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5飛騨国南方北方山絵図

岐阜県歴史資料館授業にも使える当館所蔵史料

No.5飛騨国南方北方山絵図

飛騨国南方北方山絵図扣(ひかえ)
飛騨の村々が江戸や大阪の町を支える!!

飛騨国南方北方山絵図の画像

山絵図の解説

解説

絵図中の付箋の解説

※1「此所ニて御材木舟積仕候、是より江戸迄百七拾里余」
※2「此所ニて御材木筏組仕候、尾張白鳥湊迄弐拾三里余」
※3「下原より日和田野麦迄道程三拾弐三里程、下原より濃州麻生村迄道程八里程、麻生村より尾州白鳥迄道程弐拾三里余」「此下原村飛州国境ニて御座候、此所ニて御材木渡場改可仕候処ニ、大分の御材木、山川壱所ニ溜とハ流参候間、改の内、濃州ニて流失木無、以之山内の所々谷口ニて渡場改仕候」
※4「此所の山内より出候御材木南方益田川へ出シ候、順路ニ付山内は修羅木ニて道ヲこしらえ拵、御材木少ない越益田川へ入申候、益田川迄持運申候道程大概三里程」
※5「東西道程大概弐拾弐三里程、南北道程大概拾六七里程」
※6「東西道程大概弐拾弐三里程、南北道程大概拾四五里程」
※7「此小白川村より外宮谷山内木立迄道程拾五里余、小白川村より越中金屋迄」

解説

飛騨国は、元禄5年(1692)、幕府直轄領となり明治維新まで25代の郡代、代官が治政を展開した。特に、広大な御林山の管理、植林、御材木の払下げなどは林務行政の大きな柱であった。
飛騨国は南方と北方の二つに分かれる。凡例によると、「山色青は者南方山」「山色黒は者北山」と書かれている。やや分かりにくいが、南方と北方の境が色分けしてあるのが読み取れる。また、この境目が分水嶺となっている。
南方の山々からは、益田川筋を通って尾張国白鳥湊に、北方の山々からは、高原川・宮川筋、庄川筋を通って越中国岩瀬湊・伏木湊に至る川筋の村々が記されている。
絵図面上には、川下げをするどば渡場や、川下げで重要な場所にふせん付箋をつけて示したり、下流の湊までの距離を記したりしている。南方の山々より切り出された材木等は、下原村の中綱場で集積、検査を受け、税をかけられたのち、濃州麻生湊で筏に組まれて、伊勢湾の白鳥湊へ流され、江戸へ運ばれた。北方の山々より切り出された材木等は、高原山のものは越中寺津で、白川郷のものは越中金屋で筏に組まれ、それぞれ岩瀬・伏木湊へ流され、江戸や大阪に運ばれ町を支えた。飛騨国は幕府を支える重要地であった。

用語について

川下げ(かわさげ)
木材を川下しすること。当時は川下げを請け負う商人がいた。
渡場(どば)
森林内で伐り出した木材を一時集積しておく場所。また、上流から流した木材を陸揚げする場所。
中綱場(なかつなば)
尾張藩で木曽山中よりの流木の数を再検査するために益田郡下原町の河中に張渡して川下げの木材を集めた場所。
湊(みなと)
河川および海に面して港湾設備、市場集落をもち水陸交通の拠点となった場所。

史料の授業等への利用について

申請書(様式 [Wordファイル/19KB])を歴史資料館へお送り下さい。

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