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今渡遺跡

今渡遺跡(いまわたり)

所在地

可児市今渡(かにしいまわたり)
地図<外部リンク>

時代

室町時代、江戸時代
今渡遺跡の調査区を西から撮影した写真
調査区近景(西から撮影)

発掘状況

 この遺跡は、木曽川により形成された低位段丘上に位置しています。昭和58年度に岐阜県教育委員会が、発掘調査を実施し、室町時代から江戸時代にかけての火葬墓29基、土葬墓57基、溝状遺構1条を発見しました。平成23・25年度は、土坑墓20基(火葬墓4基、火葬施設1基、土葬墓15基)と溝状遺構の延長部分を確認し、墓域が北側に広がることが判明しました。

発見した土坑墓と出土遺物

 今回の発掘区で発見した土坑墓20基から墓制の変化が3段階に区分できました。「I期」が15世紀代(室町時代)の火葬墓、「II期」が16世紀末から17世紀代で火葬墓と土葬墓の混在、「III期」が18世紀以降で土葬墓、という変遷をたどることが判明しました。埋葬に伴う副葬品として、火葬墓から陶器類、土葬墓から陶器、銭貨、煙管(きせる)、火打金(ひうちがね)などが出土しています。

火葬墓(室町時代中期〜江戸時代前期)

15世紀の火葬墓ST8の土層断面を北東から撮影した写真
ST8火葬墓(15世紀前半)土層断面(北東から)
 発見した5基の火葬墓から、火葬する風習が15世紀前半から17世紀中頃まで続くことが判明しました。ST8火葬墓は、出土した焼骨による年代測定の結果15世紀前半のもので、今回の調査で最も古い墓であることがわかりました。この火葬墓には蔵骨器がなく、焼骨を容器に入れずに埋納するため、長さ約6cm幅約30cm、検出面からの深さ5cmの比較的小さく浅く掘られた楕円形の墓でした。

火葬施設(室町時代中期)

15世紀の火葬墓ST9を南西から撮影した写真
ST9火葬墓(火葬施設、15世紀中頃)(南西から)
 底面に円礫を敷いた火葬施設と考えられる遺構が1基ありました。埋土からは多量の焼骨や炭化物が出土し、穴の壁には被熱痕がありました。底面の礫表面はタールがこびりつき、円礫周囲の四隅から鉄釘が出土しています。鉄釘の出土位置から考えて長軸70cm短軸50cmの棺桶を礫の上に置いて火葬したと考えられます。出土した人骨は細片のため部位が判明しているものは少なく、何体火葬されたかは不明ですが、頭骨や大腿骨などの主要な骨片が出土していることから、火葬後にそのまま土をかぶせて埋葬されたと考えられます。出土遺物から15世紀中頃と考えられます。

土葬墓(室町時代〜江戸時代)

17世紀の土葬墓の土層断面を北東から撮影した写真
ST2土葬墓(17世紀)土層断面(北東から)
 当遺跡では、16世紀末から土葬墓が現れます。土葬墓は遺体をそのまま埋葬するため火葬墓より大型になり、全長8cmから90cm、幅50cmから60cm、深さ40cmの平面形が楕円形になります。埋め戻した上面にのみ礫が並べられていました。

土葬墓(江戸時代)

18世紀の土葬墓を北西から撮影した写真
ST13土葬墓(18世紀)(北西から)
 18世紀代になると長さ1mから1m30cm、幅・深さ共に1m前後の隅丸方形の墓になり、その後は円形に変わっていきます。地面を掘り起こした土や多量の円礫を乱雑に埋め戻しています。穴の底面は段丘の砂礫層まで達しているため、その層に含まれる自然礫が露出していました。

墓域の境を示す区画溝土葬墓(江戸時代)

 群集する土坑墓群の東側にある溝状遺構(SD1)は明治時代の地割と一致します。昭和58年度調査では、この溝状遺構から江戸時代の遺物が出土しているため、比較的新しいものと考えられていました。今回の調査では、15世紀の火葬墓と溝状遺構の主軸方向がほぼ一致し、土坑墓の分布が溝状遺構の西側に集まっていることから、この地で造墓を行う当初から墓域の東側を区切るための区画溝であったと考えられます。
昭和58年度に発見した区画溝の写真
昭和58年度に発見した区画溝(東から)

平成25年度に発見した区画溝の延長部分の写真
今回発見した区画溝の延長部分(北から)

出土した遺物の紹介

  • 山茶碗(火葬墓出土):中世
  • 陶器(土葬墓出土):中世

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