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災害体験談7

9月12日豪雨災害(1976年/昭和51年)

岐阜市在住男性(当時岐阜市方県水防団副団長)

Q:あなたが体験された災害はなんですか

昭和51年9月12日水害を岐阜市方県の水防団副団長として経験しました。この水害で、我々の地域で最も大きな被害が出た日が1日前であったことから、我々は9月11日水害と呼んでいます。

Q:災害発生当日あなたは何をされていましたか。

9月8日昼頃から雨が降り始めた。22時30分ころ石谷の友人から、家の裏の水路から水があふれそうなので、土嚢を貸して欲しいといわれて、持っていった。その後も、雨が降り続き、伊自良川の水位が上がったため、9日朝、方県消水防本部に方県水害対策本部を設置して、伊自良川の水位や、谷筋の状況をパトロールして回った。

Q:災害発生時の状況を教えてください。

11日6時40分頃、二田子と彦坂で相次いで土砂崩れが発生して、民家が飲み込まれた。水防団を2班に分けて、生き埋めとなった住民の救出活動を行った。私が担当した二田子の現場では、地域の住民が持っていた小型の重機や、水防団が備え付けていたスコップを持って土砂を掻き分けた。北消防本部長が、飲み込まれた家の屋根に登って、旗を振りながら指揮をとっていたことをよく覚えている。

救出作業をしている矢先、伊自良川が現在の農協付近で決壊して、あたり一面泥の海と化した。私は家のことが心配にはなったが、水防団の副団長として、現場を離れず救出活動を実施した。
13時30分頃、救出活動を終え、次に住民の避難誘導を行った。泥の海と化した中、避難者をボートに乗せて近くのお寺まで誘導した。ただ、中学生以上の男性は、家を守るためなかなか避難していただけなかったと記憶している。避難誘導は夕方まで続いた。

12日下流で長良川が決壊すると、伊自良川の水位が下がった。このため、13日に団員をいったん帰宅させ、家の作業や休養に当てるよう指示した。14日、15日に自衛隊、水防団そして各家庭1名以上の男性を集めて、伊自良川の決壊部分の土嚢積み作業を行った。各家庭からきた男性には、土のう詰めをお願いし、水防団と自衛隊で土嚢積みを行った。

Q:地域の住民と協力して行ったことはありますか。

地域の婦人会が中心となって、おにぎりや炊き出しを出してくれたので、食べるものには全く困らなかった。困ったのは、電話が通じないこと。当時無線機を4台持っていたが、感度が悪かった。偶然地域にアマチュア無線の愛好家が5名いたので開局してもらい、方県地区内での炊き出し情報や避難情報などの連絡に利用した。

土嚢の処理や、道路に残った泥などの処理は、岐阜市に依頼して市にやってもらった。

Q:災害対応時に気をつけたことはなんですか

活動の中で水防団員に、道路に杭を打ちロープを巻いて進路を確保するよう指示した。そして、必ず2名以上で行動するように伝えた。

この災害は、非常に広域的なものであった。ほかの地域からの応援は無いものと思い、自分の地域は自分たちで守り抜く思いで対応した。

Q:この災害を教訓にしたことはありますか

この災害の教訓を受けて、団の詰め所にFAX、そして移動型無線機を岐阜市に依頼して導入してもらった。また、図上訓練はとても重要だと感じた。特に災害を経験されていないかたは、災害をイメージできない。地域で積極的に図上訓練にも取り組みたいと思っている。

Q:災害を体験されて記憶に残っていることはなんですか。

水防団長を辞めて一番ほっとしたのは家内だった。台風、洪水など一番家にいてほしいときに、僕は地域のために水防活動に出て行ってしまった。その間家の守をしたのは、家内だった。家族の支え、理解そして家内の内助の功がなければ、地元に貢献することはできなかっただろう。

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