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南海道地震(1946年昭和21年)

戦後復興途上にあった国民の物質的・精神的に大きな衝撃を与えた。

 昭和21年12月21日午前4時19分、強震が起きた。岐阜測候所の発表によれば、紀伊半島西南方の北緯123度、東経135度の海上を震央とするマグニチュード8.1の地震であった。この地震は、奥羽地方の北部と北海道を除くほとんどの地域で有感観測され、関東大震災を上回る規模のものであった。とくに強震であったのは、和歌山・徳島・高知・三重・愛知・岐阜の各県である。被害は全体で、死傷者・行方不明6603人、全半壊家屋3万5105戸、焼失家屋2598戸であった。また、地震にともなう津波は、西は日向灘から東は東京湾にかけて発生した。この地震は、戦後の復興途上にあった国民の物心両面に大きな衝撃を与えるものであった。

 

○高潮で洗われた海南市と大火になった新宮市

 和歌山県の被害は、地震そのものよりも津波や火災発生によるものがはるかに大きかった。まず、全市が高潮で洗われた海南市の状況は次のようであった。

 「午前5時半ごろ、和歌浦湾方面から第1波が押し寄せ、海岸線一帯の家屋は床下浸水した。ついで40分後、第2波が堤防を決壊し、濁流はたちまち全市の家屋を洗い、樹木を根こそぎにし、すべてのものをのみ込んだ。また、造船所に止めてあった船が波に押し流され、家々を粉みじんにしてしまった。およそ一丈の高さの波浪はあらゆるものをのみ尽くして、今度は音をたてて引いていった。猛威を振るった第2波がおさまって息つく暇もなく、引き続いて第3波、第4波、第5波が来襲。午前8時28分、第6波を最後に津波は終わった。しかし、海南市は骨格を残すのみの無惨な姿と化したのである。」(岐阜タイムス)

 次に新宮市の火事は、激震直後に出火し、約17時間にわたって燃え続け、全戸数の34%にあたる2398戸を焼失させ、市内の繁華街はほとんど全滅した。その被災者は8300人にのぼった。

◇昭和の南海道地震(南海地震)の被害

○被害は広範囲に及ぶ

 南海道地震による各地の震度は次のとおりである。

 強震=潮ノ岬・和歌山・橿原・津・彦根・岐阜・大分

 中震=清水・米子・大阪・京都・宮津・亀山・敦賀・名古屋・浜松・飯田・松本・甲府・熊本・前橋

 弱震=浜田・御前崎・静岡・船津・三島・伊東・輪島・長野・追分・横浜・鹿児島

 軽震=宇都宮・小名浜・東京

 微震=福岡・柿岡

 

○大きかった四国の被害

 この地震で最も大きな被害をこうむったのは四国地方であった。なかでも高知県西部は、音信不通でしばらく消息がつかめなかった。24日の「朝日新聞」は、22日の夜、木炭船で高知港にたどりついた技官によってもたらされた第一報として「土佐中村、瞬時に八割全壊」「惨状は言語に絶す」と報じている。

 また、徳島県の被害については「最もひどかったのは浅川で、満足な家は一軒もない。田畑はすべて砂河原と化し、町の道路という道路は、家のかけらで足の踏み場もない。人々はなべ一つぶらさげて、たき出し米にありつこうと右往左往している状況だ。沖には数千の屋根が、破船の材木などとともにプカリプカリと浮いている。」と惨状を報じた。

 

○西濃の被災地を行く

 この地震で甚大な被害を受けた西濃地方にいち早く入った岐阜のタイムスの特派員は、被災地の様子を次のようにつづっている。

「高田署管内にはいってみると、なるほど被害が大きい。この署の管内だけでも全壊81、半壊77、焼失1。民家が押しつぶされ、そして焼けていて、しかも倒れた建物が、造作の大きい農家の母屋だから、ひときわ惨状が目を引く。へし折られたはりの下には、俵を破った米があたりにはね飛んでいるし、おしくだかれた桐だんすの引き出しからいく抱えもある贅物などがかべ土に汚れている。幸いどの集落とも火災の跡が見られなかったのは、この地方の人が、過去の経験から、地震を感じると同時に火の気を消して避難したからだ。炊き出しの米を牛車に積んで行く制服の警防団員たちを追い越した。養老郡にはいると、踏まれた蛙のように押しつぶされた民家や納屋が2,3件ずつどこの集落にもみられる。警防団員やり災者など、つぶされた家具類を大八車に積んで、凍りつく道を避難所へ急ぐ足どりが、今朝の恐ろしさにまだふるえているようだ。笠郷村に行くと、今までの集落などは問題にならないほどひどい。19年のともひどくやられたが、今年ほどではなかった。この悲劇もみんな牧田川に沿っている集落の宿命です・・・と同村の古老杉野研三さんは語った。揖斐川を渡って海津郡今尾に入ったが、本町通り200軒のうち、民家の倒壊14戸といわれ、船町通り300軒の約1割以上は危険のために住めないという荒れ方である。田舎の街だが、家並がそろっているので被害の程度はとくに大きいように思われた。各町村役場では救援の米や調味料などを分配していたが、農地委員選挙のために大混雑を呈していて、衣料などは数日中に配れないという」(「岐阜タイムス」)

 

○その他の地域

 特派員の報告には記されていないが、この地震で養老郡池辺村根古地(養老町)の古さつ天照寺の本堂が全壊した。天照寺は薩摩義士が宝暦治水工事の際に本陣としたという由緒をもつ寺である。また、養老郡上多度村小倉の上多度小学校の校舎が倒壊(北舎倒壊、南舎半壊)して使用不能となった。なお、同校の北舎と南舎をつなぐ渡り廊下は東南海地震の際に倒壊しており、2度にわたって被災したのであった。その後同校は、近くの寺院など7か所に仮校舎を設けて授業を行っている。

■岐阜市

 バラックの壁が落ち、ガラスの障子が破れるなどの被害があった。全壊3戸、半壊2戸

■東濃地方

 陶磁器の損害が約400万個にのぼった。

■恵那地方

 時計の振子が止まり、郡内一帯に停電したが人畜に影響はなかった。

■高山地方

 弱震で、戸棚のものが落ち、人が飛び出す程度で、被害はなかった。

◇震災その後

○救急食糧の放出

 南海道地震のり災者に対して、県は次のような緊急対策をとった。

<食糧>

 乾燥味噌・しょう油などのほかに軍政部の許可を得て携帯食糧を放出した。ことに、元軍需物資である「患者用綜合口糧」を、地震で家屋が破壊し食糧に困窮する者及び負傷者に給与した。

<医療品関係>

 すでに笠松では日本医療団が活躍していたが、南濃の被災地に県の救護班のほかに日赤看護婦10人を派遣した。

<住宅関係>

 木材は現地の施設組合に適時放出させるとともに、かわら・くぎ・かすがい・ローソク・マッチなども放出した。復旧資材は、全壊家屋1戸に対して10石、半壊家屋には5石の割合で配給した。また、くぎは全壊家屋に1戸当たり1貫728匁、かすがいは1貫81匁、半壊家屋に対してはくぎ864匁、かすがい540匁を配給した。

<衣料>

 備蓄品が底をついているため対策がたてられず、現地において自給することにした。

 

○震災救済物資の配分

 商工省の現地震災対策本部では、被害が大きかった兵庫県ほか5県に対し緊急復旧物資ならびに救済物資を配分することにした。これに基づき岐阜県へ配分されたのは、次のようであった。毛布3000枚、メリヤス肌着上下1500組、布団同1200組、作業衣500組、作業シャツ500組、手ぬぐいタオル2700組、足袋2300足、靴下1200足、手袋400双、くぎ1500、針金鉄線1300キロ、亜鉛鉄板440枚、シャベル・スコップ110挺、電球1500球、マッチ7トン、石けん4500個、茶碗4900個、どんぶり1600個、コンロ1500個、皿1800枚、なべ700個、釜359個、弁当箱350個しゃくし350本、チリリシギ350個、フライパン350個、十能(じゅうの)350個。これらの救済物資は無償ではなく、有償で配給されたのであった。繊維製品の単価をみると、タオル2円98銭、靴下4円18銭、手袋18円9銭、白足袋11円96銭、作業シャツ1号31円54銭である。このほか釜53円70銭、なべ大16円80銭、なべ小14円、弁当箱10円50銭、しゃくし2円10銭などで、生活必需品を調えるのに相当の経費を要した。

 

○知事の震災見舞金品

 震災り災者に対して県知事から次のような見舞金品が贈られた。また、日本赤十字社岐阜支部から南濃地方事務所長あてに「管内罹災の方々に可然(しかるべき)贈呈方御取計下さる様」と見舞金2万5300円が贈呈されたのをはじめ、多くの人々から見舞金が寄せられた。

1,弔慰金死者1人に金100円

2,見舞金傷者1人に金50円

3,見舞品住家全半壊世帯に軍手1双・手ぬぐい1筋・タバコ10本・住家全壊世帯に作業着1着

 

○義捐金の募集

 岐阜県と同胞援護会岐阜県支部が主催した義捐金募集は、県内全域にわたって行われ、被災地にまで要項が配布された。り災者や生活困窮者は除かれたが、「義捐金額はなるべく1戸に付き、3円以上」とうたわれた。また、東海夕刊と同胞援護会県支部は、越冬に苦しむ人々にせめてもの隣人愛として慰問金を贈ろうと、新進女流歌手「小野巡とその楽団」を招いて公演を行い、入場料の総額をり災地に贈った。こうした震災の見舞金や義捐金の配分は、被害種別に基準点が設けられ、1点あたり22円60銭を基準額として割り当てられた。被害種別基準点数は、死者2点・傷者1点・住家全壊10点・同半壊5点・非住家全壊2点・同半壊1点であった。