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災害体験談2

伊勢湾台風(1959年/昭和34年)

各務原市在住男性(当時各務原市消防団員)

Q:あなたが体験された災害はなんですか。

昭和34年の伊勢湾台風。私は、消防団の新米隊員として、倒壊家屋からの人命救助、ポンプによる排水作業等を行った。第2室戸など、これまでにいくつか台風を経験したが、伊勢湾台風ほどひどい風が吹いたことはなかった。まわりで全壊した家は5軒程度であったが、屋根瓦が飛んだり、トタンが飛んだりと、ほとんどの家が何らかの被害を受けた。

Q:災害当時あなたは何をしていましたか。

私は、親父とトビラを押さえるなどして強風から家を守っていたが、これはこれまでの台風とは違うと感じていた。そこで、ヘルメットをかぶり、さらしをまいてハッピを羽織って消防団活動に従事した。立っていられない風の中で、火の見ヤグラに登って、半鐘をならした。風があまりに強く、先輩方は昇ることすらままならなかったので、当時若かった私が率先して実施した。

Q:消防団員として、どのような活動されましたか。

家の外を見てみると、近所にあるはずの家が、風にあおられて倒壊していた。救出のための道具はなにもなかったが、消防団員15名ほどで倒壊した家屋の中から、柱を引き抜き、てこの要領でがれきを持ち上げておばあさんを助け出した。しかし、その人はすでに亡くなられていた。、同じ家の中に出産のため帰省していた娘さんがいたが、たまたま畳を積み上げていたため、スペースができ家につぶされずに済んだ。六軒消防団は、人命救助活動で当時の蘇原町長から感謝状をもらった覚えがある。

三柿野が冠水したので排水のため助けて欲しいとの要請が消防団にあった。私はオート三輪を持っていたので、三柿野まで車を走らせたが、境川が氾濫して橋が流されて通れず、電線は落ち、電柱や松が至るところで倒れて、現場までひどく時間がかかった。ポンプで水を掻き出したが、なかなか水位は下がらなかった。

Q:そのほかに記憶に残っていることはありますか。

叔父がやっていた映画館のトタン屋根がビュンビュンかなりの距離飛んでいき、イモ畑の至る所に散乱していた。当時は今ほど家がたっておらず、辺り一面私は、オート三輪でトタンを拾いを行った。

Q:伊勢湾台風によって、一番つらかったことは何ですか。

最初の半月が一番つらかった。まず、電気が半月つながらなかった。外灯も少なく、夜になると真っ暗だった。また、夜は夜警を半月ほど繰り返した。垂れ下がった電線を盗む電線ドロボウがよく出た。水は、町営水道がすぐに復旧したし、井戸もあったので苦労した覚えはない。ガスはプロパンガスの供給もすぐ復旧したし、材木燃料がいくらでもあったので、やはり困った覚えはない。

Q:伊勢湾台風災害から学んだことはなんですか。

広域的な災害が発生した場合には、まず地元を守らなければならない。消防団員不要論なども出たが、こういった経験から、地域の消防団の必要性を痛感している。災害があると、消防団のありがたみがよくわかる。

地域で普段から予防活動を行うことが重要。となりに誰が住んでいるのか、どこで寝ているのかなど、お互い確認しあうことが、災害時の「共助」につながると思う。

Q伊勢湾台風の経験を教訓として、後世に伝えたいことはなんですか。

自分たちの郷土は自分たちで守らなければいけない。

人の助けを待つ「受け身」ではなく、「自助」「共助」の精神で率先して地域を守って欲しい。

Q:昭和の東南海・南海地震の記憶はありますか。

小学校2年生の時に、祖父と一緒に畑仕事をしていたときに、地震があったので、すぐに竹藪に逃げ込んだ。余震が5分程度の間隔で何度もあった。

家が倒れたようなことはなかったが、行き塚の家で瓦がずれていたと記憶している。
当時は火の始末について、小学生にまで心構えが浸透していた。瓦製で中に練炭を入れてあたためる「バンコ」というこたつがあった。火災予防のため地震の際には、各自それを必ず持ち出すように言われていた。

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