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13アメリカ船着岸説明図

岐阜県歴史資料館授業にも使える当館所蔵史料

No.13アメリカ船着岸、アメリカ船乗組員・食物等説明図

アメリカ船着岸説明図アメリカ船乗組員・食物等説明図

解説

永6年(1853)、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に現れた。このうち2隻は3500トンと1700トンの蒸気船で、船体はいずれも黒く塗装されており、砲門は陸地に向けられていた。図*1はその様子を記したものであり、4隻の黒船が描かれ、絵図面上に「新御臺(台)場」から黒船までの距離が赤線で示されている。それぞれ「此間廿一丁」「此間十八丁」「此間廿二丁」と記されており、おそらく4隻の船が、停泊していた距離間を示したものであろう。
黒船来航の噂はすぐに広まり、幕府をはじめ日本中が大騒ぎとなった。武士は偵察目的で、民衆は珍しいもの見たさで人が集まり、浦賀周辺は黒山の人だかりとなったという。幕府もこの大事件を無視することはできず、浦賀奉行戸田氏栄(大垣藩の分家)が対応にあたった。ペリーは氏栄らに大統領の国書を渡して強く開国を求めたという。幕府は、ペリー艦隊の行う時報の発射や江戸湾進入などの威嚇行動におされて国書を正式に受け取り、翌年、日米和親条約を調印した。
『異国落葉籠』によれば、大垣藩主戸田采女正(うねめのかみ)は、浦賀奉行の次に列せられ「浦賀御協力」という大役を果たしたといい、ペリー来航という一大事に、大垣藩が深く関わっていたことがわかる。絵図*2は、黒船の構造や乗組員の風貌、食生活について絵と文章で細かく説明したものである。この絵図より、乗組員には東洋人もいたことがわかる。また、幕府からの答礼品としてアメリカに鶴を450羽を贈ったと記されているが、明らかでない。
おそらくこの絵図は、見物に出かけた人物が見たことや伝え聞いたことをまとめ、この大事件を他の人々に伝えようとして描いたものであろう。
幕末の日本では、黒船の様子や、ペリー、乗組員、または献上品や答礼品、応接の様子を描いた絵図が多く出回ったという。ペリー来航に人々が大きな関心を持ったことがわかる。

用語について

一間・・・・約180cm、四十間は約72m、十三間は約23m。
一貫・・・・3.75kg。2貫は7.5kg。
大筒(おおづつ)・・・・大砲の一種。戦国時代後期より用いられ、攻城戦や海戦において威力を発揮した。
小筒・・・・火縄銃。
壱尺・・・・一尺のこと。およそ30cm。
采女正・・・采女司(うねめのつかさ)の長官、采女とは、朝廷において天皇や皇后にし、食事など身の回りの雑事を専門に行う女官のこと。平安時代以降は廃れ、特別な行事の時のみの役職となった。江戸時代は地位として位置づいていた。
丁・・・・・長さの単位。一丁はおよそ111m、廿一(二十一)丁はおよそ2331m。
異国落葉籠(いこくおちばかご)・・・・・ペリー来航当時の絵図を収め、その様子を述べたもの。

史料の授業等への利用について

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