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23伊能忠敬測量隊

岐阜県歴史資料館授業にも使える当館所蔵史料

No.23伊能忠敬測量隊

「伊能忠敬測量隊」【飛騨高山陣屋文書】【大前久八郎家文書】
・・・伊能忠敬は岐阜へも測量に来ていた!


解説

伊能忠敬はいつ美濃・飛騨に来たの?

伊能忠敬測量ルート図
伊能忠敬測量ルート図(『岐阜県歴史資料館報第4号』より)

 伊能忠敬(1745〜1818)を隊長とする幕府測量方は、わが国最初の科学的測量を行い、「大日本沿海輿地全図」を完成させた。寛政12年(1800)から文化13年(1816)までの17年間に9回におよぶ測量を実施するという大事業であった。この間、伊能は岐阜県を4度通過している。最初は第4回測量中の享和3年(1803)5月、2・3度目は第7回測量中の文化6年10月と文化8年3月である。最後は、第8回測量中の文化11年である。上の図がその時のルート図であるが、特に第8回測量では、美濃から飛騨にかけて県内の主な場所を測量した。そこで、ここでは第8回測量時の当館所蔵史料を通して伊能忠敬が行った岐阜県内の測量の様子を紹介する。

伊能忠敬はどのように岐阜県をまわったの?【史料1】

 史料1には「御用(測量)のことについて言い渡すので、この書状1袋(袋の中に何通かの書状が入っている)を美濃国中西郷村(現岐阜市)から飛騨国高山(の各村や宿)まで滞りなく引継ぎ送ること」と記されている。伊能ら測量隊一行は、向かう先の村々で測量が円滑に行われるよう、史料1のように「先触(さきぶれ)」を出し、添付の書状で宿泊場所や食事の内容・観測に適した場所などについてあらかじめ準備するよう命じた。文化11年の測量では、伊能ら15名は、加納を出立した後二手に分かれて測量した。当初、伊能の本隊は苗木・福岡・加子母・下呂・小坂・久々野を通り、高山を経て野麦峠から信州木曽福島へ向かい、別隊は、八幡・金山・下原から下呂・高山に入り、高山から旗鉾(はたほこ)・平湯を通り信州松本へ向かう予定であったが、別隊も高山から本隊と共に野麦峠へ向かった。測量速度は一日平均約3里であったといわれるが、星の観測を伴う測量であったため、天候によって日程はたびたび変更された。

測量方飛州村々廻村一件史料
史料1:測量方飛州村々廻村一件

御用之儀申遣候間此書状

壱封濃州中西郷村より
飛州高山迄無滞継
送り可被申候以上

戌三月廿九日測量方印
濃州
中西郷村より
飛州
高山迄
右宿々村々
役人中

伊能忠敬はどのように測量したの?【史料2】​

中呂村書上書
史料2:「中呂村書上書」

 史料2は測量隊が中呂(ちゆうろ)村(現下呂市萩原町)を通過した時、村役人が残した記録である。これによると、中呂村を通過したのが文化11年4月14日であり、測量隊員の氏名の中に伊能勘解由(かげゆ)(勘解由とは伊能が隠居後に使用した名前:史料2赤色の囲み部分)とあることから本隊であることがわかる。また測量隊が使用した道具として、竹竿・縄・方位盤・象眼器などがスケッチされており興味深い。伊能ら測量隊は、日本全国をくまなく歩いてまわりながら、こうした道具で距離や緯度・経度などを測定したのである。ちなみに、伊能らが測定した高山(三之町五丁目)の緯度は、36度8分30秒である。現在の2万5,000分の1の地形図では36度8分36秒であるから、伊能らの測定がいかに正確であったかがわかる。

史料の授業等への利用について

申請書(様式 [Wordファイル/19KB])を歴史資料館へお送り下さい。


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