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原三溪
原三溪・柳津文化の里構想実行委員会会員28名来館
1月22日(水曜日)に、原三渓の顕彰事業を進められている「原三溪・柳津文化の里構想実行委員会」の会員の方28名が、岐阜県歴史資料館所蔵の原三溪関係文書を閲覧するために来館されました。
原三溪は、慶応4年(1868)に岐阜県厚見郡下佐波村(現在の岐阜市柳津町)で生まれ、明治25年(1892)に、横浜の豪商・原善三郎の孫・原屋寿(やす)と結婚し原家に入ります。彼は、横浜市を根拠地として、絹の貿易により富を築き、富岡製紙場などの製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていますが、生糸売込商としても活躍し、海外に支店を出しています。そして、大正4年(1915)に帝国蚕糸の社長、大正9年(1920)に横浜興信銀行の頭取となり、実業家として活躍しました。
また、大正12年(1923)の関東大震災後には、横浜市復興会の会長を務め、復興支援のために私財を投じ横浜の復興にも貢献しました。
さらに、原三溪は、美術品の収集家としても知られ、小林古径、前田青邨らを援助しました。また、横浜市本牧に京都や鎌倉から移築された歴史的価値の高い建造物を巧みに配置した広大な日本庭園である「三溪園」をつくりました。
岐阜県歴史資料館には、原三溪の実家である青木家の文書が約6000点所蔵されていますが、今回は、その中から原三溪に関わる代表的な資料を閲覧されました。
以下は、その様子です。
説明を聞く参加者
熱心に資料を眺める参加者