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21江戸時代の蝦夷地

岐阜県歴史資料館授業にも使える当館所蔵史料

No.21江戸時代の蝦夷地

 ・・・江戸時代の蝦夷地ってどんなところ?


蝦夷地の絵図
史料1:蝦夷地(北海道)の絵図

解説

□どうして下呂に蝦夷地の史料があるの?
江戸時代の中期に飛騨から蝦夷地(北海道)に進出し、四代・91年間に渡って蝦夷地で事業を行うとともに、アイヌやロシアなどの北方世界と交流した商人がいた。それが下呂の武川家である。屋号は飛騨屋(ひだや)と称し、主人は久兵衛を名乗った。武川家の蝦夷地に関する史料は県文化財の指定を受けている。
□蝦夷地はどうなっていたの?:史料1
江戸時代の蝦夷地は、松前(まつまえ)藩の領地だった。しかし、内地(ないち)の和人(わじん)が住んでいたのは渡島(おしま)半島を中心とする道南(どうなん)に限られていた。残りの蝦夷地の大部分には、先住民族であるアイヌが暮らしていた。蝦夷地は米が収穫できなかったので、松前藩はアイヌとの交易を収入源としていた。アイヌには、白鳥・鷹(たか)・鶴・熊・トドなどの鳥獣類や、鮭(さけ)・鱒(ます)・昆布(こんぶなどの水産物を提供させ、代わりに内地の米・酒・木綿などを渡す物々交換をした。しかし、和人の進出はアイヌの狩猟場を破壊するとともに、アイヌを搾取(さくしゅ)するものであった。
そのため、寛文9年(1669)にはシャクシャインの戦い、寛政元年(1789)には国後(くなしり)・目梨(めなし)の戦いがおきた。
□どうしてロシアは蝦夷地にやってきたの?:史料2・3
エカテリーナ2世肖像ラックスマンら4人の肖像
史料2:ロシア女帝エカテリーナ2世の肖像史料3:ラクスマンら四人の肖像
17世紀から18世紀にかけて、イギリスやフランス、アメリカでは、市民革命や産業革命がおき、社会や経済で大きな変化がおきた。しかし、ロシアでは皇帝の専制(せんせい)政治が続いていた。ロシアの女帝エカテリーナ2世は、黒海や地中海方面や中央アジア、そしてシベリア・沿海州(えんかいしゅう)方面へも進出した。18世紀の半ばころには、ロシアは樺太(からふと)や千島(ちしま)に姿をあらわすようになった。寛政4年(1792)には、ロシアの最初の遣日使節であるラクスマンがエカテリーナ号で根室に来航した。ラクスマンは漂流民である大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を届けた。伊勢国(三重県)の船乗りだった光太夫は台風にあい、ロシアに漂着した。光太夫はエカテリーナ2世に謁見(えっけん)して帰国を許され、根室に上陸した。またラクスマンは通商を求めたが、幕府は鎖国を維持した。
その後、幕府は蝦夷地の防備を固めるために、蝦夷地を直轄領とした。19世紀になると、イギリスやアメリカの船も日本に近づくようになったので、幕府は文政8年(1825)に外国船打払令を出した。
<語句>
 屋号:商店の商業上の名。生国や姓の下に「屋」をつけたものが多い。

史料の授業等への利用について

申請書(様式 [Wordファイル/19KB])を歴史資料館へお送り下さい。


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