物を発見しましたが時代の特定に至らず、出土した炭化物で年代の分析をしています。大きさは長軸1から1m20cm、短軸60cm~80cm、深さは約30cmあります。調査中に遺構内で水が湧いたため排水溝を設けて底面を観察しましたが、火を用いた痕跡が見られることから、当時は水の影響がない場所であったことがわかります。
壁面が焼けた土坑の様子
焼壁土坑・完掘状況(西から)

奈良時代(8世紀)の竪穴建物を発見

 堅田遺跡A地点で8世紀代の竪穴建物を発見しました。遺構の東側は後世の溝状遺構に切られ、北側は発掘区外に展開し、遺構上面は後世の改変が及んでいたものの、残存部分4分の3(推定)程度の遺構(長軸約2m80cm、短軸約2m50cm)を検出できました。遺構埋土を約5cm掘削したところで当時の床面が現れ、埋土中からは土師器片が多数出土しました。竪穴建物の掘方から中心軸が真北方向から僅かに東へ傾くことが確認でき、方位を意識して構築されていることが判明しました。
遺物出土状況竪穴建物
遺物出土状況(北から)竪穴建物(北から)

奈良時代(8世紀)の中央が被熱した土坑を発見

 竪穴建物から約10m東の位置で、遺構中央に被熱した痕跡のある土坑を確認しました。中央の被熱部分や周囲からは多くの土師器片が出土しました。土師器を焼成した遺構である可能性があります。今後は出土した土器の器種や数量の確認、遺構の性格について検証していく予定です。
遺物出土の様子、真上からの写真遺物出土の様子、横からの写真
遺物出土状況(北・真上から)遺物出土状況(北・横から)

平安時代(11世紀頃)の垂直に掘り込まれた土坑と硯を発見

 堅田遺跡C地点では、上面が大きく開き、途中から円柱状に掘り込まれ、底面が窪んだ性格不明の土坑を発見しました。この遺構の上面の直径が約50cm、中間径が約25cm、検出面から底面までの深さは約90cmありました。また、土坑上面からは碗の底部が出土しました。碗の内面は磨かれ、墨が内面全体や破損した断面に付着していることから転用硯(てんようけん:碗を転用して硯として使用したもの)と考えられます。今後は類例等を探し、遺構の性格について検証していく予定です。
転用硯の出土状況断ち割り状況
転用硯の出土状況(北から)断ち割り状況(北から)

調査を終えて

 堅田遺跡は丘陵地端部に立地し、発掘区の全長128mに対して、西から東へ高低差約1m50cmの勾配があります。当遺跡の地形が変化(緩・急勾配)する付近に溝状遺構を構築している傾向があり、地形に影響を受けた地境の可能性が指摘できます。また、竪穴建物1軒と中央が被熱した土坑が土器を製作する遺構とした場合を考えあわせると生産域として性格の強い区域である可能性があります。
 美濃国分尼寺東遺跡の立地は丘陵地の緩やかな地形にあるため、発掘区全長81mに対して、西から東へ高低差90cmの勾配しかありません。主な遺構は近世末~近代と考えられる溝のみですが、地山(基盤層)付近まで後世の改変が及んでいたことを考慮すると、更に古い時代の遺構が畦畔や盛土にともなう掘削で滅失している可能性も考えられます。また、今回の調査では居住域を示す遺構は確認できませんでしたが、7世紀後半から9世紀代かけての遺物も多く出土しています。美濃国分尼寺(8世紀後半に創建)周辺からも集落の存在の可能性を示す7世紀後半の遺物が発見されていることから、美濃国分尼寺から今回の発掘区にかけての範囲内に同時代の古代集落が存在する可能性が指摘できます。
出土した坏
坏、7世紀後葉

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