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3小武弥三郎宛信長朱印状

岐阜県歴史資料館授業にも使える当館所蔵史料

No.3小武弥三郎宛信長朱印状

小武弥三郎(こたけやさぶろう)宛信長朱印状
・・・・信長による本領安堵状、「天下布武」印章のなぞ

小武弥三郎宛信長朱印状
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【岐阜県歴史資料館購入文書】

内容

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解説

天正元年(1573年)、信長は40歳になった。この年は、前年から対戦している東方の脅威であった武田信玄が4月2日、信州駒場で死去した。同年、将軍足利義昭は、信長の入京を阻止しようと、三井寺光浄院暹慶(せんけい)に旗揚げさせた。暹慶は、一向宗の門徒達を集めて石山や今堅田(大津市)に砦を築いた。信長は柴田勝家、明智光秀らに命じて両砦の敵を撃破した。義昭は二条城に堀を掘って立て籠もったが、信長に威嚇され無条件降伏した。義昭は山城槇島城に再び立て籠もったが、信長に攻められて降伏し、室町幕府は滅びた。
7月28日、信長は天正と改元し近江の浅井氏、朝倉を滅ぼし9月には伊勢長島一揆を攻め全滅させた。
この年の9月から10月にかけて信長は、参戦等で戦功のあったものへの恩賞や領地安堵の書状を発行している。例えば、越前佐々木蔵人には、本知七石、越前橋本本三郎左衛門慰には、六石の本知安堵状を発給している。
小武氏も同様である。信長がこのような小領主というか有力百姓というべき土豪層とも直接的な主従関係をもって用意万端、周到なプランで臨んでいたことがわかる。
信長の強さは、こうした土豪層を掌握して、有力武将の配下に与力として組み入れる与力制度にあった。
これら土豪層に与えた朱印状には、越前小武弥三郎宛安堵朱印状にもみられるように、「天下布武」の印章がある。この印章から、美濃を平定した信長の次の目標は、天下統一であり、武力で天下を治めようとした信長の強い決意がわかる。

用語について

本知→開発以来、代々相伝してきた本領のこと。もとからの知行地.
拾石→10石のこと。一石は米俵2俵半(150kg)よって、約、米俵25俵である。一石は大人が食べる一年分の米。
知行→田畑などの所領を所有し、支配すること。
如件→文書の書き止め文言。
朱印状→朱印を押した書状。特に戦国時代以後、将軍や武将が所領安堵(あんど)・海外渡航許可などの際に発行した公文書で、花押(かおう)の代わりに朱印を押したもの。

史料の授業等への利用について

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