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災害体験談1

伊勢湾台風災害(1959年/昭和34年)

関市在住男性(当時中学2年生)

当時中学2年生。学校から帰る時にラジオで台風が来るという情報が耳に入っていた。しかし学校から帰るときには不気味なほど静かだった。夜21時頃からものすごい風が吹き始め、夜中の1時半頃まで吹いていた。それから、堤防が決壊した、危ないので逃げろということになり、長良川を渡った東側(関市山田地区の公民館)へ避難した。堤防づたいに避難したが、堤防には倒木がたくさんあり、また夜中に懐中電灯の灯りで避難しなければならず、避難もたいへんだった。

当時、地区に「定使」(じょうつかい)という役員がいて、水害の危険が出ると見張りをしていたが、当日の夜、見張りをしていた定使が、地区の北側(戸田)で堤防が切れたのを確認し、地区からの避難を呼びかけた。

前年(昭和33年)にも同地区で大水による洪水があり、その経験から畳を上げたり、電気機器や食糧などを棚の上や階上など高いところへ移すことができ、あまり水につかることはなかった。(当時は養蚕をしている家が多く、家の中で蚕を飼って生活道具は比較的簡単に移動することができたという事情もある。)また、牛などの家畜も地域内の比較的高いところへ連れ出した。当時は毎年のように同地区は洪水があり、昭和35年には2回台風による洪水があり、昭和36年にも大水が出た。

S35年の台風による大水はS34年の伊勢湾台風よりたくさんの水が出る洪水となり、関市保戸島地区は堤防の輪郭くらいしか見えないような状況であった。

伊勢湾台風時の洪水では、上流の決壊した箇所から流入した水と、下流からあふれ込んできた水が地区内で合流(押し合う)形になったため、地区内では家は流れなかった。大水が出た後、対岸(岐阜市芥見側)でも堤防が決壊し、地区内についていた大水はみるみる引いていった。水が引いたあとに家の床には土がたまり、固まって煉瓦にようになり、後で除去することがたいへんだった。(次の年に来た台風による大雨時には、水の出がある程度収まった時点で早めに家に戻って、土をかき出すようなこともしていた。)

当時は汲み取り式トイレだったため、逃げる前にはトイレにゴザでふたをして重しを乗せ、汚物が流出しないようにしていた。伊勢湾台風の洪水では同級生が1名死亡した。(別の地区で。逃げるときに、玄関近くにあったハシゴか何かに挟まれた。)洪水後、(その家の人手の数にもよるが)元の生活に戻るまでに2週間くらいはかかった。各家の床下に石灰をまいた。その他、倒木処理や、堤防の修復にはさらに時間がかかった。蚕のエサである桑の葉にも泥がついてしまい、エサにするため1枚1枚洗わなければならなかった。

翌年(昭和35年)の台風(11号、12号)では、伊勢湾台風で決壊した箇所などの堤防の修復中だったため、工事を行っている箇所がすぐに決壊するなどして、水の出方は前年(伊勢湾台風)よりもひどかった。

昭和35年の台風による水害では、家の軒下まで水かさが増して、家が流された。(人的被害はなかった。)目の前で家が流されたが、ひどく埃が上がり、流されていった。(当時の家は、基礎がなく、石の上に乗っているだけであったため、大量の水につかると浮いて流されてしまった。)

昭和35年の台風の時は朝の4時、5時くらいに第一次の避難の指示(地区内での指示と思われる)が出て、午前9時頃に二次の避難(指示)となった。

このときは明るかったため、洪水の様子がよく見えて、前年の伊勢湾台風の時よりも恐ろしかった。

当時は洪水の見張りや、事後の復旧作業も男の仕事で現場へ出かけなければならず、家財道具を高いところへ上げたりする家の作業は男手がなく、女性、子どもでしなければならなかった。いざというときの人手が不足して、女性、子どもは大変だった。(H16年の台風23号時にも同様の状況であり、どうしても人手が足りない家は堤防の見守りなどしていた男性が後から自分の家の避難のため戻って行かれた。)(県HP掲載の藍川橋の写真を見られて)自分の住んでいるところからも、藍川橋(当時、東の方は吊り橋だった)の東の方が洪水で流されてなくなっている(ハシゴで応急処置)姿が何度も見えた。

当時の堤防は現在よりも1mくらいは低かった。(その後、堤防を高くした。)しかし平成16年の台風23号の時には、土嚢つみをしたが水かさが上がるのにとても間に合わず、避難した。その堤防の上を水が越えて滝のように流入し、地区の下(しも)側からも水があふれてきた。その後地区内で建てられた家は地盤を上げて建てられている。平成16年台風23号の時は稲刈り直後で、わらが流れて、水が引いた後には散乱していた。昭和30年代の洪水でも、収穫期に洪水が来て、水につかった年は米の収穫は0であった。

このように、この地区(関市側島、保戸島)では昔から洪水を何度も体験して、ある意味で慣れのようなものがあり、地区の人々は比較的落ち着いて行動ができる。しかし平成16年台風23号時には、慣れによってかえって、同報無線で避難を呼びかけたが、特にお年寄りがなかなか避難しようとしなかった。そのため、消防団、地区の役員などで独居のお年寄りのいる家などは1軒1軒、避難するよう声をかけてまわった。

地区の人は今でも、過去の経験から台風などの時には川の様子を見て準備(畳や電気機器を高いところに上げるなど)を行う。(経験から洪水になる危険性などが感覚でわかる。)

平成16年台風23号による洪水を教訓に、その後平成17年に地区(地区自主防災組織)として各戸の「家族調書」(お年寄りの有無、子どもの数、自力で動けるか否か等の状況がわかる調書)を作り、また、地区の役員には米、梅干しなどの保存食を各自の家庭の分+α備蓄するよう働きかけている。また地区として備蓄資材用にガス炊飯器なども購入した。

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