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平成26年度調査事業計画”何が見つかる?今年の遺跡”

発掘作業

番場遺跡(ばんばいせき)

  • 所在地:本巣市軽海
  • 主な時代:弥生、古墳

 番場遺跡は標高12m前後の扇状地(せんじょうち)末端部から沖積(ちゅうせき)低地部に位置し、発掘区の約500m東には県指定史跡である宗慶大塚古墳(そうけおおつかこふん)、約700m西には軽海西城跡(かるみにしじょうあと)が所在します。
 平成19~23年度に本巣市教育委員会が実施した詳細遺跡分布調査では、当遺跡内において弥生土器、須恵器(すえき)、緑釉(りょくゆう)陶器、灰釉(かいゆう)陶器、山茶碗(やまぢゃわん)などが採集されました。また、平成23年度に県教育委員会社会教育文化課が実施した試掘確認調査では、竪穴状遺構や土坑、大型の溝状遺構などを確認し、弥生土器や土師器(はじき)、須恵器、中世陶器などが出土しました。特に弥生土器や土師器の出土量が多く、今回の発掘調査では、弥生時代から古墳時代にかけての人々の生活の痕跡などが見つかる可能性があります。
番場遺跡
写真:試掘確認調査における遺物出土状況
事業者:岐阜土木事務所
事業名:公共社会資本整備総合交付金事業に伴う埋蔵文化財発掘調査

六里遺跡(ろくりいせき)

  • 所在地:揖斐郡大野町大字六里、小衣斐
  • 主な時代:縄文時代、古墳時代、古代、中世

 六里遺跡は、標高20m前後の根尾川緩扇状地(ねおがわかんせんじょうち)の扇端(せんたん)に位置します。当該地は、大野町教育委員会による条里(じょうり)プランの調査によって、地名などから12条6里に比定されており、大野郡条里を代表する場所として大野町史跡に指定された「条里跡」(条里公園)が所在します。
 六里遺跡は、平成16~20年度に大野町教育委員会によって実施された大野町遺跡詳細分布調査で新たに確認された遺跡で、須恵器や灰釉陶器、山茶碗が採集されています。また、平成24年度に大野町教育委員会が条里公園の整備に伴い実施した発掘調査では、条里成立に先立つ6~7世紀代の竪穴建物跡7軒と条里成立後と考えられる10世紀前半の竪穴建物跡1軒、中世前期の竪穴建物跡1軒の他、条里プランに関連する区画(溝や水田跡)などが見つかりました(写真)。今回の調査でも同様な遺構の発見が期待されます。
六里遺跡
写真:条里公園整備に伴う発掘調査全景(北から撮影)大野町教育委員会提供
事業者:揖斐土木事務所
事業名:県単街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査

稲荷遺跡(いなりいせき)

  • 所在地:揖斐郡大野町大字六里
  • 主な時代:古代

 稲荷遺跡は標高20m前後の根尾川緩扇状地(ねおがわかんせんじょうち)の扇端(せんたん)に位置しています。遺跡の東側には平野中央を南流する三水川(みみずがわ)が流れ、川に沿って南北に遺跡が展開しています。
 稲荷遺跡は、平成16~20年度に大野町教育委員会によって実施された大野町遺跡詳細分布調査によって確認された「里山稲荷神社遺跡」が、今回の調査に伴う試掘確認調査によって三水川の形成した自然堤防(しぜんていぼう)上に広がっていることが確認されたため、新たに「稲荷遺跡」として登録された遺跡です。前述の分布調査では「美濃」刻印須恵器(「みの」こくいんすえき)を含む古代の遺物が多く採集されています。また、試掘確認調査では、古代の竪穴建物跡などが見つかっていることから、当遺跡は古代の集落跡だと考えられます。
稲荷遺跡
写真:稲荷遺跡発掘調査区域全景(西から撮影)
事業者:揖斐土木事務所
事業名:県単街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査

堅田遺跡(かただいせき)

  • 所在地:不破郡垂井町平尾字堅田
  • 主な時代:古代(奈良、平安)、中世

 堅田遺跡は、親ヶ谷(おやがだに)の根尾の南端にある段丘化(だんきゅうか)した扇状地上にある平尾地区の集落の東端において南北に伸びる旧道を境に東側を当遺跡、西側を美濃国分尼寺東遺跡として登録されています。また、当遺跡の東端は国分寺遺跡に接し、遺跡内には堅田古墳があります。
 平成25年度に県教育委員会社会教育文化課が実施した試掘確認調査結果で土坑5基と溝状遺構2条、土師器、須恵器、山茶碗、陶器、キセルが出土しました。
 今回の発掘調査では、主に古墳時代から古代にかけての遺構や遺物が発見される可能性があります。
堅田遺跡
写真:試掘確認調査北西から南東にのびる溝状遺構と柱穴状遺構
事業者:大垣土木事務所
事業名:公共社会資本整備総合交付金事業に伴う埋蔵文化財発掘調査

美濃国分尼寺東遺跡(みのこくぶんにじひがしいせき)

  • 所在地:不破郡垂井町平尾字屋敷
  • 主な時代:古代(奈良、平安)、中世

 美濃国分尼寺東遺跡は、親ヶ谷(おやがだに)の尾根の南端にある段丘化した扇状地上にある平尾地区の集落内に位置し、東は美濃国分尼寺跡、西は堅田遺跡に隣接しています。
 平成25年度に県教育委員会社会教育文化課が実施した試掘確認調査で土坑1基と溝状遺構2条を確認し、土師器(はじき)や須恵器(すえき)が出土しました。
 美濃国分尼寺跡の東域にあたる当遺跡は集落域と考えられています。今回の発掘調査では、試掘確認調査で出土した遺物や近世の字絵図などから、古墳時代から江戸時代にかけての集落跡や遺物が発見される可能性があります。

事業者:大垣土木事務所
事業名:公共社会資本整備総合交付金事業に伴う埋蔵文化財発掘調査

整理等作業

北方京水遺跡(きたがたきょうずいいせき)

  • 所在地:大垣市北方町
  • 主な時代:中世

 当遺跡では、埋没した旧中洲(東側)と旧河道(西側)が確認されています。東側の旧中洲にあたる微高地では、鎌倉時代を中心とする土坑や溝状遺構、柱穴を確認しました。また、土器や石器も多く出土したことから、集落域の一部にあたると考えられます。
 西側の旧河道にあたる低地部では、鎌倉時代のものと考えられる水田跡を確認しました。水田跡は、上層と下層それぞれに見つかり、その間には洪水で運ばれてきた砂層が見られました。上層では人為的に地形を平坦にしてほぼ方形の区画がつくられていたのに対し、下層では自然地形の高低に沿った不定形の区画がつくられていました。また、上層からは、推定される条里型地割に沿った大畦畔(幅約5メートル)を確認しました。
 西側の北部では、自然流路の水流をせき止める2基の堰(せき)を確認しました。いずれも杭を打設した後、土と植物を交互に積み重ねて盛土していく敷葉工法が用いられ、堰の盛土内からは構築時に祭祀を行ったと考えられる遺物(斎串(いぐし))が出土しました。
 水田跡と堰は、ほぼ同時期のものであると考えられ、中世の農村風景が1つの遺跡の中でまとめて確認された数少ない調査例となります。今年度は整理作業を実施し、報告書を刊行する予定です。
北方京水遺跡
写真:堰をつくるための杭の出土状況
事業者:国土交通省中部地方整備局岐阜国道事務所
事業名:東海環状自動車道(大垣西IC~大野神戸IC(仮称))に伴う埋蔵文化財発掘調査

興福地遺跡(こうふくじいせき)

  • 所在地:大垣市興福地町
  • 主な時代:古代・中世

 当遺跡は、杭瀬川と揖斐川にはさまれた氾濫低地上にある集落跡です。南北方向に長く分布し、遺跡の南東端を平成元年に大垣市教育委員会が調査しました。奈良時代と鎌倉時代の掘立柱建物が見つかり、須恵器、灰釉陶器、緑釉陶器、山茶碗、瓦、青磁(せいじ)、木製品等が出土しています。今回の調査地は過去の調査地から約100m北西に位置し、発掘区は養老鉄道の東と西にわかれています。鎌倉時代と平安時代の2面を調査し、掘立柱建物跡、掘立柱塀、井戸跡、溝跡などが見つかりました。鎌倉時代の井戸跡からは完形の山茶碗が約30点、小型片口鉢1点、笊(ざる)、下駄、扇子の骨、斎串などの木製品が出土し、井戸を閉じる祭りに使用した道具の一括資料と考えられています。
 出土遺物は土師器、須恵器、灰釉陶器、山茶碗、中近世陶磁器等の土器が約4000点、石器が約30点、木製品が約100点出土し、そのほとんどは井戸跡を検出した東地区に集中します。東地区が生活の場であったのに対し、西地区では東西方向と南北方向の掘立柱塀が見つかるとともに、直径約30cmの柱穴が3基あり、神社建築か役所の建物跡に関連する可能性が考えられます。当センターが調査した柿田遺跡(かきだいせき)からは、檜扇(ひおうぎ)、扇子、小型片口鉢が出土し、神社建築や中世の屋敷と考えられる建物跡が見つかっていることから、柿田遺跡と性格の類似する遺跡が広がる可能性も考えられます。今年度は整理作業を実施し、報告書を刊行する予定です。
興福寺遺跡
写真:井戸跡から出土した扇子
事業者:国土交通省中部地方整備局岐阜国道事務所
事業名:東海環状自動車道(大垣西IC~大野神戸IC(仮称))に伴う埋蔵文化財発掘調査

東野遺跡(ひがしのいせき)

  • 所在地:加茂郡坂祝町大針・黒岩
  • 主な時代:縄文・弥生・古墳・古代・中世・近世

 当遺跡は加茂野台地東端、美濃加茂盆地を眼下に臨む段丘の縁に位置します。平成15・16年度に遺跡北部6,470m2の調査を実施し、旧石器時代、縄文時代中期、古墳時代前期、古墳時代後期及び古代の遺構約3,840基を見つけ、遺物約23,000点を確認しました。これらの成果から古墳時代前期に地域の中で中心的な役割を担う集落の一つであったことが判明しました。
 平成24・25年度は、遺跡中央部から南端部4,552m2の調査を行い、竪穴建物跡49軒、掘立柱建物跡10棟、方形周溝墓3基、墓坑2基、井戸跡1基、区画溝2条など、縄文時代から近世の遺構が3,436基見つかり、遺物約20,000点を確認しました。竪穴建物跡の時期が、縄文時代中期、弥生時代中期・後期、古墳時代前期・後期、古代、中世と多時期にわたることから、当地が長い間集落として連綿と営まれ、特に古墳時代前期は地域の中で比較的規模の大きな集落が展開していたことが分かりました。また、弥生時代後期の方形周溝墓が見つかったことから、墓域としても機能していたことが分かりました。
 平成26年度は、平成24・25年度発掘作業で確認した遺構や遺物の整理等作業を実施します。当遺跡における集落の変遷が明らかになることが期待できます。
東野遺跡
写真:竪穴建物跡群から美濃加茂盆地を臨む(南西から撮影)
事業者:国土交通省中部地方整備局多治見砂防国道事務所
事業名:平成26年度一般国道21号坂祝バイパスに伴う埋蔵文化財発掘調査

梅替古墳(うめがえこふん)

  • 所在地:加茂郡坂祝町深萱(ふかがや)
  • 主な時代:古墳

 当古墳は郷部山(ごぶやま)の西向き斜面の尾根上にあり、西に向かって眺望が開けています。この地域は「見城寺(けんじょうじ)跡」(中世寺院)の所在地とされています。平成23年度の現地調査により古墳が発見され、梅替古墳として登録されました。平成25年度に古墳とその周辺918m2の調査を行い、墳丘の様相や規模、構築方法などを明らかにすることができました。
 墳丘は、緩やかに南西に向かって傾斜する尾根の頂部にあります。墓坑を掘って石室を築きながら墳丘を盛り上げて築き、その規模は直径約20mの円墳です。2段築成で、それぞれの斜面が葺石(ふきいし)で覆われていますが、2段目の葺石基底石が埋め殺しとなる特徴的な工法をとっています。埋葬主体部は、全長約8mの無袖式の横穴式石室であり、西向きに開口していました。礫床はなく、基盤層を整地した貼床上に直に埋葬されていたと思われます。羨道(せんどう)入り口から墓道をとおって墳丘斜面まで暗渠(あんきょ)による排水溝が設置されていたことも確認できました。
 原位置を保つ副葬品はありませんでしたが、緑色凝灰岩製管玉(くだたま)10点と滑石製紡錘車(ぼうすいしゃ)2点、銅製の耳環(じかん)3点、鉄鏃(てつぞく)の破片などが出土しました。発掘作業により出土した須恵器から、6世紀中頃に築造され、その後追葬が行われたと推定されます。平成26年度は発掘作業で確認した遺構や遺物の整理等作業を実施します。
 古墳の残存状態が良好であったため、詳細に調査確認することができ、今後、墳丘や石室の構築方法を検討する中で、今回の調査結果を活用することにより、地域における梅替古墳の位置付けが明らかになることが期待できます。
梅替古墳
写真:管玉の出土状況(出土した管玉)
事業者:国土交通省中部地方整備局多治見砂防国道事務所
事業名:平成26年度一般国道21号坂祝バイパスに伴う埋蔵文化財発掘調査

随縁寺裏B地点遺跡(ずいえんじうらBちてんいせき)

  • 所在地:高山市上切町
  • 主な時代:縄文・弥生・古代・中世・近世

 随縁寺裏B地点遺跡は、高山市市街地の北西丘陵地帯に位置します。平成25年度に南地点と北地点の発掘区、合わせて1,100m2の調査を行い、竪穴建物跡7軒、溝跡5条、土坑199基などを確認しました。竪穴建物跡は南地点の傾斜地で重複して確認しました。竪穴建物跡は、出土遺物及び、遺構の先後関係から8世紀頃の建物跡と考えられます。また、竪穴建物跡の東側は谷に堆積した砂礫層の上面で見つかったことから、谷がほぼ埋まった段階で建物が建てられたことが分かりました。
 発掘区を南北方向に流れる谷は、堆積層の上層から弥生時代の土器が、中層から縄文時代後期の土器や石器がまとまって出土しています。発掘調査では縄文時代や弥生時代の遺構は確認できませんでしたが、出土土器はあまり摩耗していないことから、出土地点から近い場所に当該期の生活域があると考えられます。
 平成26年度は、平成25年度発掘作業で確認した遺構や遺物の整理等作業を実施し、報告書を刊行する予定です。遺構・出土遺物の相互の関係を検討していくなかで、当地域における古代初源期の集落の様子を解明していきます。
隨縁寺
写真:山麓斜面地で確認した古代の竪穴建物跡(東から撮影)
事業者:国土交通省中部地方整備局高山国道事務所
事業名:平成26年度中部縦貫自動車道高山清見道路に伴う埋蔵文化財発掘調査

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