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岐阜県と鹿児島県の姉妹県盟約締結

記事ID:0009285 2015年9月14日更新 広報課 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

 江戸時代中期の1755年(宝暦5年)、薩摩藩は岐阜県南部を流れる木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)流域の治水工事を完成させました。宝暦治水といわれるこの工事は、徳川幕府が薩摩藩に命じた堤防を作る工事で、非常に困難なものであったため、薩摩藩は多額の借金を抱え多くの犠牲者を出しました。
 流域に住む人々は、洪水に苦しむことが少なくなったことを喜び、工事に従事した薩摩藩士を「薩摩義士」と敬い、その偉業をたたえました。その精神的な絆をもとに、岐阜県と鹿児島県は、昭和46年7月27日に姉妹県盟約を結びました。

姉妹県盟約書

姉妹県盟約書の写真

 鹿児島県と岐阜県は、薩摩藩による木曽三川の宝暦治水工事以来薩摩義士の偉業により精神的つながりをきずなとして友好親善関係を深めてまいりました
今後さらに教育文化経済などの交流を通じて両県民の融和と繁栄を推進することを誓い本日ここに姉妹県としての盟約を結びました

昭和46年7月27日

岐阜県知事 平野三郎
鹿児島県知事 金丸三郎

 盟約締結後は、青少年の相互交流、スポーツ交流をはじめ、県職員・教員の相互派遣など、様々な分野で友好関係を深めています。また、10年毎に盟約確認書を取り交わしており、盟約40周年を迎えた平成23年には、記念式典の中で両県知事がさらなる友好を誓う「姉妹県盟約確認書」に署名を行いました。

姉妹県盟約確認書

姉妹県盟約確認書の写真

 鹿児島県と岐阜県は、宝暦年間に木曽三川の治水工事を完遂した薩摩義士の偉業をたたえ、その精神的な絆をもとに両県民の総意により昭和46年7月27日姉妹県としての盟約を結びました。
 以来、教育、文化、経済などの交流を通じて数多くの成果をおさめてまいりましたが、ここに40周年を迎えるに当たり、今後さらに友好を深め、両県の発展に寄与することを確認いたします。

平成23年5月24日

岐阜県知事 古田肇
鹿児島県知事 伊藤祐一郎

宝暦治水工事について

 木曽川、長良川、揖斐川の三大河川の合流する岐阜県南部は、江戸時代、大雨のたびに洪水に襲われ、多数の死者も出るなど、永年水害に悩まされ続けていました。このため、幕府は三大河川の改修計画書をつくり、そのお手伝い普請を薩摩藩に命じました。1753年(宝暦3年)12月25日のことです。お手伝い普請とは、工事の設計や監督などは幕府があたり、その下で命令を受けた藩が工事を行うもので、工事費の大部分は、お手伝いをする藩が負担しなければならない仕組みでした。
 命令を受けた薩摩藩では、家老の平田靱負(ひらたゆきえ)が総奉行となって約1,000人の藩士が工事にあたり、忍耐と苦労を重ね、その当時わが国で最も大きく最も難しいといわれた工事を、わずか1年半という極めて短い期間で完成させました。それだけに、いろいろな面で無理があり、この間に、病死した人やさまざまな重圧から切腹した人など、あわせて80数人の犠牲者を出したうえ、多額の借金をかかえこんだのです。
 薩摩藩にとっては、極めて大きな犠牲をはらった工事でしたが、木曽川流域の人々にとっては誠にありがたい贈り物でした。人々は洪水に苦しむことも少なくなり、豊かな実りの秋も迎えることができました。
 当時、最大の難工事といわれた油島堤防には、藩士たちが国もとの薩摩から松の苗木を取り寄せて植えたものだと伝えられる千本松原があり、その松は今では大きく枝を伸ばし、松林のなかに建立された治水神社とともに、薩摩義士の遺徳を偲ばせています。

濃尾平野を流れる現在の木曽三川の様子
濃尾平野を流れる現在の木曽三川の様子(写真提供(社)岐阜県観光連盟)

鹿児島県ホームページ「姉妹都市盟約 岐阜県」<外部リンク>

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