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原三溪の両親への思い―原三溪が両親に送った羽織―

原三溪の両親への思い―原三溪が両親へ贈った羽織

 原三溪(はらさんけい本名富太郎1868年〜1939年)は青木久衛の長男として美濃国厚見郡下佐波村(現岐阜県岐阜市柳津町)に生まれました。
 明治18年(1885年)17歳の時に上京して東京専門学校(現早稲田大学)へ入学します。卒業後に横浜の豪商原善三郎の孫娘やすと結婚して原家を継ぎました。その後は横浜を拠点に生糸貿易・製糸業により財を築き、関東大震災後の復興に尽力したことでも知られます。また三溪は美術愛好家としても著名で、美術品蒐集だけでなく、前田青邨(岐阜県中津川市出身)ら多くの画家への援助も行いました。横浜には三溪が作り、全国の古建築を移築した三溪園があり、現在一般公開されています。
​ 当館には三溪の実家である青木家の文書(青木家文書)を所蔵しています。この文書は青木家が庄屋を勤めていたことから、幕末維新期から明治・大正期にかけて下佐波村の動きが具体的に分かる好資料ですが、その中に三溪に関する資料もあります。今回紹介する紋付羽織もその一つです。

紋付羽織(父)全体紋付羽織(母)全体
左:紋付羽織(父あて)縦105.5cm×横128.0cm、右:紋付羽織(母あて)縦100.0cm×横121.6cm

 左側のものは父に、右側のものは母に、それぞれ三溪は明治38年(1906)に贈ったものです。

どうしてこうしたことが分かるのでしょうか。

 実は羽織の裏に、これらの羽織を作り父母に贈った由来が、三溪自身の手で書かれています(下記写真参照)。

羽織(父)裏拡大羽織(母)裏拡大
左:紋付羽織(父あて)裏拡大、右:紋付羽織(母あて)裏拡大

釈文

 父あてと母あてで若干文字の異なるところはありますが、大意としては次のとおりです。
 「明治38年9月25日に天皇から恩賜として御盃と縮緬壱練をいただいた。その縮緬でもってこの羽織をつくり、父母に献上する。恩賜の縮緬で作ったこの羽織を着せることで、父母を天皇の温かいご恩に包むことができて感激している」
 三溪は早くから岐阜を出ますが、故郷とのつながりは終生消えず、また両親を思う気持ちは大変深いものがありました。この羽織も三溪の故郷、両親を思う気持ちの表れと言えるでしょう。また、父あての羽織と母あての羽織では裏に書かれた文章の文体が違う(父あて:漢文、母あて:漢字かな交じり)であることからは、受け取り手を考えて文章を認めた三溪の思いやり深い人柄が偲ばれます。
 ちなみに明治38年に三溪が両親に紋付羽織を贈ったことは『柳津町史佐波編』で紹介されています。また、父あての紋付羽織もこれまで展覧会等で知られています。母あての紋付羽織については、資料整理を進める中で現物を確認できました。これからも資料整理を進め、目録やホームページ上で皆さまにお知らせしていきたいと思います。

(参考文献)
『柳津町史佐波編』(岐阜県羽島郡柳津町、1972年)
白崎秀雄『三溪原富太郎』(新潮社、1988年)
『特別展岐阜が生んだ原三溪と日本美術守り、支え、伝える』
(原三溪展実行委員会(岐阜市歴史博物館・中日新聞社・日本経済新聞社・テレビ愛知)、2014年)

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